第二十三章 時を越えて 4
「――二人とも、そろそろいいかな?」
フレデリカが心底すまなそうに声をかけてくる。
アマーリエは思わず泣きながら笑った。「ええ。別れを惜しみ始めたら、きりがありませんもの」
「元気でな、アマーリエ」
ガウフリドゥスが精いっぱい取り繕ったような平静さで声をかけてくる。
「あなたもね、ジェフリー」
アマーリエもどうにか笑って応えた。
ぎこちない明るさで最後の別れを告げて洞穴の口へと向かう。
「それじゃ、まずは俺から入るよ」と、アルベリッヒがわざとらしいほど明るい声で言う。「なんたって暗がりには焔が必要だからね」
等級《一》の焔神の加護持ちの少年の口調からは今までにない自信が感じられた。アマーリエはその声音に姉みたいな喜びを感じた。
彼にとっても、時空を超えるこの旅には大きな意味があったのかもしれない。
ロープの束を肩にかけたアルベリッヒが洞穴の口から中へと滑り込む。
ロープの先端は外に立つシグルーンとガウフリドゥスが握っている。
栗毛の巻き毛の頭が洞穴の内へと消えてすぐ、ロープがピンと張った。
無事底に飛び降りられたらしい。
「わが守護たる焔神カレルよ、お力をくだされ賜え」
暗がりの底から詠唱が響き、ポウっと淡い火明かりが地の底から射してくる。
「じゃあまず俺が行きますね。ロープの強度を確かめないと」
エーミールが申し出てロープを伝って洞穴の底へと下ってゆく。ハインツとアーデルハイトが続いたあとで、フレデリカに促されてアマーリエもロープを握った。
「気をつけろよ」
頭の上からガウフリドゥスが言う。
「ありがとう」
最後にそれだけ告げ、ロープを伝ってそろそろと地の底へ降りてゆく。
短い冒険のあいだに厚さを増したらしい掌はもうロープでは傷つかなかった。
アルベリッヒの掌の上に浮かぶ小さな焔に明るめられた洞穴の底へと至るなり、堪えに堪えていた涙が堰を切ったようにあふれ出した。
アマーリエの涙が引っ込むまで仲間たちは辛抱強く待ってくれた。
嗚咽が間遠になったところでフレデリカが声をかける。
「さて、では戻ろうか。ねえハイジ、我々は確かあっちのほうの横穴を通ってきたんだよね?」
「ここから見ると右側だよ」と、地図製作者アーデルハイトが自信をもって応え、「アルベリッヒ、そろそろ変わるよ」と申し出て、掌に焔を浮かべて先頭に立った。「皆ついてきて。帰り道は覚えているよ」
アーデルハイトの先導に従って暗がりの中を歩くうちに、じきに洞の壁の中ほどに開いた横穴が見つかった。一同はロープの助けも借りて四苦八苦して横穴を抜け、その先にぽっかりと広がっていたもう一つの洞へと出た。
「ここかな?」
フレデリカが心許なそうに訊ねる。
「ここだよ。間違いない」
アーデルハイトが揺らぎない声音で請け合い、一転して不安そうに訊ねてきた。「アマーリエさま、ドワーフ語での《廻りの主》への祈祷ってこれでいいんでしたっけ?」と、おぼつかない口ぶりで諳んじて見せる。
「ちょっと違いますわね。隊長殿とアルベリッヒとエーミールもよく聞いて、わたくしに合わせて詠唱してください」
「はーい師匠」
「やれるだけがんばりまーす」
若者二人が学校通いの子供みたいな応えを返す。
アマーリエは思わずくすりと笑ってから、掌の上に碧い石の護符を乗せて、ペラギウ山脈で暗記したドワーフ語の祈祷を諳んじにかかった。
繰り返すうちに他の五人も唱和してくる。一同は暗がりの中で無心に詠唱を続けた。
月も星も見えない洞穴のなかで夜明けがいつ来るのかは分からなかった。
ひたすらに何かを信じながら詠唱を続けるうちに、掌の上の護符が突然青い閃光を発したかと思うと目の前が暗くなった。
足元が大きく縦に揺れ、頭上から細かな砂粒が小雨のように降る。
「――みな伏せろ!」
フレデリカが命じながら、アマーリエの躰を抱きとめて一緒に地面に伏せる。
数秒おいて揺れが止まった。
暗がりのなかでアーデルハイトがそろそろと体を起こす気配がする。
「わが守護たる焔神カレルよ、お力をくだされ賜え」
詠唱とともに小さな焔が生じて暗がりを照らし出す。
「ここは――」
アマーリエは起き上がりながら左右を見渡した。
「戻れた、のか?」
フレデリカが心許なそうに呟く。
「仮に戻れていたとして」と、エーミールが沈鬱な声をあげる。「ここからどう出るんです? 完全に崩れていますよ?」
エーミールの言う通り、一同のいる天井の低い地下通路の行く手は、右も左も瓦礫に阻まれてふさがりかけているのだった。
未来の世界に戻れているのかいないのか、それさえも分からない。
「出口は問題ないよ」と、アーデルハイトがこともなげに言う。「今来た横穴を戻ればいい。どっちにしたって、私たちがもともと目指していた宝物庫もあの先だ」
アーデルハイトはそう言い切るなり、今出てきた横穴へと躊躇いなく戻っていった。残りの者も慌てて従う。
横穴から始まる傾斜路は先ほどと変わらず狭かった。
ようやくに抜けて広い空間に出る。
「ハイジさん、今度は俺が燈すよ」と、アルベリッヒが加護の焔を燈してくれる。
その焔に照らしだされた空間を目にするなり、アマーリエは息を呑んだ。
昨夜――おそらくは昨夜降り立った天然の鍾乳洞とは似ても似つかない煌びやかな広間が目の前に広がっていたのだ。
形は正確な八角形で、八本の柱が上方で合わさって丸屋根のような形を作っている。
柱と柱のあいだは鮮やかな紺青で彩られ、金と白とで星々が描かれている。
「--どうやら戻れているみたいだね」と、フレデリカがため息のように言う。「宝物庫はこの先なんだ。私の体格でもギリギリまでは通れたんだけど、最後の口が潜れなくてね。アマーリエ、あんたに頼むしかないんだ」
心底申し訳なさそうに言う。
アマーリエは苦笑した。「任せてくださいな。そのためにここまで来たのですから」
「恩に着る」
「ありがとうございます」
やたらと感謝してくるアーデルハイトから四枚の《白竜の鱗》を受け取ったアマーリエは、フレデリカの指示通り狭い横穴を通って、小さな宝物庫へと入った。
そこには石の台座があり、黄金の杯や、宝石をちりばめた宝剣や、輝く金貨や紅玉や大粒の真珠までが転がっていた。
「あの子たち、随分控えめな品を盗ってきたものね」
アマーリエは思わず笑ってから、皮の巾着から四枚の鱗を取り出し、同じような品の散らばる辺りにそっと戻しながら祈った。
「ドワーフがたの創造者たる鍛冶神ティバルクよ、汝の被造物がたの宝物をお返しいたします。どうか幼い者たちの罪を許されますよう」
頭を低めてしばらく祈ってから、狭い横穴を抜けて分岐広場へと戻る。
「――戻せました?」
アーデルハイトが不安そうに訊いてくる。
「ええ」
アマーリエは相手を安心させるための笑いを拵えて応えた。「戻しました。わたくしたちも地上へ戻りましょう」
分岐広場から地上への道を捜すためにまた風を読むことになった。
アーデルハイトとアルベリッヒが代わる代わる加護の焔を燈して、その焔をなびかせる風の向きへとひたすらに歩くうちに、一同はまた天然の鍾乳洞へと戻っていた。
外はもう陽が出ているらしく、頭よりも高い位置に切れ込む三日月形の裂け目から新鮮な風と共に光が射してくる。
「此処を出れば東丘――の、はずなんだが」と、ハインツが不安そうに言う。「外へ出たらまた過去に逆戻りなんてことはないよな?」
「そのときはそのとき、出たときに考えよう」と、フレデリカが雑駁に励まし、真っ先に岩肌にとりついて裂け目へと登りにかかる。
「ああもう隊長殿、何だってあんたは自分で先陣を切りたがるんです!」と、痩せ男がおなじみの愚痴をこぼす。
「おお朝だ――や、もう昼に近いのかな?」と、裂け目から無事外へ出たらしいフレデリカが声を返し、外からロープを投げてくれた。「皆登って来い。見たところ危険はなさそうだよ!」
ロープ登りも二度目となるとそう苦労はしなかった。
今度はフレデリカの手によって裂け目から引っ張り出されたアマーリエは、外へ出るなりあまりの眩しさに眩暈を感じた。
夜明けどきどころかもう昼近くだ。
松林の向こうから明るい陽が射している。
「ここは現代――ですかね?」
エーミールが不安そうに言う。
「とりあえず林を出よう」
なんとも心許ない気分で松林を抜けるなり、アマーリエは安堵のため息をついた。
目の前に広がっているのは漠々たる草地ではなく、春先らしく丈の低い青草に覆われたなだらかな牧草地だった。
右手にポプラの並木に縁取られたランサウ街道が見え、行く手には石造りの壁が見えた。
ゼントファーレンの市壁だ。
現代に戻ってきたのだ。
「戻れたね」
フレデリカがぽつりと言う。
「ああ。戻れたみたいだ」
アーデルハイトが強張った声を返す。
アマーリエは彼女の内心を察した。
子供たちが目覚めているかどうか、それを最も気にしているのだ。
「皆さま、とりあえず東門へ向かいましょう。ここが現代であるなら、一刻も早く施療院へ戻らなければ」
「あ、ああ。そうだね」と、フレデリカが我に返る。
一同は揃って東門へ向かった。
謎の疫病に悩まされる現代のゼントファーレンは今も市門を閉鎖していたが、門衛たちは幸い、ゼントファーレンの準市民である女傭兵隊長《赤翼のフレデリカ》を知っていた。
「今すぐ施療院に報せをやって子供たちの具合を確かめてくれ。それから、ロージオンの騎士シャルル・ド・ベルナールどのがおいでだったら、フォン・ヴェルンの姫君はご無事だとお伝えするんだ」
「承った。皆もしよければ番小屋で休むといい。随分と疲れた顔をしている」
門衛たちは親切にも一同を外の番小屋に招き入れて軽食を振る舞ってくれた。
軽焼きパンとチーズと葡萄酒というごく簡素な食事を黙々と平らげていたとき、外から荒い足音が近づいてきたかと思うと、バンっとばかりに扉が開いて、大柄な男たちがドヤドヤと駆け込んできた。
「隊長殿! ハインツ!」
「アルベリッヒ! エーミール!」
「ハイジさんに姫君!」
「みな無事だったんですね!」
大柄すぎて地下通路を通れないという理由で迷宮探索から中途離脱を余儀なくされていたフレデリカ隊の残り六名である。
むさくるしく大きく筋肉質の傭兵たち六名が涙ぐみながら詰めかける様子ははぐれた主人をようやく見出した大型犬の群れさながらだった。
「おいおい皆落ち着け。この通りこっちは皆無事だ」と、フレデリカがひしとばかりに抱き着いてきた黒髭の大男の背中を叩きながら苦笑する。「お前たちがこうして出てこられたってことは、疫病騒ぎは収まったんだな?」
「そうなんですよ!」と、黒髭のレオンが感極まったように応える。「つい今しがた施療院で子供らが皆目を覚ましましてね、ハイジ、良かったなあ、ヨーゼフも起きたぞ! フランツさんがついている。あんたもすぐ行くだろ?」
「勿論だよ!」と、アーデルハイトが母親の顔で叫ぶ。
そのとき再び扉が開いて、聞き馴染みのある男の声が響いた。
「姫君、ご無事であったか!」
よく徹る声とともに番小屋に駆けこんできたのは勿忘草色のチュニックを纏った背の高い男だった。
肩に垂れる暖かみのある枯れ草色の髪。
チュニックと同じ明るい青い眸。
ロージオンのシャルル・ド・ベルナールだ。
一三〇〇年前の王弟ガウフリドゥスの遠い子孫だ。
――彼の目は青いのね。
アマーリエは唐突にそんなことを思った。
「……姫君?」
シャルルが戸惑ったように呼ぶ。「どうなさった? お加減でも悪いのか?」
心底心配そうに顔を覗き込んでくる。
「いえ」
アマーリエは慌て否んだ。「なんでもありませんわ。――護符をお返しいたします」
感情を押し殺そうとすると声が冷たくなってしまう。
戸惑い顔のシャルルを尻目に腰に吊るした巾着から青い石の護符を取り出す。
平たい石はもうすっかり光を鎮めていた。
こうしてみると単なる装身具のようだ。
「ありがとうございました。この護符は間違いなくわたくしどもを護ってくれましたわ」
声が震えそうになるのを堪えて淡々と告げ、護符を掌に載せてシャルルへと差し出す。
「そうか。それならば重畳だ」
シャルルが戸惑いながらも護符を受け取ったとき、アマーリエは微かな眩暈を感じた。
「――姫君?」
シャルルが困り切った声で呼ぶ。「どうして泣いているのだ?」
「分かりません」
アマーリエも戸惑いながら答えた。「分からないけれど涙が出るのです」
「そうか。きっとお疲れになったのだな。私たちが離脱したあと、一昼夜ずっとあの洞穴のなかで迷っていらしたのだものな」
「あら、一昼夜だけでしたの? もっと長いかと思っていました」
答えながらアマーリエは自分の心のなかから過去の記憶がゆっくりと消えてゆくのを感じていた。
--ああ、時空呪術による忘却は未来へ戻る者たちにも及ぼされるものだったのね……
そうと悟った瞬間、脳裏に懐かしい誰かの声が響いた。
幸せになれよ。
幸せになれ。
未来で必ず。
大丈夫、約束するわ――と、アマーリエは誰とも知れない誰かの泣き出しそうな琥珀色の眸を思い出しながら心の中で応えた。
わたくしは必ず幸せになる。
そしてこの愛しさを覚えている。
たとえあなたを忘れたとしても、この愛しさだけは死ぬまで覚えている。




