惑わされて冬
冬の風が、肌を刺すように冷たい。
夜の空には薄い雲がかかり、街の灯りが霞んで揺れていた。
龍之介はコートの襟を立てながら、マンションへの帰路を急いでいた。
「うぅぅ、さむっ……」
呟いた息が白く霧散する。肩をすくめながら、ポケットの奥に指を押し込んだ。
冷え切った指先を擦り合わせても、なかなか温まらない。
冬にしては珍しく、風は穏やかだったが、それでも夜の冷気は容赦なく体温を奪っていく。
「……あいつら、綾連れて熊乃家に来いなんて言ってたけど、何企んでんだろ……」
ぼんやりと呟きながら足を速める。
ジェイクとナディアの、あの意味深な笑みが頭をよぎる。
どこか企んでいるような、悪戯めいた表情——。
「どうせ、ロクでもねぇことだろ……」
苦笑混じりにぼやきつつ、夜道を歩く。
ポケットの中で指を擦り合わせながら、マンションの明かりが見えてくるのを待った。
***
「ただいま」
鍵を回し、玄関のドアを開ける。
室内の温かさが冷えた体にじんわりと染みてくる。
ふと視線を向けると、テーブルに卓上ミラーを置き、化粧をしている綾がいた。
頬にブラシを滑らせながら、ぱっと笑顔を向けてくる。
「あ、龍ちゃんお帰り!」
明るい声に、自然と肩の力が抜けた。
「熊乃家行くだけなんだし、そんなめかしこまなくても……」
コートを脱ぎながら呟くと、綾は口を尖らせてミラー越しにこちらを睨む。
「いいの! 女の子はいつだって綺麗でいたいんだよ?」
力説するような口調に、思わず苦笑する。
「へいへい、そうですか」
気のない素振りで受け流しながらも、ちらりと綾の横顔を盗み見る。
軽く巻いた髪、丁寧に整えられた眉、いつもより少しだけ大人びた雰囲気。
(……まぁ、たまにはこういうのもいいか)
意識せず、口元がわずかに緩んでいた。
綾がふと視線を動かし、テレビの横に立ててある写真を見つめる。
フレームの中には、秋の旅行先で撮った一枚——鹿と並んでポーズを取る自分たちの姿。
「秋に行った旅行、楽しかったね!」
綾が微笑みながら言う。
龍之介も写真を一瞥し、ふっと口元をほころばせた。
「ああ、そうだな……温泉も最高だった!」
思い出すのは、あの心地よい湯と、澄んだ秋の空気。
非日常の静けさが、今でも肌に残っているような気がした。
「龍ちゃん、鹿に追っかけられてたよね」
綾がくすくすと笑う。
「あいつ、しつこかったなぁ……」
龍之介は苦笑しながら肩をすくめる。
油断した瞬間、煎餅を狙った鹿が猛然と突進してきたあの光景——
逃げても逃げても諦めない執念深さには、さすがに根負けしそうだった。
「またどこか行こうね」
綾が穏やかな声で言う。
龍之介は写真から目を離し、ふっと天井を仰ぐ。
「次は春か夏かなぁ」
冬の冷たい空気とは違う、暖かな季節の景色を思い浮かべながら、
龍之介はぼんやりと呟いた。
「よし、準備できた!」
卓上ミラーをたたみながら、綾が元気よく言う。
「んじゃ、そろそろ出るか」
龍之介が軽く伸びをしながら言うと、綾もすぐに頷いた。
「うん、そうしよ!」
二人はそれぞれコートを羽織り、玄関を出る。
外に出た途端、夜の冷気が肌を刺した。
「うわぁ……寒いね」
綾が身震いしながら呟く。
龍之介は少し考えた後、何も言わずに綾の手を取った。
「大丈夫か?」
綾は一瞬だけ目を細め、それからそっと微笑んだ。
「龍ちゃんの手、あったかい」
白い息を吐きながら、綾がそっと手を握り返す。
龍之介は無言のまま頷いた。
指先に伝わる体温が、冬の夜の冷たさをわずかに和らげてくれるような気がした。
二人は並んで歩き出す。
夜の街灯が、長く伸びた影を静かに照らしていた。
***
道の先に、熊乃家の明かりがぼんやりと浮かび上がる。
寒空の下でも、そこだけは温もりに満ちているように見えた。
ふっと風が吹き抜ける。
漂ってくるのは、炭火で炙られた焼き鳥の香ばしい匂い。
「いい匂い……」
綾が小さく呟く。
ガラガラッ——龍之介は微かに笑いながら、店の暖簾を持ち上げ、扉を引いた。
「ほら、入れよ」
先に綾を中へ通す。
その瞬間——
『綾ちゃん、お誕生日おめでとうー!!!』
パァンッ!!
クラッカーの音が弾け、色とりどりの紙吹雪が舞う。
店の中を覗くと、そこには見慣れた顔が揃っていた。
カウンターの向こうで熊さんとおかみさんがにこにこと笑い、テーブルにはジェイクとナディアがいたずらっぽくこちらを見つめている。
店内の壁には、「HAPPY BIRTHDAY AYA」 の文字が飾られていた。
キラキラとしたガーランドや、小さな電飾が暖色の光を灯している。
綾は驚いたように立ち尽くしていた。
目を瞬かせ、状況を理解しようとするように、唇をわずかに開いている。
龍之介はそんな綾の横顔を見ながら、
心の中で小さく苦笑する。
(……なるほど、そういうことか)
ジェイクとナディアのあの顔、やっぱり何か企んでると思ったんだよな——。
立ち尽くす綾の肩を、ナディアがぽんっと叩く。
「ささ! ほら入って入って!」
明るい声に背中を押され、戸惑いながらも座敷へと促される綾。
あたふたと視線を泳がせながらも、勧められるままに座布団に腰を下ろす。
その後に龍之介も続いた。
ナディアがニコリと笑い、軽く手を叩く。
「綾ちゃん、この間お誕生日だったでしょ?」
すぐにジェイクが腕を組みながらニヤリと笑う。
「どうせ龍之介は何もしねぇだろうからな」
龍之介が口を開く前に、ナディアが続ける。
「みんなでお祝いしようって熊さんとおかみさんに相談して、お店使わせてもらうことにしたのよ」
龍之介は少しむっとした表情で反論する。
「あのな……一応、来週2人で出かける予定でいるんだよ!」
ジェイクが眉を上げ、面白そうに目を細める。
「ほぅ? 龍之介のクセにそういうこともできるのか」
ナディアはくすくすと笑いながら肩をすくめる。
「まぁ、それでも私たちもお祝いしたくてウズウズしちゃったのよねぇ」
その言葉に、綾は目を潤ませる。
暖かな灯りの中、目の前に広がる優しい笑顔たち。
「ありがとう、みんな……」
小さく、でも確かに気持ちのこもった言葉がこぼれた。
ジェイクが腕を組みながら、しみじみと呟く。
「嬢ちゃんも二十歳か……ついに酒が飲める歳だな!」
ナディアが懐かしそうに微笑む。
「ここで初めて会ってから、もう二年も経つのねぇ……」
ジェイクがニヤリと笑いながら、手元のメニューをひらりと差し出す。
「飲むだろ?」
その言葉に、綾は一瞬戸惑ったような表情を見せた。
「あ…えと……」
微かな迷いがその瞳に揺れる。
龍之介はその小さな変化を見逃さなかった。
(……ん?)
いつもだったら「少しなら……」と興味を示しそうな綾が、珍しく目を伏せたまま、そっと言った。
「お酒は……やめておこうかな……」
ナディアが軽く首を傾げる。
「あら? お酒飲めるようになるの楽しみにしてたじゃない?」
龍之介は綾の横顔をちらりと見やりながら、軽く肩をすくめる。
それから、メニューをひょいと取り上げた。
「まぁまぁ、綾にはまだ酒は早いって」
その言葉に、綾はふっと小さく笑う。
だが、その表情の奥には、ほんの少しだけ隠された何かがあるように見えた。
ジェイクが肩をすくめ、豪快に笑う。
「ま、無理に勧めることもねぇやな」
そう言うと、カウンターの奥に向かって声を張る。
「おかみさん! 俺たちはいつものな! 嬢ちゃんは……オレンジジュースでいいか?」
綾はほっとしたように微笑みながら頷いた。
「うん、それでお願い」
「はいよ! ちょっと待っててね!」
威勢のいい返事とともに、おかみさんが手際よく奥へ消える。
すぐに、慣れた手つきでグラスとジョッキを持って戻ってきた。
「お待たせ!」
ドンッ——テーブルの端に勢いよく飲み物が置かれ、ナディアがそれをそれぞれに配る。
冷えたジョッキの表面には、小さな水滴が光る。
ナディアがグラスを軽く持ち上げ、笑顔を向ける。
「じゃ、あらためて」
ジェイクがニヤリと笑い、龍之介も軽く顎を上げる。
「綾ちゃん、お誕生日おめでとう!」
4人のグラスが、澄んだ音を立てて重なった。
『っかーー、うめぇ!』
龍之介とジェイクが声を揃えてジョッキを置く。
その勢いに、ナディアがくすくすと笑い、綾も静かに微笑んだ。
ジョッキを置いた龍之介がふと綾を見ると、彼女もまた、穏やかな笑みを浮かべていた。
温かく、賑やかな夜が始まった。




