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第二十一章 方陣聖域 4

 戦士が刀を振りかざす。

 アマーリエは自分の喉がヒッと鳴るのを感じた。


 風が耳元を激しく過ぎる。

 フードがはたはたと音を立ててはためく。


 足が竦む。

 心臓が跳ねる。

 避けたくなる心を必死に抑える。


 眉間へ向けて白刃が振り下ろされてくる――……!


「薬師どの、お動きなさるな!」

 誰とも知れない軍団兵が叫ぶようにいい、アマーリエの前に進み出て、振り下ろされる白刃を槍の柄で受け止める。

 なめし皮のマントがすぐ鼻先で左へと靡いている。


 アマーリエは巨大な掌で頭の上をグーっと押さえつけられるような圧力を感じた。

 前髪を抑えて空を仰ぐなり、息が止まるような驚きを覚えた。


 空が渦巻いている。

 今この場所の頭上を中心にして、暗雲が左回りの渦を描いて内側へと集まっている。


 術が破れたのだ。

 外巻きに渦巻いて雲を周囲へと払っていたジュニーヴルの術が破れ、払われていた雲が渡し場の頭上へと戻ってきている。


「……――アマーリエ・フォン・ヴェルン!」

 南西の角からシグルーンが叫ぶ。「どうなっているんだ、これは! このまま続けて大丈夫なのか!」

「大丈夫です、続けてください!」

 目の前で軍団兵が上腕の筋肉を膨らませ、槍の柄をひねって戦士の態勢を崩そうとしている。ごうごうと激しく吹く風に体が攫われそうだ。


 暗雲が渦巻き、頭上へと集まる。


 唐突に夜が訪れたかのように視界が暗んでゆく。


 軍団兵が雄たけびを上げて戦士の体を床に転がし、槍の穂先を左胸に突き立てた。


 武具が引き抜かれると血がしぶく。

 その血さえ風にあおられて斜めに靡いてみえる。


「うわぁああ――……!」

 群衆のあいだから恐怖の叫びがあがる。

 頭上の暗雲が密度を増し、地上の巨大な漏斗へと吸われるかのように下へと流れ込んでくる。

 風の塊が全身を圧する。

 殆ど濁水の最中にいるような濃密な霧が頭の上から押し寄せてくる!

 アマーリエは堪えきれずに目を瞑ってしまった。

 駄目だ、と心の奥で何かが叫ぶ。


 目を開けなさいアマーリエ!

 方陣聖域(カトルサンクテ)が崩れる!


 必死で己を叱咤激励して目を開く。


 その瞬間風が止まった。

 辺りは濃く重い霧に覆われて、すぐ目の前にいるはずの軍団兵の輪郭さえも朧に霞んで見えない。



「……――何が起こっているのだ?」

 軍団兵が慄く小声で訊ねてくる。「これはエルフのまやかしか? 《惑わしの霧》なのか?」

「……違います!」

 アマーリエは慌てて応えた。


 そのとき、深い霧の向こうから、耳になじんだフレデリカの声が詠唱するのが聞こえてきた。


「わが守護たる風神アンティノウスよ、お力をくだされ賜え」


 穏やかな詠唱に続いて川面から微風が吹いてきた。

 微風がゆっくりと渦を巻いて埠頭の周辺の霧を晴らしてゆく。


「ああ――」


 眼下の群衆のなかからため息のような声が漏れる。

「《風の乙女》さま」

「《風の乙女》さま――……」


 アマーリエはほっと息をついた。

 何が何やらよく分からないが、ともかくも雲は払えたようだ。風の向きからしておそらく発生源である《冥王の眸》へと吸われていったのだろう。

 この霧は最後の名残だ。

 霧が薄れて桟敷の上を見晴るかせるようになったとき、アマーリエは信じがたいものを見た。


 桟敷の真ん中に白衣の老婆がいた。


 枯れ枝のように痩せこけ、絡み合う白髪をざんばらに乱した幽鬼のような老婆だ。

 その老婆が、純白のローヴの袖をなびかせ、痩せこけた腕に《冥王の眸》を抱きしめていた。

 呆然と見開かれた眸は青かった。

 海のように深い、深い青だ。


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