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LUMINESCENCE:PHANTOM ECHO  作者: ハナサワリキ
三・暁光
20/48

カレーの匂い

 沈黙が部屋を支配したまま、龍之介が無言で立ち上がり、出口へと向かう。


 ジェイクとナディアは一瞬目を合わせ、舞に向けて一つ頷くと、その背を追った。


 部屋を出た龍之介は、感情のままに廊下の壁へと拳を叩きつける。


 鈍い音が響いた。


 背後から、ジェイクの低い声が掛かる。


「龍之介、ちょっと付き合え」


 龍之介は拳を握ったまま、振り返りもせずに応じる。


「……なんだよ?」

 

「いいから、ついて来い」

 

 ジェイクは肩をすくめ、有無を言わせぬ口調で言い放った。

 その背中に、龍之介は少しだけ眉を寄せながらも、黙ってついていく。


 「じゃ、わたしは先に出てるわね〜」

 

 二人の背中を見送りながら、ナディアは軽く手を振り、いつもの調子で微笑んだ。


 ***

 

「入れ」


 ジェイクの短い言葉に促され、龍之介はトレーニングルームへと足を踏み入れる。


 広々とした空間に並ぶ機材、そして中央に据えられたリング。


「こいつを付けろ」


 ジェイクが無造作にヘッドギアを投げ渡してくる。


「なんでだよ、俺は今そんな気分じゃ——」


「いいから付けろ」


 有無を言わせぬその口調に、龍之介はわずかに眉をひそめながらも、渋々ヘッドギアを装着した。


「こっちに来い」


 先にリングへと上がっていたジェイクが、視線で龍之介を促す。


「……」


 龍之介は何も言わずにロープを跨ぎ、静かにリングへと足を踏み入れた。


「いいか?本気でこいよ」


 ジェイクが軽く拳を握りながら構えた。

 無駄のない動き、わずかに開いた足幅が、長年の実戦経験を物語っている。


「くそっ……なんで……」


 龍之介は低く呟きながらも、無意識のうちに構えを取っていた。

 訓練で体に染み付いた戦闘の姿勢——しかし、今の彼の心は揺れていた。


 互いに暫く睨み合う。

 

「来ないなら、こっちから行くぞ!」


 ジェイクがわずかに口角を上げた瞬間、踏み込みと同時に鋭いジャブを放つ。


 龍之介は反射的に後方へステップを踏み、紙一重でかわす。

 しかし、その動きに合わせるようにジェイクのローキックが飛ぶ。


「くっ…!」


 踏み足を狙った蹴りが的確に捉え、龍之介のバランスがわずかに崩れる。

 その一瞬の隙を逃さず、ジェイクのミドルキックが脇腹を襲った。


 バチンッ!


 乾いた衝撃音が響く。

 龍之介は歯を食いしばりながらも、なんとか体勢を立て直した。


「どうした龍之介、動きが鈍いぞ」


 ジェイクの声は、挑発とも激励とも取れる。


「くっそ…!」


 龍之介は地を蹴り、一気にジェイクとの間合いを詰める。

 ステップインと同時に、鋭いワンツーを繰り出す。

 拳に乗せた力が空気を切り裂く。


 ジェイクは軽やかなフットワークでそれをかわす。

 しかし、龍之介は止まらない。

 続く右ストレート——だが、その先に映るのはジェイクの影。


 パァン!


 龍之介の動きを見切ったジェイクが、完璧なカウンターを合わせる。

 重くはないが、衝撃が鼻先をかすめる。


 ジェイクが低く笑いながら言った。


「やっと少しは動けるようになってきたか…だが、まだまだだ」


 構えを崩さぬまま、鋭い目で龍之介を見据える。


「もっと本気を出せ!お前が抱えてるもん、ぶち撒けろ!」


 その言葉が突き刺さった瞬間、龍之介の視界が赤く染まる。


「うわああああ!!」


 叫びと共にジェイクに向けて飛び出す。

 龍之介の拳が空を切る。

 打ち込んでは弾かれ、踏み込めばかわされる。


 関係ない。

 当たらなくてもいい。

 殴らなきゃ、止まれなかった。


 2年前、あの時——

 人が死んだ。目の前で。助けられなかった。

 初めてだった。

 血の匂い、倒れたまま動かなくなる人間を見たのは。


「ちくしょうっ……!!」


 左フック、右ストレート、回し蹴り。

 がむしゃらに打ち続ける。

 なのに、ジェイクは微動だにしない。

 ひとつ、ひとつ、軽く受け流していく。


 もし、そいつらが——

 もし、2年前の暴動を起こした連中が——

 あの8年前の事故を——!


 ——何を守る? 何を救う?


 考えたくないのに、拳を振るうたびに頭の中に浮かび上がる。

 その度に、力を込めて殴りつけるしかなかった。


「うおおおおお!!!」


 龍之介の視界が揺れる。

 熱が体の奥から沸き上がり、全身を駆け巡る。

 拳が痺れるほどのエネルギーがみなぎる。

 ——瞳が、藍碧に輝いた。


 その瞬間——

 ジェイクの顔つきが変わった。


 龍之介の渾身の一撃が放たれる。

 しかし——それは届かない。


 ジェイクは寸前で身をかわし、逆にみぞおちへと鋭く拳を突き刺した。


「ぐはぁっ!!」


 龍之介の体が弓なりにしなり、もんどり打って崩れる。

 視界が揺れ、肺から一気に空気が抜けた。


「……ふぅ……あぶねぇ……」


 ジェイクは息を整えながら、わずかに苦笑する。


「わりぃ龍之介、つい……な」


 申し訳なさそうに笑うジェイクを、龍之介は苦しそうに見上げた。


 ***

 

 プシュッ——


 缶コーヒーを開ける音が、静かなトレーニングルームに響く。


「龍之介、お前随分強くなったなぁ」


 ジェイクがそう言いながら、缶を軽く傾ける。

 二人はシャワーを浴びた後、ベンチに腰掛けていた。


「どこがだよ……一発もまともに当てられなかった」


 スポーツドリンクを口に運びながら、龍之介がぼやく。

 戦いの余韻がまだ体の奥に残っている。


「前から思ってたけど、あんた一体何もんなんだ?」


 ジェイクは一瞬、視線を宙に泳がせた。

 手の中の缶をゆっくりと回し、コーヒーを一口飲む。


「昔な……」


「なんだ?またいつもの下らない思い出話か?」


 龍之介が呆れたように肩をすくめる。

 ジェイクがこうやって話を始める時は、大抵くだらない昔話だった。


 しかし——

 今日のジェイクはいつもと違う。


「いいや——こいつはマジだ」


 いつもの軽口も挟まず、ジェイクは少しだけ遠くを見た。

 それから、わずかに低い声で続ける。


「…昔、傭兵をやってた頃の話だ」


 ジェイクの声は普段より低く、静かだった。

 彼の手の中の缶コーヒーが、どこか重く見える。


「とある紛争地で怪我をした子供を助けた」

「まだ10歳にも満たないくらいのガキでな。泣き叫んで怖がってた……放っておけなくて怪我の手当てをして、安全なところまで連れてってやったんだ」


 龍之介は黙って耳を傾ける。


「でもな——」


 ジェイクはふっと短く息をつく。


「翌日、そいつは銃を構えて俺の前に立ってた」


「……」


「親も家も戦争で全部奪われたガキだった。あの国じゃ銃を持つことが生きることだった。そして俺は——」


 彼の言葉が、一瞬止まる。


「そのガキの“敵”だった……」


 龍之介が息を呑む。


 ジェイクの言葉は重く、戦場の硝煙の匂いを帯びていた。


「俺は——そのガキを撃った」


 静かな、けれど確かな決意の滲んだ声。

 だが、その奥にある何かが、龍之介には痛いほど伝わってきた。


「仕方ねぇ、戦場ってなそんなもんだ。そのガキだって理解してたろう」


 ジェイクの目に、一瞬だけ後悔の色が浮かんだ気がした。

 だが、それはすぐにかき消される。


 静寂が降りる。


 残り少なくなったコーヒーが、指先でわずかに揺れる音だけが響いた。


 龍之介は息を詰める。

 迷いが喉に絡みつくような感覚の中で、ようやく言葉を絞り出す。

 

「……割り切れ、ってことか?」


 龍之介の問いかけに、ジェイクはわずかに首を振る。


「いいや、違う」


 缶コーヒーを軽く振り、飲み干す。


「お前は——助けろ」


 ジェイクの言葉に、龍之介はハッと目を見開く。


「お前にゃ”力”がある。俺には無かったもんだ」


 缶が無造作に投げ捨てられる。

 ジェイクはまっすぐに龍之介を見据え、静かに言った。


「だから——お前は助けろ、守れ」


 そこまで言うと、いつもの軽い調子に戻る。

 

「よし!そろそろ帰るか!」


 ジェイクが立ち上がり、軽く腕を伸ばす。


「熊乃家でナディアが待ってるんだが、お前も一緒に行くか?」


 龍之介は首を振りながら立ち上がる。


「いや、綾が待ってるから今日は帰るよ」


「そうか、じゃまた明日な!嬢ちゃんによろしく言っといてくれ!」


 ジェイクは背中で軽く手を振る。


「……あぁ……ジェイク、ありがとな」


 龍之介の言葉に、ジェイクは振り返らずに応えた。


 ふと、頭の隅から父親の言葉が蘇る。


『強さってのは、腕っぷしじゃない。誰かのために立ち上がれることだ。』


 龍之介は視線を落とし、手の中のスポーツドリンクを見つめた。

 わずかに残った液体が、蛍光灯の光を鈍く反射している。


「……そうだったな…忘れてたよ」


 小さく呟くと、龍之介は静かにキャップを締めた


 ***

 

「ただいま」

 

 玄関の扉を開けると、綾が足早に駆け寄ってきた。


「おかえり、龍ちゃん、大丈夫なの?」


 心配そうな眼差しで、綾が龍之介の身体を確かめる。


「ん?」


「蹴られてたじゃない、式典の時…」


 言いながらそっと龍之介の腕に触れる。


「あぁ、心配してくれてたのか?」


「…当たり前でしょ!」


 綾が頬を膨らませる。


 龍之介は苦笑しながら、逆に彼女の様子を伺う。


「綾の方こそ、大丈夫だったか?怖い思いしたんじゃないか?」


「少し…でも龍ちゃんが……」


 綾は龍之介の顔を見つめると、少し安心したように微笑んだ。


「俺は大丈夫だよ」


 その微笑みに応えるように、龍之介も優しく笑った。


 キッチンから、スパイスの香りがふんわりと漂ってくる。


「お、今日はカレーか」


「うん、龍ちゃん好きだから」


 綾が嬉しそうに微笑む。


 ふと、ジェイクの言葉が頭をよぎる。


 ——『お前は、助けろ。守れ。』


 龍之介は無言のまま、そっと綾を抱き寄せた。


「ちょっと、龍ちゃん……どうしたの?」


 綾が不思議そうに顔を上げる。


 龍之介は何も答えず、ただ、腕に力を込めた。


 綾はわずかに息を詰まらせた。

 だが、龍之介の温もりが伝わると、静かにその背中に手を回した。


 龍之介は目を閉じ、綾の存在を確かめるように息を吐く。


 夜の静けさの中、二人の鼓動がゆっくりと重なっていく——。


三・暁光・完

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