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第二十二章 晦ましの娘 2

 怪異が踊りだす瞬間をアマーリエは見ていなかった。

 名も知らぬ、だが非常に頼りになる軍団兵(レジナリウス)に右腕を掴まれ、身を切るように冷たい大河の水面へとまさに飛びこんだ瞬間だったのだ。


 水中で軍団兵がアマーリエの胴をぐいと引き寄せ、さほど深からぬ水底を蹴って水面へと浮上しようとしたとき、奇妙に激しい水の流れが左手から押し寄せてきた。


 まるで突風のような重みを備えた水流が、有無をいわさず水中に落ちた者たちの躰を河の中央まで押し流し、本来の流れに逆らって上流側へと流してゆく。


 その水流は本当に奇妙だった。

 水中にいるというのになぜか苦しくない。

 水の中で自分自身の時間だけが止まってしまったかのようだ。


 アマーリエはぼんやりと察した。


 これは誰かの操る水だ。

 誰かが明瞭な意思を持って、跳びこんだ人間たちを救うために水を操っている。


 しかし、一体誰が?


 そこまで考えたところで不意に水流が止まった。

 同時にどっと口と鼻から本来の物質的な水――冷たく、濁った、土臭い、息を失わせる敵対的な水が流れ込んでくる。

 そのとき不意に頭上から――要するに水面から長い木の櫂が差し伸べられた。

 アマーリエが必死でしがみつくなり上から引き上げられる。


「娘、大丈夫か?」

 何となく聞き覚えのあるような若い男の声が訊ねる。


 アマーリエは勿論大丈夫ではなかった。

 ゲホゲホと咳込み、水を吐き出し、肩で幾度も息をついてから、額に張り付くぐっしょりと濡れた髪を払って絞る。


 そこでようやく目を開けることができた。

 皮製の丸い小舟の上だ。

 皮のマントを羽織って目尻に赤土で烏の足跡のような紋様を描いた若い男が櫂を手にしている。

 髭の薄い若々しい顔と一本に束ねた赤褐色の髪に何となく見覚えがあった。


「あなたは、レビヌス氏族の――」

「ハイナムだ」

「あなたが水の加護を?」

「俺ではない。あのエルフどのだ」

 ハイナムが上流側を見やる。

 視線を追って目を向けるなり、アマーリエは愕きに声をあげそうになった。


 よく見れば水面には他にも何艘も小舟や筏や平底舟が浮かんで、水に落ちた者たちを各々に救助しているのだった。

 その中の一艘、とりわけ大きくしっかりとした木造の平底船の船首に、黒いマントと黒髪を翼のように靡かせた背の高い男の姿があった。

 傍には赤褐色の短いマントを羽織った短い栗毛の姿もある。


 アマーリエは思わず口元を両手で覆った。

 そうしなければあまりの驚きと喜びのために奇声をあげてしまいそうだ。


「……ジェフリー。ネル様まで」

 何とかそれだけ呟くにとどめる。


 ハイナムが聞きとがめ、何かに気付いたようにじっとアマーリエを凝視してから、

「知り合いか?」

 と、訊ねる。

 アマーリエはむっとした。「仲間ですわ」


 ハイナムは焦った様子で頷くと、凄まじい速さで櫂を操って、小舟をジェフリーとネルの乗る平底船の近くまであっという間に漕ぎ寄せていった。


「王弟殿下、エルフどの、お仲間をお救い致した!」


「おおハイナム、ありがたい! ハインツか――」


 ガウフリドゥスが答えながら振り返り、小舟の上のアマーリエを目にするなり絶句した。

 琥珀色の眸がまじまじと見開かれる。


「……アマーリエ?」

「ええ」

「いくらフレデリカを助けるためとはいえ、どうしてお前まで最前線に出ているんだ。男どもは何をしているんだ?」

 相変わらずの偉そうな口調だ。

 アマーリエは懐かしい苛立ちと共に答えた。

「アルベリッヒとエーミールは眠らされていたわ。ハインツどのはアーデルハイトどのの護衛よ」

「お前の護衛は誰なんだ? 戦えないのに気安く矢面に出て来るんじゃない!」

「お言葉ですけど王弟殿下、今回の作戦はですねえ、」


「二人とも、再会が喜ばしいのは分かるが」と、ネルが口を挟む。

「埠頭で何が起こっているんだ?」

 栗毛の若い――おそらくは若いのだろうエルフは、小鹿を思わせる真っ黒な眸を不安そうに揺らめかせて川岸を注視していた。


 ネルの視線を追いかけるなり、アマーリエは息を呑んだ。


 今しがたまで祭壇が築かれていたあたりに、黒光りのする巨木のような怪異が出現していた。


 多くの枝を逆さに生えた触手のように蠢かせ、枝から垂れる長い気根を無数の鞭のように振り回している。


「――《チャーノスの屍樹》」

 

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