カレーの匂い
沈黙が部屋を支配したまま、龍之介が無言で立ち上がり、出口へと向かう。
ジェイクとナディアは一瞬目を合わせ、舞に向けて一つ頷くと、その背を追った。
部屋を出た龍之介は、感情のままに廊下の壁へと拳を叩きつける。
鈍い音が響いた。
背後から、ジェイクの低い声が掛かる。
「龍之介、ちょっと付き合え」
龍之介は拳を握ったまま、振り返りもせずに応じる。
「……なんだよ?」
「いいから、ついて来い」
ジェイクは肩をすくめ、有無を言わせぬ口調で言い放った。
その背中に、龍之介は少しだけ眉を寄せながらも、黙ってついていく。
「じゃ、わたしは先に出てるわね〜」
二人の背中を見送りながら、ナディアは軽く手を振り、いつもの調子で微笑んだ。
***
「入れ」
ジェイクの短い言葉に促され、龍之介はトレーニングルームへと足を踏み入れる。
広々とした空間に並ぶ機材、そして中央に据えられたリング。
「こいつを付けろ」
ジェイクが無造作にヘッドギアを投げ渡してくる。
「なんでだよ、俺は今そんな気分じゃ——」
「いいから付けろ」
有無を言わせぬその口調に、龍之介はわずかに眉をひそめながらも、渋々ヘッドギアを装着した。
「こっちに来い」
先にリングへと上がっていたジェイクが、視線で龍之介を促す。
「……」
龍之介は何も言わずにロープを跨ぎ、静かにリングへと足を踏み入れた。
「いいか?本気でこいよ」
ジェイクが軽く拳を握りながら構えた。
無駄のない動き、わずかに開いた足幅が、長年の実戦経験を物語っている。
「くそっ……なんで……」
龍之介は低く呟きながらも、無意識のうちに構えを取っていた。
訓練で体に染み付いた戦闘の姿勢——しかし、今の彼の心は揺れていた。
互いに暫く睨み合う。
「来ないなら、こっちから行くぞ!」
ジェイクがわずかに口角を上げた瞬間、踏み込みと同時に鋭いジャブを放つ。
龍之介は反射的に後方へステップを踏み、紙一重でかわす。
しかし、その動きに合わせるようにジェイクのローキックが飛ぶ。
「くっ…!」
踏み足を狙った蹴りが的確に捉え、龍之介のバランスがわずかに崩れる。
その一瞬の隙を逃さず、ジェイクのミドルキックが脇腹を襲った。
バチンッ!
乾いた衝撃音が響く。
龍之介は歯を食いしばりながらも、なんとか体勢を立て直した。
「どうした龍之介、動きが鈍いぞ」
ジェイクの声は、挑発とも激励とも取れる。
「くっそ…!」
龍之介は地を蹴り、一気にジェイクとの間合いを詰める。
ステップインと同時に、鋭いワンツーを繰り出す。
拳に乗せた力が空気を切り裂く。
ジェイクは軽やかなフットワークでそれをかわす。
しかし、龍之介は止まらない。
続く右ストレート——だが、その先に映るのはジェイクの影。
パァン!
龍之介の動きを見切ったジェイクが、完璧なカウンターを合わせる。
重くはないが、衝撃が鼻先をかすめる。
ジェイクが低く笑いながら言った。
「やっと少しは動けるようになってきたか…だが、まだまだだ」
構えを崩さぬまま、鋭い目で龍之介を見据える。
「もっと本気を出せ!お前が抱えてるもん、ぶち撒けろ!」
その言葉が突き刺さった瞬間、龍之介の視界が赤く染まる。
「うわああああ!!」
叫びと共にジェイクに向けて飛び出す。
龍之介の拳が空を切る。
打ち込んでは弾かれ、踏み込めばかわされる。
関係ない。
当たらなくてもいい。
殴らなきゃ、止まれなかった。
2年前、あの時——
人が死んだ。目の前で。助けられなかった。
初めてだった。
血の匂い、倒れたまま動かなくなる人間を見たのは。
「ちくしょうっ……!!」
左フック、右ストレート、回し蹴り。
がむしゃらに打ち続ける。
なのに、ジェイクは微動だにしない。
ひとつ、ひとつ、軽く受け流していく。
もし、そいつらが——
もし、2年前の暴動を起こした連中が——
あの8年前の事故を——!
——何を守る? 何を救う?
考えたくないのに、拳を振るうたびに頭の中に浮かび上がる。
その度に、力を込めて殴りつけるしかなかった。
「うおおおおお!!!」
龍之介の視界が揺れる。
熱が体の奥から沸き上がり、全身を駆け巡る。
拳が痺れるほどのエネルギーがみなぎる。
——瞳が、藍碧に輝いた。
その瞬間——
ジェイクの顔つきが変わった。
龍之介の渾身の一撃が放たれる。
しかし——それは届かない。
ジェイクは寸前で身をかわし、逆にみぞおちへと鋭く拳を突き刺した。
「ぐはぁっ!!」
龍之介の体が弓なりにしなり、もんどり打って崩れる。
視界が揺れ、肺から一気に空気が抜けた。
「……ふぅ……あぶねぇ……」
ジェイクは息を整えながら、わずかに苦笑する。
「わりぃ龍之介、つい……な」
申し訳なさそうに笑うジェイクを、龍之介は苦しそうに見上げた。
***
プシュッ——
缶コーヒーを開ける音が、静かなトレーニングルームに響く。
「龍之介、お前随分強くなったなぁ」
ジェイクがそう言いながら、缶を軽く傾ける。
二人はシャワーを浴びた後、ベンチに腰掛けていた。
「どこがだよ……一発もまともに当てられなかった」
スポーツドリンクを口に運びながら、龍之介がぼやく。
戦いの余韻がまだ体の奥に残っている。
「前から思ってたけど、あんた一体何もんなんだ?」
ジェイクは一瞬、視線を宙に泳がせた。
手の中の缶をゆっくりと回し、コーヒーを一口飲む。
「昔な……」
「なんだ?またいつもの下らない思い出話か?」
龍之介が呆れたように肩をすくめる。
ジェイクがこうやって話を始める時は、大抵くだらない昔話だった。
しかし——
今日のジェイクはいつもと違う。
「いいや——こいつはマジだ」
いつもの軽口も挟まず、ジェイクは少しだけ遠くを見た。
それから、わずかに低い声で続ける。
「…昔、傭兵をやってた頃の話だ」
ジェイクの声は普段より低く、静かだった。
彼の手の中の缶コーヒーが、どこか重く見える。
「とある紛争地で怪我をした子供を助けた」
「まだ10歳にも満たないくらいのガキでな。泣き叫んで怖がってた……放っておけなくて怪我の手当てをして、安全なところまで連れてってやったんだ」
龍之介は黙って耳を傾ける。
「でもな——」
ジェイクはふっと短く息をつく。
「翌日、そいつは銃を構えて俺の前に立ってた」
「……」
「親も家も戦争で全部奪われたガキだった。あの国じゃ銃を持つことが生きることだった。そして俺は——」
彼の言葉が、一瞬止まる。
「そのガキの“敵”だった……」
龍之介が息を呑む。
ジェイクの言葉は重く、戦場の硝煙の匂いを帯びていた。
「俺は——そのガキを撃った」
静かな、けれど確かな決意の滲んだ声。
だが、その奥にある何かが、龍之介には痛いほど伝わってきた。
「仕方ねぇ、戦場ってなそんなもんだ。そのガキだって理解してたろう」
ジェイクの目に、一瞬だけ後悔の色が浮かんだ気がした。
だが、それはすぐにかき消される。
静寂が降りる。
残り少なくなったコーヒーが、指先でわずかに揺れる音だけが響いた。
龍之介は息を詰める。
迷いが喉に絡みつくような感覚の中で、ようやく言葉を絞り出す。
「……割り切れ、ってことか?」
龍之介の問いかけに、ジェイクはわずかに首を振る。
「いいや、違う」
缶コーヒーを軽く振り、飲み干す。
「お前は——助けろ」
ジェイクの言葉に、龍之介はハッと目を見開く。
「お前にゃ”力”がある。俺には無かったもんだ」
缶が無造作に投げ捨てられる。
ジェイクはまっすぐに龍之介を見据え、静かに言った。
「だから——お前は助けろ、守れ」
そこまで言うと、いつもの軽い調子に戻る。
「よし!そろそろ帰るか!」
ジェイクが立ち上がり、軽く腕を伸ばす。
「熊乃家でナディアが待ってるんだが、お前も一緒に行くか?」
龍之介は首を振りながら立ち上がる。
「いや、綾が待ってるから今日は帰るよ」
「そうか、じゃまた明日な!嬢ちゃんによろしく言っといてくれ!」
ジェイクは背中で軽く手を振る。
「……あぁ……ジェイク、ありがとな」
龍之介の言葉に、ジェイクは振り返らずに応えた。
ふと、頭の隅から父親の言葉が蘇る。
『強さってのは、腕っぷしじゃない。誰かのために立ち上がれることだ。』
龍之介は視線を落とし、手の中のスポーツドリンクを見つめた。
わずかに残った液体が、蛍光灯の光を鈍く反射している。
「……そうだったな…忘れてたよ」
小さく呟くと、龍之介は静かにキャップを締めた
***
「ただいま」
玄関の扉を開けると、綾が足早に駆け寄ってきた。
「おかえり、龍ちゃん、大丈夫なの?」
心配そうな眼差しで、綾が龍之介の身体を確かめる。
「ん?」
「蹴られてたじゃない、式典の時…」
言いながらそっと龍之介の腕に触れる。
「あぁ、心配してくれてたのか?」
「…当たり前でしょ!」
綾が頬を膨らませる。
龍之介は苦笑しながら、逆に彼女の様子を伺う。
「綾の方こそ、大丈夫だったか?怖い思いしたんじゃないか?」
「少し…でも龍ちゃんが……」
綾は龍之介の顔を見つめると、少し安心したように微笑んだ。
「俺は大丈夫だよ」
その微笑みに応えるように、龍之介も優しく笑った。
キッチンから、スパイスの香りがふんわりと漂ってくる。
「お、今日はカレーか」
「うん、龍ちゃん好きだから」
綾が嬉しそうに微笑む。
ふと、ジェイクの言葉が頭をよぎる。
——『お前は、助けろ。守れ。』
龍之介は無言のまま、そっと綾を抱き寄せた。
「ちょっと、龍ちゃん……どうしたの?」
綾が不思議そうに顔を上げる。
龍之介は何も答えず、ただ、腕に力を込めた。
綾はわずかに息を詰まらせた。
だが、龍之介の温もりが伝わると、静かにその背中に手を回した。
龍之介は目を閉じ、綾の存在を確かめるように息を吐く。
夜の静けさの中、二人の鼓動がゆっくりと重なっていく——。
三・暁光・完




