或る夏の日
燈の森での日々は、静かに流れていった。
授業を受け、食堂で食事をとり、翔と共に施設内を歩く。
少しずつ、龍之介はこの場所に馴染み始めていた。
けれど、頭の片隅には、常に綾のことがあった。
(綾……)
療養棟の前を通るたびに、思う。
あの扉の向こうで、今も眠り続けているのだろうか、と。
***
その日、授業中に舞が教室の入り口に現れた。
「羽瀬くん、ちょっといい?」
龍之介はすぐに立ち上がる。
教室を出ると、舞が静かに言った。
「龍之介くん、綾ちゃんが目を覚ましたわ」
療養棟の室内は、ひんやりとしていた。
白いカーテンが揺れる。
ベッドの上には──綾。
ゆっくりと、彼女のまぶたが開く。
ぼんやりとした瞳が、室内の光を捉え、焦点を探すように揺れた。
「……綾……」
龍之介は、言葉にならない声を漏らしながら、ベッドのそばへと歩み寄る。
その時、ふと気づく。
綾の細い指が、何かを握りしめていた。
──銀の鈴。
かすかに、揺れる音が鳴った。
それは、龍之介が託した大切なものだった。
綾はまだ完全に覚醒しているわけではない。
意識の境界が曖昧なまま、微かに瞬きを繰り返していた。
龍之介はそっと、その手を握る。
冷たくても、確かな体温があった。
そして、その中に──あの鈴の硬い感触を感じた。
「……良かった……本当に……」
握った手は、まだ少し冷たかった。
けれど、微かに、その指が龍之介の手を返すように動いた。
綾は、ぼんやりと龍之介を見つめる。
そして──微かに唇を開いた。
「……龍ちゃん?」
その声に、龍之介の喉が詰まる。
綾の手の中の鈴が、かすかに鳴った。
チリン──
少しだけ、綾の指が動く。
龍之介は、もう一度、そっとその手を握りしめる。
「次は絶対に守る。俺が」
彼の言葉を聞いて、綾はゆっくりと微笑んだ。
「……うん……」
細い声で、そう呟いた。
指の隙間から、銀の鈴がかすかに覗いていた。
手のひらから伝わる、確かな温もりと、あの鈴の冷たい感触。
龍之介は、その感触を確かめるように、もう一度強く手を握った。
──数日後。
綾が療養棟から出ると聞き、龍之介は迎えに向かった。
扉が開くと、そこには綾がいた。
「……外だ」
綾はゆっくりと歩き出し、眩しそうに空を仰ぐ。
「久しぶりに太陽を見た気がする……」
「大丈夫か?」
龍之介が声をかけると、綾はふっと微笑んだ。
「うん。でも、ちょっと歩き慣れてないかも」
「なら、ゆっくり行くぞ」
そう言って、龍之介は校舎へと案内し始めた。
燈の森の敷地を歩きながら、龍之介は綾に校舎を案内する。
「ここが食堂。朝昼晩、ここで飯を食う」
「へぇ……広いね」
「そっちは教室。授業は低学年と高学年、中学生の3グループに分かれてる」
「授業……私も受けるの?」
「当たり前だろ。燈の森は孤児院だけど、学校でもあるんだ」
綾は「ふーん」と小さく呟きながら、辺りを見回す。
「龍ちゃん、結構馴染んでるね」
「……そうでもねぇよ」
そんな会話をしながら校舎の裏手に差しかかったとき──
「あれ? 龍之介?」
聞き慣れた声がした。
振り向くと、翔が立っていた。
「お前、今日は授業サボりか?」
翔は軽く肩をすくめる。
「違うよ、用事が終わっただけ」
綾が龍之介の横から顔を覗かせる。
「龍ちゃんのお友達?」
龍之介は少し眉をひそめ、わずかに視線を逸らした。
「別に、友達ってわけじゃ……」
「ひどいな」
翔は苦笑しながら肩をすくめた。
「彼女が例の綾ちゃん?」
「……あぁ。やっと外に出られたから案内してやってんだ」
「そうか」
翔は微笑み、綾に向かって手を差し出した。
「僕は伏見翔。龍之介のルームメイトだ」
綾は一瞬驚いた顔をした後、手を取った。
「龍ちゃんと一緒の部屋なんだ?」
「まぁね」
「へぇ……なんか意外」
「意外?」
翔が小首をかしげる。
綾はくすっと笑った。
「龍ちゃん、誰かと同じ部屋って嫌がるタイプかと思ったから」
「はぁ? そんなことねぇし」
龍之介が顔をしかめると、翔は面白そうに笑った。
「僕も最初はそう思ったけど、意外と平気みたいだよ」
龍之介はため息をつき、視線を逸らす。
「……くだらねぇ話してねぇで、行くぞ」
「はいはい」
翔と綾が顔を見合わせ、ふっと笑う。
そうして三人は、校舎の中へと足を踏み入れた。
三人でひとしきり校舎を回り、昇降口に戻ってきた。
「じゃ、また後でな」
龍之介が綾に言う。
「うん、夕食の時間になったら食堂でね」
綾はそう返し、女子部屋へ向かって歩き出す。
今日から綾も、他の女子たちと同じ部屋で過ごすことになる。
燈の森では、子供たちは4〜6人の相部屋で生活している。
もちろん、男子と女子は別々。
龍之介と翔の部屋は4人部屋だった。
並べられた四つのベッド。
壁際には、それぞれの私物を置ける小さな棚が備えられている。
もちろん、プライバシーなんてものはほとんどない。
だが、不思議と息苦しさは感じなかった。
同じ境遇の子供たちが集まるこの場所では、
互いを干渉しすぎず、それでいて自然と助け合う空気があった。
龍之介は、部屋に戻るなりベッドに倒れ込んだ。
硬めのマットレス。
けれど、数日間過ごしているうちに慣れたのか、妙に落ち着く。
隣のベッドに腰掛けた翔が、ふっと呟いた。
「……良い子だね」
龍之介は、天井を見つめたまま答える。
「まぁな」
なぜか、少しだけ得意げだった。
翔が微笑む。
「二人は幼馴染だっけ? いいなぁ、羨ましいよ」
「……?」
龍之介は、僅かに目を細めた。
「僕には、そういう友達はいないから」
短い沈黙。
龍之介は、しばらく考えるように口を閉じたままだった。
「……友達なんて、これからでも作れるだろ」
ぶっきらぼうに言う。
翔は、軽く目を伏せてから、くすっと笑った。
「そうだね。龍之介や綾ちゃんにも出会えたし」
龍之介は、それ以上何も言わなかった。
窓の外を見る。
空は、深い夕焼け色に染まっていた。
沈む太陽が、燈の森の校庭をオレンジ色に照らす。
外からは、子供たちの声が響いてくる。
笑い声、駆け回る足音、誰かの呼ぶ声。
龍之介は、ぼんやりとその音を聞きながら、静かに目を閉じた。




