知らない世界
ぽつ、ぽつ。
天井から滴る水の音だけが、世界に残された唯一の音だった。
その単調なリズムが、まるで時間を刻む時計のように、耳の奥に染み込んでいた。
喉の渇きは、湧き水でどうにか凌げている。
けれど──
腹の奥に広がる空腹は、とうに限界を超えていた。
何も食べられない苦痛は、やがて鈍い感覚に変わり、今はただ、重たい鉛のような倦怠感だけが全身を支配していた。
龍之介は、壁にもたれていた。
瞼が重い。
視界は暗闇に霞み、輪郭がぼやける。
──でも。
そのすぐそばに。
綾が、いた。
体を丸め、浅い呼吸を繰り返している。
時折、かすかに指先が動く以外、声を発することはなかった。
「……綾」
かすれた声で呼んだ。
肩が、微かに揺れる。
──生きている。
それだけが、唯一の救いだった。
けれど。
このままじゃ──
「……くそ」
喉が掠れ、声にならない言葉が漏れた。
──どうにかして、ここから出なきゃならない。
でも。
どうやって?
思考を巡らせようとしても、霧のように意識が霞む。
身体が、鉛のように重い。
──もう、立てるのかすらわからない。
龍之介は、ひとつ荒い息を吐いた。
そして、無意識にポケットへと手を差し込む。
指先に触れたのは、冷たい金属の感触。
小さな──でも確かな温もりを帯びた、冷たさ。
龍之介は、それをそっと握りしめた。
そして、ゆっくりと手のひらに取り出す。
──銀の鈴。
月の雫のように、藍碧色の光を微かに受けて鈍く輝いていた。
「……ばあちゃんからもらった鈴……」
ぽつりと呟く。
「……ばあちゃんも、母ちゃんも……心配してるだろうな……」
その言葉に、わずかな反応が返った。
「……その鈴……」
か細い、けれど確かに届いた声。
龍之介は、顔を綾に向ける。
ぼんやりとした綾の瞳が、鈴を見つめていた。
「……あぁ」
「ばあちゃんからもらった……お守り」
綾の瞼が、ゆっくりと瞬く。
まるで、その音を心で聞くように──
──その瞬間。
龍之介の意識が、ふっと遠のいた。
「ただいま……」
玄関を開けると、懐かしい匂いがした。
台所から味噌汁の香りが微かに漂っている。
「まあ、龍ちゃん」
「随分と泥だらけじゃないか」
祖母の声が、柔らかく迎えてくれた。
龍之介は、靴を脱ぎながら口をつぐんだ。
視線が、汚れたシャツと擦りむいた膝に落ちる。
「……別に」
祖母の瞳が、優しく細められる。
「怪我してるじゃないか」
そう言うと、祖母は流しへ向かい、タオルを濡らした。
「こっちへおいで」
「傷を拭こう」
龍之介は、少し気まずそうにしながらも、祖母の前に座った。
濡れたタオルが、そっと膝に触れる。
「っ……」
傷口がしみて、思わず顔をしかめた。
「どうしたんだい?」
祖母の問いかけに、龍之介は少しだけ迷った。
けれど、ぽつりと口を開く。
「……いじめられてるやつがいた」
祖母の手が、一瞬止まった。
「……それで?」
「父ちゃんが言ってた」
「困ってるやつがいたら、助けろって」
祖母は、黙って続きを待つ。
「だから、助けた」
「でも……」
龍之介は少しだけ顔を伏せる。
「そいつ、助けたのに」
「『余計なことするな』って言ったんだ」
祖母の唇が、ふっとわずかに動いた。
「……俺、余計なことをしたのか?」
祖母は、ゆっくりとタオルを畳んだ。
そして、優しい声で語りかける。
「……お前の父ちゃんもね」
「いつも、迷いながら生きていたよ」
龍之介は、驚いたように顔を上げる。
「父ちゃんが……?」
祖母は、ふっと視線を横へ向けた。
そこには、一枚の遺影があった。
制服を着て、敬礼をする男の笑顔。
優しくて、どこか誇らしげな目元。
「強い子だった」
「優しい子だった」
「だからこそ──」
「迷うことも、多かったんだよ」
祖母は、そっと引き出しを開いた。
そして、静かに手のひらに何かをのせて、龍之介の前に差し出す。
──銀の鈴。
「これはね」
「ばあちゃんが、大切にしてたお守りさ」
龍之介は、その小さな鈴を黙って見つめた。
「龍ちゃんは、優しい子だ」
「だからきっと、これからも、迷ったり、悩んだりするだろう」
「……そんな時は」
「この鈴を鳴らしてごらん」
「きっと、自分の進むべき道が、わかるはずだよ」
龍之介は、そっと鈴を握った。
冷たい金属の感触の中に、どこか不思議な温もりがあった。
そして、恐る恐る、それを揺らす。
──チリン。
その音は、心の奥底に届いた。
『龍之介』
『お前は俺の息子だ』
『だから、お前は負けない』
『強さってのは、腕っぷしじゃない』
『誰かのために、立ち上がれることだ』
『困ってる人がいたら──』
『迷わず、助けてやれ』
『……それが、本当に強い男だ』
「……ん」
意識が、重たい闇の底から浮かび上がる。
ぼんやりと、視界に揺らめく藍碧色の光が映る。
すぐそばに──
綾がいた。
「……龍ちゃん」
かすれた声が、心の奥を叩くように届く。
龍之介は、手のひらを開いた。
そこにあるのは──
ばあちゃんからもらった、小さな銀の鈴。
「……綾」
掠れた声で、もう一度、名を呼ぶ。
──チリン。
小さな音が、二人の間をそっとつないだ。
その瞬間。
綾の瞳が、わずかに見開かれた。
藍碧色の光が、瞳の奥で微かに揺らめく。
「……ぁ……」
綾の唇が、小さく震えた。
そして──
全身が、ふっと硬直する。
まるで時間が止まったかのように。
息をすることすら忘れたような、張り詰めた静寂。
「どうした、綾? だいじ──」
──視界が、ぐらりと揺れた。
音が遠のく。
まるで、水の中に沈んでいくような静寂が広がった。
呼吸が浅くなる。
鼓動だけが、耳の奥に強く響く。
全身が、冷たい闇に溶けていくような感覚──
「意識が、沈む……」
──暗闇。
無数の光の線が、流れていた。
その線の向こうに、龍之介の姿が見えた。
けれど、それはひとつではなかった。
無数の──龍之介。
瓦礫を動かそうとする龍之介。
──しかし、岩が崩れ、押し潰される。
出口を求め、駆ける龍之介。
──閉ざされた壁に阻まれる。
何度も。
何度も。
失敗、失敗、失敗──。
だが、その中に──
たったひとつだけ。
──龍之介が、生き延びる未来があった。
──視界が、弾けた。
強い衝撃を受けたように、意識が現実へ引き戻される。
現実の音が、一気に押し寄せる。
耳鳴りが響き、喉が詰まるような息苦しさが襲った。
「──…ょうぶか!?」
綾は、はっと大きく息を吸い込んだ。
目の前に──
焦った顔の龍之介がいた。
「綾!? 大丈夫か!?」
──息が、苦しい。
長い間、息を止めていたかのような感覚。
それでも、綾は喉を震わせ、かすれた声を絞り出した。
「龍ちゃん……この岩を……押して……」
「え?」
龍之介は、一瞬、言葉を失う。
──この岩は、何度も試した。
押しても、叩いても、叫んでも。
びくともしなかった。
だけど。
綾の目が、真っ直ぐだった。
苦し紛れの言葉じゃない。
本気で──「ここだ」と言っている。
「……無理だろ」
喉の奥で、かすれた声が漏れる。
「何度もやったんだ……」
「意味あんのか、これ……?」
押したって、叩いたって、動かなかった。
あの冷たい岩は、何度も龍之介を拒んだ。
──でも。
「信じて」
その一言が、龍之介の中で何かを突き動かした。
「……わかった」
龍之介は、足をしっかりと踏みしめた。
渾身の力を込め、歯を食いしばる。
「うおおおおおおおおッ!!!」
岩は──動かない。
全身が、悲鳴を上げる。
肩が軋み、背中に激痛が走る。
爪が岩に食い込み、血の匂いが微かに鼻をつく。
「……っ……これ、意味あんのかよ……っ!」
それでも。
綾が、笑った。
「──龍ちゃん」
「ありがとう」
その言葉が、熱を運ぶ。
「……お前がそう言うなら……」
「信じるさ……!!」
全身が、燃えるように熱くなった。
視界が、研ぎ澄まされる。
洞窟の光が、濃くなる。
──身体の奥から、何かが湧き上がる。
血管を駆け巡る熱。
筋肉の軋みすら、力へと変わっていく感覚。
「……なんだよ、これ……」
龍之介の目が、かすかに藍碧色に光った。
「うおおおおおおおおッ!!!」
──ゴロ……ッ
鈍い音とともに、岩が、わずかに軋んだ。
「……ッ!!」
足が、地を押し出す感触を捉える。
全身が軋み、腕が引き裂かれそうになる。
けれど──
ゴゴゴゴ……ッ
岩が、わずかに開く。
──冷たい風が、頬を撫でた。
「……!!」
光が──眩しかった。
長く閉ざされていた世界から、一気に光が降り注ぐ。
湿った洞窟の空気とは違う、乾いた風が肌を撫でる。
龍之介は、一歩を踏み出した。
綾も、その背を追うように続く。
夏の太陽の眩しさに、目が眩む。
肌を刺す日差しが妙に懐かしい。
林の中の緑の匂い、蝉の鳴き声、波の音……いつもの街に戻れる……。
やっと目が慣れて、久しぶりの青波の街に目を向ける。
だが──そこに、町はなかった。
目の前に広がっていたのは、焼け焦げた荒野だった。
町は、消えていた。
建物の残骸すら、ほとんどない。
地面はひび割れ、黒く焦げ、灰が積もっていた。
まるで、全てが燃え尽きて、吹き飛ばされたかのように──。
「……これ……青波……?」
綾の声が、かすかに震えた。
知っている景色じゃない。
──知っているはずが、ない。
龍之介は、呆然と立ち尽くしたまま、ただ静かに、目の前の光景を見つめていた。
焦げた匂いが、鼻を刺した。
喉の奥が、焼けるように痛む。
──音が、ない。
波の音が、消えた。
風が吹けば、崩れかけた鉄筋が軋む音だけが、乾いた空に響いた。
「……お父さん……お母さん……?」
綾の声が、かすかに震えた。
龍之介の心臓が、きつく締め付けられる。
「──母ちゃん……」
「……ばあちゃん……?」
足が、一歩前に出た。
足元の灰が、ふわりと舞い上がる。
それは、燃え尽きた何かの、名残のように。