隔絶の光
ぽつ、ぽつ。
静寂を切り裂くように、微かな水滴の音が響いた。
洞窟の壁に埋まる藍碧色の鉱石が、心臓の鼓動のようにかすかに光を瞬かせる。
──青波の外れ、林の奥深く。
草木は鬱蒼と生い茂り、子供が立ち入るにはあまりに険しい道のり。
けれど、龍之介と綾は小さな隙間を見つけ、獣道のような細い道を抜けてきた。
ここは、二人だけの秘密の場所だった。
洞窟の入り口は、草木に覆われている。
ほんの偶然。
鬼ごっこをしていたあの日、逃げる途中で見つけたのが始まりだった。
洞窟の奥を照らすのは、壁一面に埋まった奇妙な鉱石。
昼でも夜でも変わらず、藍碧色の光を、淡く、ひそやかに湛えている。
龍之介はしゃがみ込み、その光をじっと見つめた。
──光は、かすかに脈打っているように見えた。
指を伸ばし、そっと触れる。
冷たい。
思ったよりも滑らかで、まるでガラスの表面みたいだった。
それでいて、生き物のような、妙な温度があった。
「なぁ、この石って、なんなんだろうな?」
ぼそりと呟く。
その声に、少し離れた壁際で寄りかかっていた綾が肩をすくめた。
揺れる光が、綾の黒髪を藍碧色に染める。
大きな瞳は暗がりの光を映し込み、夜空みたいに深く瞬いていた。
「またその話?」
「龍ちゃん、前にも同じこと言ってたよ」
「だって気になるだろ」
「普通の石と違って光るし、叩くと反応するし……なんか変じゃね?」
綾は短く息を吐くと、壁に背を預けた。
「うーん……」
ぽつ、ぽつ。
奥から響く水滴の音が、静寂をより深くする。
藍碧の光が、わずかにまたたいた。
龍之介は天井を見上げる。
岩肌に埋まる無数の鉱石が、まるで星のように輝いていた。
──この洞窟を見つけて、もう二年。
何度も来たけど。
こうして改めて見ると、やっぱり変な光だ。
綾がふと、思い出したように言う。
「この間、本で読んだんだけどさ」
「光を当てると光る石って、あるらしいよ。なんて言ったっけ……蛍光石? そういうのの仲間なんじゃない?」
龍之介は顎に手を当て、考え込む。
「でもさ」
「それだったら日光とかライトが必要だろ?」
「でもこいつは、俺たちが声を出したり、手を叩いたりすると光るんだよ」
綾は小さく頷いたあと、指で鉱石の表面を軽く弾いた。
コンッ。
瞬間、周囲の光が淡く揺れる。
「確かに、普通の石がこんなことするのは変だよね……」
龍之介は足元に転がる小石を拾い上げた。
そして、壁に向かって軽く投げる。
コツン。
音とともに、無数の鉱石がふっと明るく光った。
それは、呼吸のような、心臓の鼓動のような光だった。
「実験なら、俺たち散々やったよな」
「そうだね」
綾は、指を折りながら言う。
ひとつ、ふたつ、と数を重ねるように。
「大声を出すと、強く光る」
「手拍子みたいなリズムを作ると、それに合わせて光ることがある」
「石を転がしたり、強く踏み鳴らすと、広い範囲で光る」
龍之介は、ゆらめく光を見つめたまま口を開いた。
「……俺たちの声を、聞いてるみたいじゃないか?」
その一言に、綾はふっと目を見開いた。
ぽつ、ぽつ。
水滴の音だけが響く。
光の脈動は、かすかに応えるように揺らいでいた。
二人は、言葉をなくしたまま。
ただ、淡く揺れる光を見つめ続けた。
──その時。
地面が、かすかに震えた。
ゴォォォォン──ッ!!
突如、地鳴りのような振動が洞窟全体を揺さぶった。
「なっ……!?」
龍之介はとっさに足を踏ん張り、近くの岩に手をついた。
天井から、砂や小石がパラパラと降り注ぐ。
「龍ちゃん……なに、これ……?」
綾の声が震える。
壁に背を預け、怯えた目で周囲を見回していた。
「地震……か?」
その瞬間だった。
ドォォォォォン!!
爆発のような轟音。
入り口の向こうから、黒煙がうねるように押し寄せる。
外の光を、跡形もなく塗りつぶしていった。
続いて──
藍碧色の光が、洞窟の奥へと静かに流れ込んでくる。
それは、波紋のように広がり、壁に埋まる鉱石が呼応するように脈動を始めた。
心臓の鼓動のように、ゆっくりと、しかし確かに。
「うっ……!」
龍之介は思わず目を細める。
鮮烈な輝きが、視界を歪ませる。
「龍ちゃん、これ……」
綾が龍之介の腕を掴んだ。
その手は、小さく、震えていた。
「わかんねぇ……でも、これ……ただの地震じゃねぇぞ……!」
次の瞬間。
洞窟の入り口から、猛烈な風圧が吹き込んだ。
「──っ!?」
耳をつんざく爆風が、洞窟内を引き裂く。
重圧が全身を襲い、空気すら奪われる。
「うわああっ!」
龍之介の体が宙に浮いた。
そして──
背中を、岩壁に叩きつけられる。
激痛。
視界が、一瞬真っ白に弾けた。
「くそっ……綾!!」
痛みに顔を歪めながら、必死に目を開く。
綾の姿を探すと──
彼女もまた、吹き飛ばされ、地面に転がっていた。
「だ、大丈夫か……っ!」
「う……ん……」
綾はかすかにうなずいた。
荒い息が、まだ整わない。
立ち上がろうとした、その時だった。
洞窟中の鉱石が、一斉に輝きを放った。
藍碧色の光。
けれど、いつもとは違う。
それは、静かでありながら、圧倒的な存在感を帯びていた。
空間そのものを支配するような光だった。
「……っ」
龍之介は、息を呑む。
その光は、生きているかのようだった。
壁を這い、床を滑り、洞窟全体に浸透していく。
「龍ちゃん……これ……」
綾が袖を強く握る。
小さな手が、かすかに冷たい。
光は、二人を包み込むように広がり──
どこか、底知れぬものを孕んでいた。
「……なんだよ、これ……」
龍之介の指先が、かすかに痺れた。
体の奥底に、熱が染み込んでいくような感覚。
「……っ」
綾の呼吸が浅くなる。
その瞳は深く沈み込み、揺れていた。
そして──
光が、弾けた。
視界が、暗転する。
耳鳴りが、遠く響く。
──静寂。
気がついた時、すべては元の静けさを取り戻していた。
光は再び、脈動するだけの、静かな呼吸に戻っていた。
龍之介は、荒い息を整えながら、周囲を見回す。
──そして。
背筋が凍った。
道が、消えている。
崩れ落ちた岩が無造作に積み重なり、完全な壁を作っていた。
光の筋すら差し込まない。
「……っ」
土と岩の匂いが、重く、鼻を突く。
「おい……嘘だろ……」
龍之介は、震える手を瓦礫に触れた。
押す。
叩く。
蹴る。
──びくともしない。
「くそっ……おーい!! 誰か!!!」
叫び声が、虚しく洞窟内に反響する。
「助けて! 誰かいませんか!?」
綾も、両手で岩を押し、声を張り上げた。
けれど、返事はない。
ただ、鉱石の光だけが、静かに呼応するように瞬いた。
「くそっ……!」
龍之介は拳を握りしめ、岩を殴りつける。
鈍い衝撃。
指先に走る痛み。
「いって……くそっ!」
指の皮が擦り切れ、じんと熱を帯びる。
「おい、綾! こっち手伝え!」
「……うん!」
二人は瓦礫の隙間に指をかけ、力いっぱい押し上げる。
けれど──
微動だにしない。
岩の壁は、二人の力を拒むように、冷たく沈黙を守っていた。
「嘘だろ……なんで……?」
龍之介は荒い息を吐いた。
額から汗が滴る。
──このままじゃ、本当に出られない。
冷たい空気が、肌を撫でる。
洞窟の奥で、ぽつり、ぽつりと水滴の音が響いていた。
──こんなところで、死ぬのか……?
喉が、かすかに詰まる。
鼓動が、早まる。
「……っ、考えるな……」
龍之介は、荒れる呼吸を無理やり整えた。
「……喉、乾いた」
綾の声が、ぽつりと落ちる。
その言葉で、龍之介も自分の喉が焼けつくように渇いているのを自覚した。
「……確か、奥に湧き水があったよな」
二人は言葉少なに、洞窟の奥へ足を向ける。
光る鉱石が、足元を淡く照らしていた。
***
地面に流れる、小さな水の流れ。
岩の隙間から、冷たく澄んだ水が静かに湧き出していた。
龍之介は膝をつき、両手ですくう。
冷たい。
喉を通る感触が、少しだけ体を落ち着かせる。
綾も同じように、そっと手を差し出した。
二人はしばし、無言のまま水を飲み続けた。
呼吸が、少しだけ静まる。
だが。
落ち着いた分だけ、現実が重くのしかかる。
──出口は、塞がれたまま。
「……このまま、出られなかったら?」
心の奥で、誰かが囁いた。
冷たい水が喉を通るのに、胸の奥がきゅっと詰まる。
「さっきの……地震……だよね?」
綾が、不安げに言う。
「外は、どうなっているんだろう?」
龍之介は言葉に詰まった。
本当に、あれは地震なのか?
あの光は──?
藍碧色の波。
爆風のような衝撃。
とても、ただの地震とは思えなかった。
──でも。
今、綾を不安にさせるわけにはいかない。
「そうだな……」
「でも、この洞窟が崩れただけなら、外もそんなにひどくないかもしれない」
「すぐに、誰かが探しに来るはずだ」
口にした言葉が、ひどく苦かった。
──本当に、助けは来るのか?
ここは、二人だけの秘密の場所。
誰も知らない、この洞窟。
「……大丈夫だ」
龍之介は、そっと拳を握った。
洞窟は、ただ静かだった。
光る鉱石だけが、心臓のように、淡く脈動していた。
二人はそっと背を寄せ合い、壁にもたれて座り込んだ。
光は、変わらず優しく、けれど無情に洞窟を照らしていた。