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LUMINESCENCE:PHANTOM ECHO  作者: ハナサワリキ
一・崩壊
3/48

知らない世界

 ぽつ、ぽつ。


 天井から滴る水の音だけが、世界に残された唯一の音だった。

 その単調なリズムが、まるで時間を刻む時計のように、耳の奥に染み込んでいた。


 喉の渇きは、湧き水でどうにか凌げている。

 けれど──


 腹の奥に広がる空腹は、とうに限界を超えていた。

 何も食べられない苦痛は、やがて鈍い感覚に変わり、今はただ、重たい鉛のような倦怠感だけが全身を支配していた。


 龍之介は、壁にもたれていた。


 瞼が重い。

 視界は暗闇に霞み、輪郭がぼやける。


 ──でも。


 そのすぐそばに。


 綾が、いた。


 体を丸め、浅い呼吸を繰り返している。

 時折、かすかに指先が動く以外、声を発することはなかった。


「……綾」


 かすれた声で呼んだ。


 肩が、微かに揺れる。


 ──生きている。


 それだけが、唯一の救いだった。


 けれど。

 このままじゃ──


「……くそ」


 喉が掠れ、声にならない言葉が漏れた。


 ──どうにかして、ここから出なきゃならない。


 でも。


 どうやって?


 思考を巡らせようとしても、霧のように意識が霞む。

 身体が、鉛のように重い。


 ──もう、立てるのかすらわからない。


 龍之介は、ひとつ荒い息を吐いた。

 そして、無意識にポケットへと手を差し込む。


 指先に触れたのは、冷たい金属の感触。


 小さな──でも確かな温もりを帯びた、冷たさ。


 龍之介は、それをそっと握りしめた。

 そして、ゆっくりと手のひらに取り出す。


 ──銀の鈴。


 月の雫のように、藍碧色の光を微かに受けて鈍く輝いていた。


「……ばあちゃんからもらった鈴……」


 ぽつりと呟く。


「……ばあちゃんも、母ちゃんも……心配してるだろうな……」


 その言葉に、わずかな反応が返った。


「……その鈴……」


 か細い、けれど確かに届いた声。

 龍之介は、顔を綾に向ける。


 ぼんやりとした綾の瞳が、鈴を見つめていた。


「……あぁ」


「ばあちゃんからもらった……お守り」


 綾の瞼が、ゆっくりと瞬く。

 まるで、その音を心で聞くように──


 ──その瞬間。


 龍之介の意識が、ふっと遠のいた。



「ただいま……」


 玄関を開けると、懐かしい匂いがした。

 台所から味噌汁の香りが微かに漂っている。


「まあ、龍ちゃん」

「随分と泥だらけじゃないか」


 祖母の声が、柔らかく迎えてくれた。


 龍之介は、靴を脱ぎながら口をつぐんだ。

 視線が、汚れたシャツと擦りむいた膝に落ちる。


「……別に」


 祖母の瞳が、優しく細められる。


「怪我してるじゃないか」


 そう言うと、祖母は流しへ向かい、タオルを濡らした。


「こっちへおいで」

「傷を拭こう」


 龍之介は、少し気まずそうにしながらも、祖母の前に座った。


 濡れたタオルが、そっと膝に触れる。


「っ……」


 傷口がしみて、思わず顔をしかめた。


「どうしたんだい?」


 祖母の問いかけに、龍之介は少しだけ迷った。

 けれど、ぽつりと口を開く。


「……いじめられてるやつがいた」


 祖母の手が、一瞬止まった。


「……それで?」


「父ちゃんが言ってた」

「困ってるやつがいたら、助けろって」


 祖母は、黙って続きを待つ。


「だから、助けた」


「でも……」


 龍之介は少しだけ顔を伏せる。


「そいつ、助けたのに」

「『余計なことするな』って言ったんだ」


 祖母の唇が、ふっとわずかに動いた。


「……俺、余計なことをしたのか?」


 祖母は、ゆっくりとタオルを畳んだ。


 そして、優しい声で語りかける。


「……お前の父ちゃんもね」

「いつも、迷いながら生きていたよ」


 龍之介は、驚いたように顔を上げる。


「父ちゃんが……?」


 祖母は、ふっと視線を横へ向けた。


 そこには、一枚の遺影があった。


 制服を着て、敬礼をする男の笑顔。

 優しくて、どこか誇らしげな目元。


「強い子だった」


「優しい子だった」


「だからこそ──」


「迷うことも、多かったんだよ」


 祖母は、そっと引き出しを開いた。


 そして、静かに手のひらに何かをのせて、龍之介の前に差し出す。


 ──銀の鈴。


「これはね」

「ばあちゃんが、大切にしてたお守りさ」


 龍之介は、その小さな鈴を黙って見つめた。


「龍ちゃんは、優しい子だ」

「だからきっと、これからも、迷ったり、悩んだりするだろう」


「……そんな時は」


「この鈴を鳴らしてごらん」


「きっと、自分の進むべき道が、わかるはずだよ」


 龍之介は、そっと鈴を握った。


 冷たい金属の感触の中に、どこか不思議な温もりがあった。


 そして、恐る恐る、それを揺らす。


 ──チリン。


 その音は、心の奥底に届いた。


『龍之介』


『お前は俺の息子だ』


『だから、お前は負けない』


『強さってのは、腕っぷしじゃない』


『誰かのために、立ち上がれることだ』


『困ってる人がいたら──』


『迷わず、助けてやれ』


『……それが、本当に強い男だ』


 

 「……ん」


 意識が、重たい闇の底から浮かび上がる。


 ぼんやりと、視界に揺らめく藍碧色の光が映る。


 すぐそばに──


 綾がいた。


「……龍ちゃん」


 かすれた声が、心の奥を叩くように届く。


 龍之介は、手のひらを開いた。


 そこにあるのは──


 ばあちゃんからもらった、小さな銀の鈴。


「……綾」


 掠れた声で、もう一度、名を呼ぶ。


 ──チリン。


 小さな音が、二人の間をそっとつないだ。


 その瞬間。


 綾の瞳が、わずかに見開かれた。


 藍碧色の光が、瞳の奥で微かに揺らめく。


「……ぁ……」


 綾の唇が、小さく震えた。

 そして──


 全身が、ふっと硬直する。


 まるで時間が止まったかのように。

 息をすることすら忘れたような、張り詰めた静寂。


「どうした、綾? だいじ──」


 ──視界が、ぐらりと揺れた。


 音が遠のく。

 まるで、水の中に沈んでいくような静寂が広がった。


 呼吸が浅くなる。

 鼓動だけが、耳の奥に強く響く。

 全身が、冷たい闇に溶けていくような感覚──


 「意識が、沈む……」


 ──暗闇。


 無数の光の線が、流れていた。

 その線の向こうに、龍之介の姿が見えた。


 けれど、それはひとつではなかった。


 無数の──龍之介。


 瓦礫を動かそうとする龍之介。

 ──しかし、岩が崩れ、押し潰される。


 出口を求め、駆ける龍之介。

 ──閉ざされた壁に阻まれる。


 何度も。

 何度も。


 失敗、失敗、失敗──。


 だが、その中に──


 たったひとつだけ。


 ──龍之介が、生き延びる未来があった。


 ──視界が、弾けた。


 強い衝撃を受けたように、意識が現実へ引き戻される。


 現実の音が、一気に押し寄せる。

 耳鳴りが響き、喉が詰まるような息苦しさが襲った。


「──…ょうぶか!?」


 綾は、はっと大きく息を吸い込んだ。


 目の前に──


 焦った顔の龍之介がいた。


「綾!? 大丈夫か!?」


 ──息が、苦しい。


 長い間、息を止めていたかのような感覚。

 それでも、綾は喉を震わせ、かすれた声を絞り出した。


「龍ちゃん……この岩を……押して……」


「え?」


 龍之介は、一瞬、言葉を失う。


 ──この岩は、何度も試した。

 押しても、叩いても、叫んでも。

 びくともしなかった。


 だけど。


 綾の目が、真っ直ぐだった。

 苦し紛れの言葉じゃない。


 本気で──「ここだ」と言っている。


「……無理だろ」


 喉の奥で、かすれた声が漏れる。


「何度もやったんだ……」

「意味あんのか、これ……?」


 押したって、叩いたって、動かなかった。

 あの冷たい岩は、何度も龍之介を拒んだ。


 ──でも。


「信じて」


 その一言が、龍之介の中で何かを突き動かした。


「……わかった」


 龍之介は、足をしっかりと踏みしめた。

 渾身の力を込め、歯を食いしばる。


「うおおおおおおおおッ!!!」


 岩は──動かない。


 全身が、悲鳴を上げる。

 肩が軋み、背中に激痛が走る。

 爪が岩に食い込み、血の匂いが微かに鼻をつく。


「……っ……これ、意味あんのかよ……っ!」


 それでも。


 綾が、笑った。


「──龍ちゃん」

「ありがとう」


 その言葉が、熱を運ぶ。


「……お前がそう言うなら……」


「信じるさ……!!」


 全身が、燃えるように熱くなった。


 視界が、研ぎ澄まされる。

 洞窟の光が、濃くなる。


 ──身体の奥から、何かが湧き上がる。


 血管を駆け巡る熱。

 筋肉の軋みすら、力へと変わっていく感覚。


「……なんだよ、これ……」


 龍之介の目が、かすかに藍碧色に光った。


「うおおおおおおおおッ!!!」


 ──ゴロ……ッ


 鈍い音とともに、岩が、わずかに軋んだ。


「……ッ!!」


 足が、地を押し出す感触を捉える。

 全身が軋み、腕が引き裂かれそうになる。


 けれど──


 ゴゴゴゴ……ッ


 岩が、わずかに開く。


 ──冷たい風が、頬を撫でた。


「……!!」


 光が──眩しかった。


 長く閉ざされていた世界から、一気に光が降り注ぐ。


 湿った洞窟の空気とは違う、乾いた風が肌を撫でる。


 龍之介は、一歩を踏み出した。

 綾も、その背を追うように続く。


 夏の太陽の眩しさに、目が眩む。

 肌を刺す日差しが妙に懐かしい。

 林の中の緑の匂い、蝉の鳴き声、波の音……いつもの街に戻れる……。

 

 やっと目が慣れて、久しぶりの青波の街に目を向ける。

 

 だが──そこに、町はなかった。


 目の前に広がっていたのは、焼け焦げた荒野だった。


 町は、消えていた。


 建物の残骸すら、ほとんどない。

 地面はひび割れ、黒く焦げ、灰が積もっていた。


 まるで、全てが燃え尽きて、吹き飛ばされたかのように──。


「……これ……青波……?」


 綾の声が、かすかに震えた。


 知っている景色じゃない。

 ──知っているはずが、ない。


 龍之介は、呆然と立ち尽くしたまま、ただ静かに、目の前の光景を見つめていた。


 焦げた匂いが、鼻を刺した。

 喉の奥が、焼けるように痛む。


 ──音が、ない。


 波の音が、消えた。


 風が吹けば、崩れかけた鉄筋が軋む音だけが、乾いた空に響いた。


「……お父さん……お母さん……?」


 綾の声が、かすかに震えた。


 龍之介の心臓が、きつく締め付けられる。


「──母ちゃん……」


「……ばあちゃん……?」


 足が、一歩前に出た。


 足元の灰が、ふわりと舞い上がる。


 それは、燃え尽きた何かの、名残のように。

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