第二十三章 時を越えて 1
背後で爆音が響いた次の瞬間、水面が後ろからせりあがった。
平底船の船尾の側が下から持ち上げられるように昇る。
「……――アマーリエ、捕まれ!」
ガウフリドゥスが後ろから叫び、腕のあいだにアマーリエを抱き込むようにして、両手で櫂を掴んで横にのべる。
アマーリエが咄嗟に櫂を掴んだ瞬間、均衡を崩した船の縁から体が投げ出されるのが分かった。
またも水のなかだ。
つづく冷たさを覚悟して思わず目を瞑ったというのに、飛沫をあげて投げだされた水中は不思議と冷たくなかった。
息もできる。
少なくとも苦しくはない。
目を開くと柔らかな霞のような光を感じた。
水それ自体が光を孕んでいる。
――ネル様だわ……
アマーリエはぼんやりと思った。
目の前には櫂の柄を挟んで向き合うように漂うガウフリドゥスの顔があった。
黒髪を翼のように広げ、瞬きひとつせずに目を見開いている。
最初は極めて明瞭に見えていた顔がしだいにかすんでゆく。
光が薄れているのだ。
この護りはもうじきに終わるとアマーリエは悟った。
口をぱくぽくと動かして唇だけでジェフリーと呼ぶ。ジェフリー、櫂の柄を下に。川底を突いて浮き上がるの!
苛立ちながら無理やりに柄を下向かせる。
ガウフリドゥスは戸惑っていたが、じきに意図を理解したのか、アマーリエが握る上下を自分も両手で握って、極めて強い力で川底へと突き動かした。
グーっと全身が沈み込み、重い打撃のあとで今度は浮上の感覚がくる。
光のなかを浮かび上がる。
頭上に水面が見える。
ザンっと飛沫を立てて水面を破った瞬間、重く冷たい現実の水の感触が戻ってきた。
すぐ近くに平底船が逆さまになっている。
ガウフリドゥスが片腕を伸ばして船を引きよせながら怒鳴る。
「捕まれアマーリエ!」
もう一方の手がアマーリエの腕を掴んでグイと引き寄せてくれる。
二人で逆さの舟の縁の両側に掴まり、息を合わせてバタ足をしてどうにか岸へと近づいてゆく。
礫の多い小さな浜のような岸にはもう十数名の先客がいた。
皆がブルブル震えながら脱いだ上衣や髪を絞って水を垂らしている。
なかにフレデリカの姿もあった。
「隊長殿!」
アマーリエは叫びながら駆け寄った。
「アマーリエ! 王弟殿下も。二人とも無事だったんだね」
女傭兵は嬉しそうに笑いながら近寄ってきたが、その足取りはどことなくおぼつかなかった。よく見れば顔色も真っ青だ。
その顔を見るなり、アマーリエも骨も凍らんばかりの寒さを思い出した。「急いで上流へ戻りましょう。皆すぐ焔の傍に」
ガクガクと震えながら上流域に目をやる。
上流の岸にはまだ焔が燈っていた。
しかし、石段のあった埠頭のあたりは完璧に崩れている。
ところどころに石片と、竜の鱗を思わせる黒っぽい破片が散らばっている。
そのあたりになぜか軍団兵が群がっていた。
シグルーンを筆頭にして何かを取り囲んでいるようだ。
見ればアーデルハイトとハインツに加えて、アルベリッヒとエーミールまでいるようだ。
「……集まって何をしているんだ?」
三人は顔を見合わせ、寒さを堪えて震えながら足早に埠頭の位置へと走った。
他の避難者たちも鴨の子のように従ってくる。
「おーいお前たち、そこで何をしているんだ?」
「シグルーン様、そこに何が――」
呼ばわりながら駆け寄るなり、フレデリカ隊の三名とアーデルハイトが真っ先に嬉しそうな声をあげた。
「隊長殿!」
「アマーリエも!」
「薬師どの、無事だったか!」と、シグルーンも叫ぶ。
「おいシグルーン、俺の無事は喜んでくれないのか?」と、ガウフリドゥスがむくれた子供みたいに抗議する。
「ああよく無事だったなジェフリー、いろいろ悪かったよ!」と、女騎士はおざなりに詫びると、
「見てくれ薬師どの、これをどうしたらいい?」
と、心底頼り切った口調で訊ねてきた。
女騎士がよけると軍団兵も分かれる。
衆人が期待に注視するなか、人の環のなかに進んだアマーリエは、目の前にあるものを見とめるなり愕きに絶句した。
砕けた石片と黒い竜の鱗を思わせる破片――おそらくは《屍樹》の樹皮の破片なのだろう――の散らばる水辺にネルが倒れていた。
手足を丸め、まるで胎児のような姿で横向きに体を丸めている。
彼女は腕に白骨を抱きしめていた。
白骨の腕もまた彼女の背を抱きしめている。
薔薇色の頬をした若い――おそらくまだ若いのだろうエルフと真っ白な白骨のあいだ、両者の胸の向き合うあたりに水晶球があった。
「……ネル様」
アマーリエは思わず呼び、おそるおそる足を進めると、横向きに倒れるエルフの口元に掌を翳した。
ごく微かな息がある。
「生きて、いらっしゃるのか?」と、ガウフリドゥスが震える声で呼ぶ。
「ええ」
アマーリエが頷くなり、口元を掌で抑えて堪えかねたように泣き出す。
「おい坊や、こちらのエルフどのとはどういう関係なんだ?」と、シグルーンが戸惑い顔で訊ねる。
「――この方はロージオン王家の遠い母祖たる海エルフの姫君だ。アガラーエス王家の最後の王女たるアナイス・ニレノールさまだ」
「この娘が? まだほんの子供のように見えるのに」
「それじゃ、あのジュニーヴル様とやらは何者だったんだ?」
皆が戸惑いの声をあげる。
ガウフリドゥスが拳で涙をぬぐいながら跪き、「ネル様」と、呼んだとき、栗毛のエルフが唐突に目を開き、瞬きを繰り返しながら不思議そうに呼んだ。
「サイフリトゥス? どうして泣いているの? 大丈夫だよ。私は大丈夫。あなたが死んだあとにもずっと覚えているから――」
彼女はそれだけ呟くなり、また目を閉じてことりと眠り込んだ。
健やかな眠りに相応しく若いエルフが寝返りを打とうとしたとき、背に回されていた白骨の腕がほどけ、細かく燦めく塵となって微風にかき消えていった。




