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第二十二章 晦ましの娘 4

「ここまでだ。とめるよ」

 ネルが囁いて手を水面から引き抜くなり平底船が止まった。


 間髪入れず、前方の埠頭からシュッと風を切る音と共に、太く長い黒い鞭を思わせる《屍樹》の気根が、船の舳先をなぎ倒そうとするかのように眼前を掠めていった。


「アマーリエ、さがっていろ」と、船底に座り込んで素焼きの火皿に焔を熾しながらガウフリドゥスが低く促す。

「たぶん、ここがギリギリの間合いだと思う」と、若いエルフが少々心許なげに言い、やるせなさそうにため息をついた。「近づくには、ここから跳ぶしかないな」


「ええ?」

 アマーリエは愕いた。

 かなり近くまで迫ったとはいえ、平底船と埠頭のあいだには4丈《*約12m》近くの隔たりがある。《屍樹》はその先の崩れた石段の上で、黒々と太い根を生き物のように脈動させ、触手めいた無数の枝を逆さまにされた巨大なイソギンチャクのように蠢かせながら、どこかからシュウシュウと血腥い臭気を噴き出しているのだった。


「跳ぶって、ここからあそこまで?」

 アマーリエは思わず声に出してしまった。「エルフがたにはそんな技能が?」


「飛翔するとは言っていない」と、ネルが苦笑する。「ロープを使うだけだ」


「ロープを、何に投げるのです?」と、ガウフリドゥスが眉をひそめて訊ねる。

 栗毛のエルフは片眉をあげて応えた。「勿論、あの《屍樹》の枝にだ」


「……――無茶ですよ、それは幾らなんでも!」と、ガウフリドゥスが声を荒げた。その顔には本気の焦りと幾何の怒りさえも浮かんでいるようだった。「まさかお命を賭けるおつもりなのですか? あの偽王女のために?」

 アマーリエは場合にもなく微かな苛立ちを感じた。

 ガウフリドゥスはいつのまにこの栗毛のエルフとこれほど近しくなったのだろう?



 ――何を考えているのよわたくしは! 今はそんな場合じゃないでしょう!



 慌てて自らを叱責する。

 埠頭の《屍樹》のすぐ左手には大きな焚火が起こされて、その火の回りに数多くの避難者が群れ集まっている。

 赤い羽飾りの兜を被った軍団兵たちが急ごしらえの松明を手にして右側に並んで、《屍樹》の気根が近づいてくるのを焔で払っている。


 目を凝らせば火の傍にはアーデルハイトとアルベリッヒがいた。


 ハインツもいる。


 エーミールもいる。


 皆が必死になって弱い者たちを怪異(モンストルム)から護ろうとしているのだ。


「ネル様――」

 アマーリエは今まさに己を囮にせんとロープに錘を括りつけている若い――おそらくは若いのだろうエルフの名を思わず呼んでいた。

「なんだ?」と、ネルが黒い眸を細めて微笑う。

「その――」


 おやめくださいというべきか?

 それともお気をつけてと?


 何といっていいか分からないまま唇を歪めていると、ネルがまたふっと微笑し、表情を引き締めて埠頭へと向き直った。


「お前たちのいう偽王女とやらが私の思う通りの人間であるなら、あの怪異は私の運命だ。私がずっと避け続けてきた、向き合うべき私の運命だ」

「それは、どういう意味です?」と、ガウフリドウスが震える声で訊ねる。

「話せたらあとで話す。―-さて、支度が済んだ。ジェフリー、火矢を頼むよ」

 栗毛のエルフは軽い口調で言うなり、先端に石の錘を括りつけた細いロープを振り回して器用に前方へと投げた。

 《屍樹》の気根がヒュンっと風を切る。

 ロープは払い落とされるより一拍速く飛んで、《屍樹》の太い幹から別れる最も太い枝の根元へと絡みついた。


「――跳ぶぞ! 風使い殿、追い風の援護を頼む!」


「承りました!」と、背後の小舟の一艘からフレデリカが叫ぶ。「わが守護たる風神アンティノウスよ、お力をくだされ賜え!」

 声と前後して背後から重い突風が吹く。


 ロープがピンと張る。


 ネルの踵が船縁を蹴る。


 次の瞬間、赤褐色のチュニックに包まれたエルフの華奢な長身がぐっと丸まったかと思うと、まるでロープに引かれるかのように《屍樹》へと向かって跳躍した。



「……――ネル様ぁああ!」

 アマーリエは思わず叫んだ。


《屍樹》のすべての枝が放射状に開いて、太い幹の真ん中がグワリと口を広げた。


 血生臭い臭気が立ち昇る。

 ねとねととした赤黒い粘液が、収縮する黒い開口部の縁から滴り落ちる。


 その悍ましい穴へと跳びながら、エルフが泣き出しそうな声で叫んだ。


「グエン! グエンフマラ! お前だろう、お前なんだろう!? お前が憎むのは世界ではない! 私を憎め! このネルを! アナイスを! お前を囮に南へ逃げたエルフの王女を憎め!」


 ネルの躰が開口部へと今にも飲み込まれそうだ。


 アマーリエは我知らず立ち上がりながら叫んでいた。


「ジェフリー、射て! 火矢を射てください……!」

 言葉と前後してガウフリドゥスが矢を放った。


 ほんの小さな焔を燈した細い、細い矢は、今にも飲み込まれそうなエルフの躰のすぐ右を掠めて、シュウシュウと生臭い臭気をあげる開口部へと吸い込まれていった。


「ハインツ!」

 ほぼ同時にフレデリカが岸へと向かって怒鳴る。「ロープを射ろ!」

「はい隊長殿! お安い御用で!」

 痩せ男が焔の傍から怒鳴り返し、いつのまにか取り戻していた愛用の弩に短い矢をつがえたかと思うと間髪入れずに放った。

 矢がまっすぐにロープを射貫き、ネルの躰が中空でバウンドするように弾む。


 次の瞬間、《屍樹》が開口部をぎゅっと閉ざしたかと思うと、太い幹を痙攣させ、少しずつ膨らませていった。


 アマーリエははっとした。

 この後に爆発がくる。


「――総員退避!」


 気づくなり叫んでいた。「怪異が爆発します! 舟はみな下流に! 岸の人たちは上流側へ走って逃げなさい!!」

 命じながら自分自身も櫂をとる。

 慣れない手で必死に漕ごうとしていると、ガイフリドゥスが背後から蔽いかぶさって腕を添えてきた。


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