第二十二章 晦ましの娘 3
「――あれは、風神殿の巫女が呼び出したのか?」
慄く声で訊ねたのは意外にもネルだった。
アマーリエは頷いた。「ええ。おそらくは。彼女は《冥王の眸》を持っていましたから」
「ジュニーヴルと名乗っていたのだな? そして己をアガラーエスの王女だと」
「そういう噂を広めていましたけれど、きっと偽物ですわ。《眸》による呪術が破れたあとには老いた姿になっていましたから」
「老いた姿。つまり人間ということだな?」
「ええ。おそらくは」
話しながらアマーリエは苛立っていた。
今そんなことを気にしている場合か?
遠目に見てもはっきりとわかる。
埠頭に群れる人々が怪異に襲われて逃げまどっている。
あのなかにはハインツとアーデルハイトもいる。
まだ目覚めているかどうかさえ分からないアルベリッヒとエーミールも、ここ五日間世話になっていたヴェヌーレス氏族の面々も混ざっているのだ。
不死なるエルフにはやはり、人間の命の重みはよく分からないのだろうか?
「ネル様、お話はあとにして、急いで助けに向かわないと」
「無理だ」と、ガウフリドゥスが否む。「あの人数が全員乗れるほどの舟はない」
「じゃあこのまま見捨てろと?」
アマーリエが食ってかかったとき、埠頭の右手の一画に人が集まり始めた。
軍団兵が中心になって丸太や木片を集めている。
アマーリエははっと気づいた。
焔を熾そうとしているのだ。
そうと察したのとほぼ同時に木組みに焔が燈った。
相当湿っているはずだがよくもまあ燈せたものだと感心したところで気づく。
アーデルハイトとアルベリッヒだ。
焔神カレルの加護持ち二人が両側から加護の焔を燈したのだ。
アマーリエは安堵のあまり全身の力が抜けてゆくのを感じた。
「よかった――」
「あの怪異は焔を嫌うのか?」と、ネルが訊ねる。
「はい。少なくとも、イストモスの森のなかでわたくしたちが遭遇したときには、焔が消えるまでは近づいてきませんでした」
「どう倒した?」
「あれは地性触手の変形ですから、どこかに開口部があります。血肉を捕食しようとして開口部を開いたとき、そこに火矢を撃ち込めば。前の時は竜血石を囮にして放り投げたのですけれど」
アマーリエは続けるのをためらった。
1300余年後の伝承では《チャーノスの屍樹》は竜の血を最も好むが、言葉持つ種族の血肉なら何でも好むという。
「今回はその石がないから、生きた血肉の囮が必要なのだな?」
ネルがためらいなく訊ねてくる。
アマーリエは微かな失望とともに頷いた。
この若いエルフにとって死すべき人間の血肉にさほどの重みはないのだろう。
「ネル様、まさか」と、ガウフリドゥスが眉を顰める。
ネルは頷いた。
「私が囮になろう。ジェフリー、火矢の支度を。できれば食われる前に撃ち込んでくれ」
若いエルフは気さくに笑っていった。
ガウフリドゥスがやるせなさそうに頷く。「承った。――ハイナム、他の舟に伝令を! われらはこれから埠頭の怪異を火矢で射る! 念のため後ろから援護を頼む!」
「承知いたしました!」
レビヌス氏族の若者がきびきび答えて櫂を操り始める。
ネルが跪き、船べりから身を乗り出して水面に手を浸す。
そして、低く静かな歌のような声で何かを囁いた。
途端、だれも櫂に手を触れていないというのに、平底船が埠頭に向かって流れるように進み始めた。
アマーリエは呆然としていた。
「ネル様――」
「なんだ?」
栗毛のエルフが手を水に浸したまま応える。
「ご正気ですか? あれはエルフではなく、エルフの王女を騙る偽物に過ぎなかったのに、なぜあなた様がそこまで?」
「――所以は話せば長くなる」と、ネルはため息のように応えた。「私はおそらくあの巫女を知っている。あれは美しい姿をしていたのだろう?」
「……ええ」と、アマーリエは渋々認めた。「銀色がかった長い金髪と、雪花石膏のような膚と、海のように碧い眸をした、禍々しいほど美しい姿をしていました。でも、みなまやかしですわ。あれは偽物です。何もかも作り物です」
「違う」と、若い――おそらくは若いエルフは泣き出しそうな声で応えた。「偽物ではない。あれが間違いなく私の知る人間だったとしたら、本当に美しかったのだ」
ネルの声はあまりにも切なげだった。
ガウフリドゥスが無言で火打石を叩いて火を熾そうとしている。
そうするうちにも埠頭の怪異が近づいてきていた。
左手で大きな焚火が燃えている。
その焔の熾す熱い風が斜め前から吹き付けてくる。




