第二章 奇病 3
「――失礼いたします、フォン・ヴェルン男爵閣下」
左手の背の後ろから懐かしいアルトの声が聞こえる。
アマーリエはたまらない慕わしさに駆られて顔を向けた。
執事の後ろに思った通りの姿がある。
短い灰金髪の、すらりとした細身の女傭兵だ。膝までの丈のふくらみのある黒っぽいズボンに黒いブーツを合わせ、深緑の短マントを羽織って、同じ色の帽子の縁に鮮やかな赤い羽を飾っている。
ゼントファーレンの《赤翼》、フレデリカだ。
「隊長殿!」
アマーリエが思わず声をかけると、フレデリカは灰色の目を軽く見張り、戸惑ったようなぎこちない笑いを浮かべて頭を低めた。
「御久しゅうございます、フォン・ヴェルンの姫君。ご壮健そうでなによりです」
「え……」
アマーリエは戸惑った。
短い逃亡の旅の間、フレデリカとは齢の離れた姉妹みたいに親しくしていた――と思っていたのに、あまりにも他人行儀な対応をされたためである。
「《赤翼》よ、何の用だ?」と、上座からエーベルトが強張った声で告げる。「そなたには十分な報償をすでに払ったと思うが」
報償――
その言葉に、アマーリエは心の底がしんしんと冷えてゆくのを感じた。
――隊長殿と親しくなれた、身内か友達のようになれたと思っていたのはわたくしだけなんだわ。隊長殿は傭兵だもの。わたくしを逃したのも仕事の一環、思い切った投機みたいなものだったんだ……
そう思うなり目頭が熱くなった。
フレデリカが、そんなアマーリエをなんとも言えない表情で一瞥してから、改めてエーベルトに向き直った。
「閣下、仰せの通り、ランサウまでの姫君の護衛に対する報償は十分に頂いております。本日はお怒りを買うことを覚悟で、ゼントファーレン小市参事会からの依頼をお伝えに参りました」
フレデリカの声音は真摯だった。
エーベルトが眉根をよせる。「依頼とは、ゼントファーレン市が私に? 葡萄酒の関税の問題だったら足を運ぶだけ無駄だぞ?」
「いえ、そういった庶務ではなく――」と、フレデリカは口ごもり、数秒の逡巡の後で口を切った。
「単刀直入に申し上げます。今現在、ゼントファーレン市内で流行りつつあるのかもしれない奇病を癒すために、フォン・ヴェルンの姫君アマーリエさまのお力をお貸しください」
「――娘の?」
エーベルトが意外そうに言う。
アマーリエも呆気にとられた。
癒しの女神聖ニーファの加護を受ける身とはいえ、アマーリエの等級は七段階中の《三》に過ぎない。聖堂都市エルンハイムで七歳から十年の研鑽を重ねたというのに、癒せるのはごく表面的な怪我ばかりで、一度力を使えば半日から一日は倒れてしまう。
「隊長殿、わたくしは等級《三》の治癒薬師ですよ? 奇病を癒す力など持つはずがありません」
「仮にあったとしたところで」と、エーベルトが硬い声で口を挟む。「要するに、今現在、ゼントファーレンの市壁の内で妙な病が流行しているのだろう? 娘を疫病の蔓延る市内に等やれるわけがなかろう。そもそも、そなた、そんなところからこの城へやってきたのか? 見ての通り奥方は身ごもっておる。疫病をわがミッテンヴェルンにまで持ち込むつもりか?」
エーベルトの言葉にカロリーネが蒼褪め、急な吐き気を感じたように、真っ白な掌で口元を覆う。アマーリエは慌てて立ち上がった。
「お継母さま、しっかりなさって!」
スカートの裾を持ち上げてかけより、落ち着かせるためにゆっくりと背中を撫でる。そうしながらアルノーに命じる。
「使用人通路からお継母さまとミアとマクシミリアンを外へ!」
「いえ、大丈夫です姫君!」と、フレデリカが焦った様子で口を挟む。「奥方様もどうかそのまま。わたくしは先日までランサウにおりまして。市内で奇病が流行り始めたという知らせはそちらで聞きましたから、市内には一歩も足を踏み入れていません。それに、まだ伝染する病かどうかさえ」
「一体どういう病なんですの?」
アマーリエはすっかり治癒薬師の心で聞いた。
フレデリカが眉をよせる。
「小市参事会からの手紙では、全身が石みたいに冷たくなったまま眠り続けているのだそうです。罹患者は今のところ四人で、全員が十歳前後の子供たちだということです」
「そんな」と、カロリーネが掠れた声を出し、執事の両腕にしがみついて怯えたように様子を伺っているミアとマクシミリアンを見やった。
アマーリエも言葉を失くしていると、フレデリカが再び表情を引き締め、初めてまっすぐにアマーリエを見つめてきた。
「フォン・ヴェルンの姫君―-いや、アマーリエ。頼む。あんたの力が必要なんだ。――あんたに冤罪を着せようとしたあの忌々しいランドルフ・シュミットを筆頭にして、ゼントファーレンの治癒医師たちは軒並みみんなランサウに拘束されているから、高い教育を受けた医師や薬師は市内には誰もいないんだ。頼む。一緒に来てくれ」
フレデリカが頭を下げる。
アマーリエが愕きのあまり言葉を失っていると、上座のエーベルトが立ち上がって怒鳴った。
「駄目だ! 娘は決していかせん! アマーリエ、部屋に戻っていなさい!」
「――嫌ですお父さま!」
アマーリエは間髪入れずに言い返していた。
エーベルトが眉を吊り上げる。
「何を無分別なことを言っているのだ! お前は父の城に疫病を持ち込むつもりか? もしも行くというなら戻ることは許さん! どのドレスも、飾り櫛も真珠も絹の上靴も、この父が与えた奢侈品はすべて置き、襤褸を着て独りで行くがいい!」
「ええ、そうしますとも!」
アマーリエは激しい怒りに駆り立てられるまま、黒髪の結い目から紅玉の飾り櫛を外してテーブルにたたきつけ、憤怒に震える指先で薔薇色の真珠の留め金を外し、これも叩きつけるようにテーブルにおいた。
「ドレスは今すぐ部屋へ戻って着替えてまいります! 当座に必要な身の回りの品だけは持って出ることをお許しを。隊長殿、待っていらして、すぐに戻りますから」
怒りに顔を上気させて立ち上がる。
「あ、いや、待てアマーリエ、少し落ち着け」と、フレデリカが慌てる。「お父上の仰せになることも尤もといえば尤もだ。私も考えなしだったよ。お許しなしに城を出るなんてやめたほうがいい」
「それはわたくしが決めることですわ」と、アマーリエは言い返した。「わたくしは治癒者です。患者がいるなら行きます」
「――ならば勝手に行け」と、エーベルトが両手の拳を握り、うなだれながら呟く。
「ええ。そういたします」
アマーリエは静かに冷めた心地で答え、一抹の寂しさを感じながら踵を返した。
そのとき、カロリーネが不意に衣擦れの音をさせながら歩み寄ってきた。
「待ちなさいアマーリエ」
「……何ですか、お継母さま?」
アマーリエが苛立ちを露わに振り返ると、カロリーネは優美な眉を一瞬だけ寄せてから、白い手を伸ばして、銀無垢の台に紅玉を埋めた飾り櫛をとりあげ、アマーリエの前にずいっと差し出してきた。
「この櫛は持っていきなさい。わたくしが贈ったものです。持っているのが不愉快なら捨てるなり売るなり好きにしなさい。――あなたは質素なお暮しが好きなようだから、どこで暮らすにせよ、当座の生活費にはなるでしょう」
そう告げるカロリーネの声は微かに震えていた。
アマーリエは唐突に、相手がまだ本当に若いことに気付いた。
――わたくしは《お継母さま》のことを何も知らなかったのかもしれない。この方は今とても苦しんでいる。詫びても決して許されない罪があると思って……
そうと気づくなり、今まで胸の奥で燃え盛っていた激しい怒りの焔が静かに消えていった。
「ありがとうございます。……カロリーネ」
小声で呼ぶと、若い継母はすみれ色の眸を瞬かせ、目元を拭いながら笑った。