滲む夜
「どこ……ここ?」
綾は、何もない暗闇の中に漂っていた。
視界は真っ黒で、上下の感覚もない。
足元も、手を伸ばした先も、ただの闇——。
何もない。
誰もいない。
「龍ちゃん……?」
呼びかけるが、返事はない。
声が虚空に吸い込まれていく。
「ねぇ、龍ちゃん……どこ?」
そのとき——
ふと、遠くから何かが聴こえた。
微かに響く音——声?
いや……違う。
子供の泣き声——?
「どこ? どこにいるの?」
綾は手を伸ばし、暗闇の中をもがく。
声のする方へ、必死に向かおうとする。
——光。
遠くに、小さな光が見えた。
(出口……?)
綾は必死に空間を掻き、光へと手を伸ばす。
次第に光が近づいてくる。
でも——
自分の手が、足が、透けていく。
光に近づけば近づくほど、
指先が、腕が、脚が、輪郭を失い、
薄く、淡く、消えていく。
(え……?)
身体が——消えていく。
意識が遠のく。
息が詰まる。
苦しい!
助けて——!!!
「龍ちゃん!!」
自分の声で——目が覚めた。
部屋の中は静まり返っていた。
暗闇の中、自分の心臓の音だけが響く。
ドクン、ドクン——早鐘のように脈打つ鼓動。
手のひらは汗で濡れ、荒い息が喉の奥で詰まる。
「……また、この夢……」
綾は震える指先で額の汗を拭った。
ここ最近、同じような夢を何度も見ている。
未来視とはまったく違う——ただの悪夢。
それは幼い頃にも見たことがある夢だった。
あの時は、事故への不安が見せたものだと思っていた。
けど——
胸の奥がざわつく。
得体の知れない不安が、静かに広がっていく。
何かが起こる。
何か悪いことが——。
綾はぎゅっと布団を握りしめる。
「……ううん、ただの夢よ……きっと」
自分に言い聞かせるように、そっと呟いた。
ふと、隣を見やる。
そこにあるはずの気配がなく、綾は小さく息をついた。
「そっか……龍ちゃん、今日夜勤の日だ……」
ひとりきりの部屋。
そう意識した瞬間、胸の奥にじわりと不安が押し寄せてくる。
(……お水、飲もう)
何かを振り払うように、綾はそっと布団をめくった。
薄暗い部屋の中、窓から差し込む僅かな明かりを頼りにキッチンへ向かう。
ジャーッ
蛇口をひねると、コップの中に水が静かに満たされる。
その透明な液体を見つめながら——
ふと、誕生日の夜を思い出す。
みんなが祝ってくれたこと。
賑やかに笑い合った時間。
そして——龍之介と語った、まだ見ぬ未来の話。
「ふふ……」
思い出すだけで、自然と口元が綻ぶ。
碧……紗希……
コップを口元に運んだ瞬間、頭の奥にあの夢の残響が蘇る。
あの子供の鳴き声——
「……龍ちゃん……」
小さく呟きながら、無意識に腹部をさする。
そこに何があるわけでもないのに——
暖かな感覚が、指先にじんわりと広がっていった。
***
夜勤の日は退屈だ。
LUX内も人が少なく、やることはほとんどない。
モニターを見つめながら時間を潰し、たまに見回りに出る——
そんな単調な繰り返し。
薄暗い管制室。
モニターの青白い光が、静かな空間に無機質な明かりを落とす。
電子機器の駆動音だけが微かに響き、空調の送風が静かに空間を撫でている。
その中で、龍之介はデスクに肘をつきながら、ぼんやりと画面を眺めていた。
「龍之介、コーヒー飲むか?」
背後から声がする。
振り向くと、ジェイクが缶コーヒーを片手に立っていた。
「ああ、悪い……こう暇じゃ眠くなって……ふぁ〜」
大きなあくびをしながら、背伸びをする。
「ほれ」
カコン、とデスクに缶コーヒーが置かれる。
「さんきゅ」
プシュッ——
プルタブを引き上げ、一口。
苦味の強いコーヒーが喉を伝い、少しだけ意識がはっきりする。
ジェイクは腕を組みながら、ふと口を開いた。
「なぁ、最近隊員の中で広まってる噂、聞いたか?」
龍之介は缶を片手に首を傾げる。
「ん? いや、知らねぇ」
単調な夜勤の空気が、ほんの少しだけ揺れた。
ジェイクは缶コーヒーを片手に、龍之介の隣へ腰掛けた。
缶を軽く振りながら、ゆっくりと口を開く。
「どうやら、Noctaが妙な動きをしてるらしい」
その一言で、龍之介の顔つきが変わる。
「……Noctaが?」
ジェイクはモニターに視線を向けたまま、足を組み直す。
「式典の時の一件以来、ずっと鳴りを潜めていたが……」
低い声が、静寂をじわじわと侵食する。
「監視網に引っかかった情報がある。拠点の一つに、適合者らしき人間が出入りしているのを確認したそうだ」
龍之介の手が止まる。
「——クロウか!?」
缶コーヒーを握る指に力がこもる。微かに金属が歪む音がした。
しかし、ジェイクはゆっくりと首を横に振る。
「いいや、それがどうやらヤツじゃないらしい」
龍之介の眉が険しくなる。
「しかも——単独じゃない」
缶コーヒーの冷えた感触が、龍之介の指先にじんわりと伝わる。
単なる噂にしては、妙に具体的な話だった。
「噂……なんだろ?」
龍之介は慎重に言葉を選びながら問いかける。
ジェイクは缶コーヒーを軽く振り、口元に運ぶ。
「ああ、だが出所は諜報部の連中だって話だ。信憑性はありそうだろ?」
龍之介はわずかに眉を寄せる。
諜報部の情報なら、単なる隊員の噂話とは訳が違う。
「しかも、タイミングだ……」
ジェイクが低く続ける。
「この間、ルミナシティの自治権の話をしただろ?——その話がまとまりつつあるらしい」
龍之介はわずかに目を細めた。
「……Noctaからすりゃ、面白くねぇだろうな」
龍之介は沈黙を破るように、静かに口を開いた。
「また……式典の時みたいな事件が起きるのか?」
どこか嫌な予感がする。
あの時の余裕のあるクロウの口ぶり、身のこなし…もしまたあいつが来たら…。
ジェイクは缶コーヒーを一口飲み、肩をすくめる。
「どうだろうなぁ……前回のは、どっちかっていうと忠告って感じだったが……」
テーブルに肘をつき、じっと龍之介を見据える。
「状況を考えりゃ、次は本気で掛かってくる可能性もあるだろう」
龍之介はため息をつきながら、ジェイクを見やる。
「……あんた、随分余裕だな」
こんな話をしているというのに、まるで他人事のようなその態度。
だが——ジェイクはただニヤリと笑う。
「ま、なるようにしかならねぇしな」
そして、缶コーヒーをデスクに置きながら、ゆっくりと続ける。
「それに……適合者相手に本気でやり合うってのも、面白そうじゃねぇか」
その瞳の奥に、ギラついた光が宿る。
それは紛れもない——闘争心だった。
龍之介は、一つ深くため息をついた。
「……あんたらしいな」
ジェイクの戦闘狂ぶりには慣れている。
だが、この状況で「面白い」と言えるあたり、本当に性根が違う。
ジェイクはニヤリと笑い、口を開こうとする。
「お前だって——」
——ピッ
その瞬間、モニターにノイズが走った。
「……ん?」
次の瞬間、研究棟を映していたカメラが、ATDシステムへと自動切り替えされる。
画面には、淡く輝くルミナイト反応が浮かび上がった。
——ルミナイト反応検出
緊急警告がモニターに赤く点滅する。
先程の"噂話"を思い出し、龍之介が即座に立ち上がった。
「まさか……適合者!?」
ジェイクも眉をひそめ、モニターを睨みつける。
「おいおい……噂をすりゃってやつか?」
LUXの静かな夜が、一瞬にして張り詰めた。
龍之介は即座に腕のATDを操作し、指先で視界のHUDを呼び出す。
「確か見回りに出てる連中がいただろ、そいつらに連絡しろ!」
ジェイクの指示に、視界のHUDを視認操作しながら龍之介が返す。
「今してる!」
HUD上に、巡回中の隊員のホログラム映像がポップアップした。
『どうした?』
通信越しに、巡回中の隊員の顔が映る。
「研究棟周辺でルミナイト反応が検出された! 適合者かもしれない、様子を見てくれ!」
ATDのスキャン結果が次々と更新される。
通常の環境放射ではありえない、異常な波形。
微かに動いている……これは、確実に人為的な反応。
「俺たちもすぐに向かう!」
『了解!』
通信が切れると同時に、ジェイクがすでに立ち上がっていた。
「よし、行くぞ!」
龍之介はHUD上のルミナイト反応を確認しながら、
ジェイクと共に管制室を飛び出した。
“異常エネルギー反応、活動パターン変動——”
次の瞬間、反応が急激に増幅する。
(……マズいな)
龍之介は無意識に拳を握りしめ、夜のLUXへと駆け出した。




