第三章 施療院 1
私室へ戻り、愕き狼狽えるエルザを叱責して、必要最低限の日用品だけを櫃に詰めさせる。
一年前にエルンハイムから戻ってきたときにも使っていた飾り気のない白木の櫃だ。
そのあいだに自分で赤いドレスを脱ぎ、手持ちの衣裳のなかでは最も質素な、中庭で植木の手入れをするときに来ている灰色がかった青色の毛織のドレスとフード付きの茶色いケープに着替える。
日用品の櫃ともう一つ、蓋に聖ニーファの印である《匙と五弁花》の浮彫を施した薬箱を侍女たちに運ばせて城館の外へ向かう。
玄関広間には肉親の姿はなく、執事のアルノーと二人の従僕だけがいた。
「開けなさい」
大扉が開かれるなり、粉雪混じりの冷たい風が顔に吹きかかってきた。
すぐ外にフレデリカがいる。
「隊長殿、支度ができました」
「あ、ああ」
傭兵が戸惑いぎみに答える。
そのとき、背後から不意にアルノーが言った。
「姫君、外に馬車を支度してあります。御者はおなじみのものですよ」
「え?」
アマーリエは愕いた。「……お父さまが命じたの?」
執事が一瞬躊躇ってから頷き、眉尻を下げ、何となく泣き出しそうな顔で言った。
「わたくしが慮りますに、戻るなと仰せなのは閣下の本心ではございません。どうか姫君、お困りのときは御父君をお頼りくださいませ」
懇願するように告げてくる執事の声は優しかった。
アマーリエは涙ぐみながら頷いた。
怒りはむろんある。
憎しみも怨みもある。
しかし、同時に愛もあった。
それらが皆、涙を充たした熱い坩堝のなかで混然一体となって煮えたぎっているようだった。
素直になれない男爵閣下からの密命があったためか、アマーリエの荷物運びは、城館の外から表門まで、侍女から従僕に肩代わりされた。
申し訳なさそうに肩を窄めるフレデリカと並んで中門を抜け、角にうっすらと雪の溜まった石段を下ってゆく。中の城壁のアーチ門を抜ければ外郭だ。
右手に厩と犬舎があり、左手に菜園がある。
「私の馬も預けてあるんだ。とりに行ってくるよ」
フレデリカが言い置いて厩舎へと向かう。
まっすぐな短い路の向こうの表門を出ると、掘割に架かる跳ね橋の先に、一頭立ての小型の箱馬車が停まっていた。
御者席に灰色のフードを被った小柄な人影がある。
アマーリエは思わず笑った。
「ヨハン! あなたが送ってくれるの?」
「ええ姫さま、お忘れかもしれませんが、わたくしめの務めは御者でございましてねえ」と、本来いるべき席に戻った老御者のヨハンが、フードを軽く持ち上げて得意そうに笑う。「アルノーの旦那から聞きましたよ。ゼントファーレンの市参事会に乞われて往診に向かうんだそうで。姫さまも一角の治癒者でございますねえ! このヨハンも鼻が高いですよ」
「ありがとうヨハン」と、アマーリエは苦笑した。ちょうどそのとき、灰色っぽい馬をつれたフレデリカが、帽子の羽を冬風に揺らしながら跳ね橋を渡ってきた。
ゼントファーレンまでは三〇歩里〈約45㎞〉ほどだ。
間に独立丘陵があり、その周りにちょっとした森があるものの、基本的には長閑な田園地帯で、街道もよく整えられている。
午前中にミッテンヴェルンを発ったアマーリエは、早い冬の陽が西へと傾ぎ始めるころ、再びゼントファーレンの西門を目にしていた。
牧草地や耕地の広がる平原を裂いて南へと流れるゼント川に架かった長い石橋の先の門だ。左右を胸壁のある円塔に護られている。
「ヨハン、ここで停めて」
アマーリエは橋の手前で命じて馬車を降りた。
「念のためですが、あなたは市内には入らないで。――もしも万が一伝染する疫病だったときのためにね」
アマーリエが小声で告げると、ヨハンはひゅっと息を飲んだが、すぐに表情を引き締めて恭しく頷いた。「分かりました姫さま。どうぞお気をつけて」
「ありがとう」
「アマーリエ、荷物は私の馬につけるといい。―-ヨハンどの、ロープがあるかな?」
「ええ隊長殿、勿論ございますとも」
ヨハンが得意そうに答え、厭そうに鼻を鳴らす灰色馬の鞍に二つの櫃を器用に括りつけた。
「それでは参りましょうか」と、アマーリエはわざと重々しく言った。「《赤翼》どの、あなたはご一緒にいらっしゃるの?」
「ええ治癒薬師どの」と、フレデリカが、これもわざとらしい恭しさで頷く。「部下たちの半分が市内におりますからね」
西門の門衛たちはアマーリエが呼ばれていることをあらかじめ聞いていたらしく、名乗るなり門衛小屋に導き入れられ、蜂蜜入りの熱い薬草茶と干し果物と胡桃の入った焼き菓子を振る舞われた。
朝から何も食べていなかったアマーリエは有難く頂戴した。
そのあいだに馬車が呼ばれてきた。
街路の細い街中を走るのにふさわしい、無蓋の車体に白っぽい帆布の幌をかけた一頭立ての馬車だ。乗り込むなりガラガラと走り出す。
すぐ後ろを騎馬のフレデリカが来る。
西門からまっすぐに伸びる街路を走って中央マルクト広場へと出る。
大市の時期には溢れんばかりの人でにぎわっていた広場が今は閑散としている。
鎧戸を卸した店舗の扉に白い顔料で《匙と五弁花》の意匠が描かれていた。
疫病除けのまじないだ。
たった四人の罹患者が出たばかりだというのに、人口五万人の大都市はすでに怯えを感じ始めているらしい。
アマーリエは馬車のなかで掌を握りしめると、胸に提げた鎖の鍵を外して薬箱を開いた。