第二十一章 方陣聖域 3
ぐったりと仰のけられたフレデリカの顔は蒼白かった。
アマーリエは冷たい手で心臓をわしづかみにされたような恐怖と共に、声を上げて泣き出したいほどの同情を感じた。
「――隊長殿」
跪きながら呼んでみる。
薄い瞼にそっと触れても目を覚ます様子がない。
「フレデリカどの」
祈るような気持ちでもう一度呼んでから、腰帯に吊るした小さな皮の水袋の栓を抜く。
途端に強烈な臭気が立ち昇る。
この五日間のあいだにヴェヌーレス氏族の者たちがどうにか調達してくれた薬種で煎じた《エルフの芥子》の解毒薬だ。
もう一方の巾着からフェルトの綿を出し、せんじ薬をたっぷりとしみ込ませてから、眠り続けるフレデリカの鼻を軽く摘んでみる。
幸い意識はあるようだった。
唇が薄く開く。
前歯の隙間に薬液を少しずつ滴らせると、仰のけられた白い喉がわずかに動くのが分かった。
嚥下している。
アマーリエは心の底から湧き上がる熱い焔のような歓びを感じた。
「フレデリカどの。目を覚ましてください。わが守護たる癒しのニーファよ、お力を下され賜え」
幽かに、微かに上下するフレデリカの胸元に掌をかざして癒しの女神に祈る。
アマーリエの等級は《三》だ。
少し力を使いすぎればたちまち昏倒してしまう。
この後に方陣聖域の術を使わなければならないことを考えると、今使える力は殆どないに等しい。
ほんの小さな切り傷を癒すほどの微細な力をそっと注ぎ込む。
針の孔から水を注ぐように繊細な注意力のいる作業だ。
アマーリエの掌の下がごくごく淡い琥珀色の光を発したとき、フレデリカの瞼がわずかに震え、唇が痙攣した。
「――隊長殿!」
アマーリエは思わず小声で叫んだ。
薄い瞼がゆっくりと持ち上がり、懐かしいフリント色の眸が現れる。
フレデリカはしばらくぼんやりとアマーリエを見あげていたが、じきに不思議そうに呟いた。
「アマーリエ?」
「そうです! わたくしです! 目覚めて早々すみません、隊長殿、動けますか?」
「あ、ああ。たぶん」
フレデリカが戸惑いながらも体を起こそうとする。
アマーリエはすべての心配を一端棚上げして右腕を高く掲げた。
「――作戦結構です! 総員配置についてください!」
「了解!」と、シグルーンの声が返る。
「作戦?」と、フレデリカが戸惑う。「どういうことだ?」
「説明はあとです! 方陣聖域を張ります! あなたはあちらの角へ! わたくしはあちらへ行きます! 檀上の軍団兵は味方です! 急いでください!」
計画は一刻を争う。
ジュニーヴルに考える隙を与えてはいけない。
言葉少なに命じながらアマーリエ自身は桟敷の右端へと走る。
フレデリカもほんの一瞬戸惑っただけで、さすがに歴戦の傭兵らしくすぐさま指示に従ってくれた。
祭壇の下ではシグルーンがすでに配置についていた。
軍団兵がさっと脇によけてアマーリエを代わりに立たせてくれる。
「完了! 方陣聖域発動!」
「了解!」
方陣の三つの角から声が返る。
アマーリエは声を限りに叫んだ。
「わが守護たる聖ニーファよ! 御力をくだされ賜え……!」
足の裏を通じて方陣の四辺にあらん限りの加護の力を流し込む。
たちまち目眩と頭痛を感じる。
額に脂汗が浮かぶ。
「な、なんだ? 何が起こっているんだ?」
「ジュニーヴル様? こいつら一体何を?」
群衆が戸惑い始める。
壇上のジュニーヴルも戸惑っていた。
今現に何が起ころうとしているのか全く理解できない様子で、腕に《冥王の眸》を抱いたまま海のように碧い眸を呆然と見開いている。
全身を苦痛にさいなまれながらも、アマーリエはまたしてもその姿のあまりの美しさに驚いた。
雪花石膏の白い膚。
紅薔薇の唇。
銀色を帯びた長い金髪が翼のように横に靡いている。
――風が起こっているのだ。
北風だ。
しだいに強くなる。
アマーリエがその事実に気付いた瞬間、群衆の中から恐怖に引きつった悲鳴があがった。
「……――雲だ! 暗雲が戻ってくる――……!」
その瞬間、ジュニーヴルが叫んだ。
「余所者たちを殺しなさい! すべてそやつらの謀です!」
うおおおおと群衆が湧く。
「軍団兵!」と、南西の角からシグルーンが命じる。「方陣の四隅の術者を護れ! 真ん中に転がっている生贄二人もな!」
「了解!」
「薬師どの」と、アマーリエの傍らによけていた軍団兵が囁く。「護りはお任せください」
「ありがとうございます」
アマーリエはどうにか声を絞り出した。
壇上の四人の白鳥の戦士たちが幅の広い刀を抜き放ちながらこちらへ向かってくる。
そのあいだにも風が激しさを増していた。




