第二十三章 時を越えて 3
《チャーノスの屍樹》による破壊は幸い渡し場の市街地にまでは及んでいなかった。
集会堂が負傷者のために開け放たれたため、アマーリエはその日の午後一杯ずっと手当に駆けまわって過ごした。
他の負傷者と一緒に集会堂の回廊に運ばれて休んでいたネルは日暮れどきに目を覚ました。
アマーリエはちょうど彼女に蜜を溶かした薬湯を飲ませようとしているところだった。
「ああネルさま、お目が覚めたのですね! 待っていてくださいな、すぐにジェフリーを呼んでまいりますから」
アマーリエが治癒者の本能的な喜びも露わに告げると、栗毛のエルフは黒い目をぱちくりさせて意外そうに言った。
「なんだ、お前たち最後の時間を一緒に過ごしていないのか?」
「――どういう意味です?」
「隠すな。あれと相愛なのだろう? 私の世話などどうでもいい。早く思いを告げてこい」
ネルがエルフらしいよく澄んだ声で命じる。
いつのまにか回廊中の怪我人たちの視線が集まっている。
アマーリエは眉をしかめた。「……告げたって仕方ありませんわ。わたくしは未来に戻り、ジェフリーはわたくしを忘れ――どこかの誰かを妻にして子孫を残すのですから」
「それでも今愛しているのだろう?」と、若い――人間の目には極めて若く見えるエルフが幼子を諭す口調で言う。「それなら思いは告げておけ。幸福な恋の記憶は樽のなかの甘い林檎みたいなものだ。一つ混じっていれば他の林檎も甘くなるんだ。無いよりはあったほうがいい。長い永い一生のほんの一瞬だったとしてもな」
ネルは言いながら目を細めて列柱の隙間から射す赤い入日を仰いだ。
アマーリエはその顔にはっと思いついた。
「恋していらっしゃいましたの?」
「ジェフリーにか? それはとてつもない誤解だ。あれは私の孫の孫の孫くらいだぞ?」
「いえ、その――あなた様の死すべき御夫君に」
「ああ、サイフリトゥスか」と、ネルはまた懐かしげに目を細めた。「愛していたよ。――海エルフの王国が滅ぼされたとき、私は本当に幼かった。呪術で姿を人間のように変え、ロージオンの族長を頼るために南方へ逃れたんだ。しかし、その途上で反乱軍に捕まってな。指揮官は私を人質にされていた人間の娘だと勘違いして養女として育ててくれた。私はずっと自分を人間だと信じて育ったんだ。そしてあの男と出会った」
「ロージオンの族長と?」
「ああ。あのときはまだ族長の息子だったが。サイフリトゥスの一族はずっと私を捜していたのだ。アガラーエスの王女ハリフィアンの娘アナイスをな。彼らにその名を呼ばれたとき私の晦ましは解け、私はエルフの姿に戻った」
いつのまにか回廊が静まりかえっていた。
怪我人も避難者も治療者たちもみな、息をつめて栗毛のエルフの淡々とした語りに耳を傾けている。
ネルはそのことには気づかず、細い肩を落としてやるせなげなため息をついた。
「きっと同じとき、北方でグエンの晦ましも解けていたのだと思う」
「――グエンというのは、あの偽王女のことですか?」
「そうだ。グエンは――グエンフマラは、アガラーエスの王宮に人質として差し出されていた人間の族長の姫の一人だった。銀色をおびた金髪と海のように碧い目をした美しい娘でな、私とは姉妹のように育った。アガラーエスが滅びたとき、私は人間に姿を窶して南へと逃された。グエンはエルフに姿を窶され、囮として北へと向かわされた。私が自分を人間だと信じていたように、グエンも自分をエルフだと信じていたのだろう――……」
ネルはそこまで口にしたところで、顔を歪め、肩を震わせ、両手の拳を硬く握って激しく慟哭し始めた。
同じ日の日暮れ過ぎ――
アマーリエは来たときと同じ毛織のマントを羽織って、高いイネ科の植物の茂る野原のあいだを伸びる路を東へと歩いていた。
すぐ前を行くのはアーデルハイトで、後ろにはエーミールが続く。
先頭で松明を手にしているのはフレデリカではなくシグルーンだ。
しんがりにはハインツに加えて、こちらも松明を手にしたガウフリドゥスが続いている。
ネルに散々諭されたというのに、アマーリエは結局ガウフリドゥスと個人的には何も話さなかった。
ペラギウ山脈のドワーフたちの説明によれば、時空呪術で過去に飛ばされた者たちに関する記憶は、当人たちが未来へ戻った時点で、過去世の者たちからは完全に失われるのだという。
だから、話すだけ無意味だ――と、アマーリエは自分に言い聞かせる。
愛している?
愛していた?
何を告げたところで意味はない。
明日の朝になればガウフリドゥスはすべてを忘れる。
そしていずれは妻を娶って子孫を残すのだ。
深い物思いに沈みながら足を進めるうちに、やがて草地が途切れて松林へと出た。
柔らかく落ち葉の積もった地面を踏んで木々のあいだを抜け、東丘の崖の前へと出る。
目の前に洞穴の口がある。
「あれか?」と、シグルーンが訊ねる。
「ええ」
フレデリカが軽く頷く。「どうもお騒がせしました。ようやく戻れますよ」
「無事の帰還を祈っている。ジェフリー、明日の朝になったら、我々はアヌビルを捜しに川上へ向かうことにしようか?」
女騎士が気さくに声をかけると、しんがりで静かにしていたガウフリドゥスが妙にぎこちなく答えた。
「あ、ああ」
その声はひどく強張っていた。
必死に感情を押し隠そうとしているのだとアマーリエは気づいた。
そう気づいた瞬間、アマーリエ自身の激情が迸った。
「――ジェフリー!」
思わず呼んでしまう。
「なんだ?」
王弟殿下が眉をよせて唸る。
不機嫌そのものの表情だが、アマーリエはもうだまされなかった。
彼が抱えているのは怒りだ。
愛する者との別れを強いる運命への怒りだ。
「あなたを愛している。あなたが私を忘れても、ずっと愛している」
正面から相手を見あげながら告げるなり、ガウフリドゥスは首がもげそうな勢いで振り返ったかと思うと、両腕でアマーリエを抱きしめて縋りつくように力を込めた。
「――忘れろって諭すのが正しいんだろうが」
耳元で震える声が呟く。「幸せになれよ。幸せになれ。未来で必ず――」
「ええ大丈夫。約束する」
アマーリエは自分の涙を堪えて笑いながら答えた。「私は幸せになるわ」
どうにかそれだけ口にして、ガウフリドゥスの広い背を軽く叩いてやる。
ガウフリドゥスは名残惜しそうに腕を放すと、アマーリエの唇に触れるだけのキスを落とした。




