第十九章 進軍 5
「どうしますハイジさん」
ハインツが小声で訊ねる。「迂回路を捜しますか?」
「いや、このまま進もう」と、アーデルハイトがフードを片手で抑えながら前方を注視する。「あちらさんからも、もうこっちは見えているだろうし、ランサウの東側は見ての通りの低湿地帯だからね。余所者がおいそれと道を外れたら沼の底に沈んで一巻の終わりだろ」
「そいつはぞっとしない」と、ハインツが肩を竦める。「アマーリエ、直進でいいと思うか?」
「――ほかに路がないなら、致し方ありませんわね」
同行者二人に倣って、アマーリエもできるだけ気軽な口調で応じた。
覚悟を決めて街道をまっすぐ進んでいくにつれて、前方からむっと鼻を突く臭気が漂ってくるのが分かった。
家畜と人の屎尿の臭い。
生き物の汗や垢の臭い。
腐ってゆく塵芥の臭い。
人間たちが密集する場所独特の息苦しいような臭気だ。
「――町場の臭いって感じだね」と、都市生活者のアーデルハイトがさして嫌そうにでもなく呟く。市場町の周囲にはかなりの人数が群れ集まっているらしい。
じきに丸太と土嚢で造られた急ごしらえの障壁の前へと着いた。
切れ目の前に、扉の代わりさながらに、赤い房をたなびかせる槍を手にした四人の兵士が居並んでいる。
目庇付きの青銅の兜と黒革の札を赤い紐で連ねた胴鎧。
滑らかな象牙色のなめし皮のマント。
時と場合にも関わらずアマーリエは密かな感嘆のため息を漏らした。
古い写本の挿絵で見る通りの、古代セルケンバインの軍団兵だ。
「そこなものら、足を止めよ!」
軍団兵の一人が太くよく徹る声で制止する。「北東の交易路から来たようだが……見たところドワーフではないようだな? みな人間か? フードを外して顔を見せろ」
三人は素直に従った。
ハインツとアーデルハイトに続いてアマーリエがフードを外した途端、誰何の兵士がわずかに戸惑うのが分かった。
「エルフーーか?」
アマーリエの若く滑らかな象牙色の貌と艶やかな黒髪を凝視する兵士の暗い青い眸にはまぎれもない怯えが滲んでいた。
どうやらエルフを敵だと認識しているらしい。
――最悪だわ。
アマーリエは内心で嘆息した。
予想通りと言えば予想通りだが、北方の女大公のもとには、「森エルフの女王が故意に使者たちを害した」と報告されているらしい。
その結果がこの進軍となると、正直なことを話したところでどこまで信用されるか分からない。
--ジェフリー、あなたがこっちにいてくれたら万事解決だったのに!
内心で歯噛みしながら忙しく頭を働かせる。
--どうしたらいい? どこまで素性を明かしたらいい? ……いいえ、明かす必要はないわ。ともかくもここを通過さえできれば――
そこまで考えたところでアマーリエは腹を決めた。
われら最大の頭脳--と、フレデリカはアマーリエを評してくれた。
躊躇っている暇などない。
その頭脳を、今ここで思い切り使ってみせなければ。
「いいえ、ご案じなさらず。わたくしは人間でございます。ゼンテスの西岸に住まうヴェヌーレス氏族の薬師です」
「薬師?」
「はい。所用あってペラギウ山脈に住まうドワーフの最長老様をお訪ねして、帰路にこちらの交易路まで送っていただいたところです」
アマーリエは自分でも驚くほど落ち着いた心地で応えながら、ドワーフたちから贈られた美しい赤葡萄酒色の毛織物のケープを外して差し出した。兵士が眉をしかめる。
「賄賂か? 我々はそういうたぐいのものは」
「違います。この布はペラギウ山脈のドワーフの最長老様からいただいた品です。これだけみごとな東方風の刺繍となれば、間違いなく、こちらの市場町で鉱石と交換した品でしょう。これほど品なら必ずや帳簿に記録があるはず。他の品も同様です。御疑いならお確かめを」
アマーリエが目配せをすると、アーデルハイトとハインツも慌てて、それぞれのケープを外して差し出した。
軍団兵の頭目らしき男はかなり戸惑った様子ながらも分厚く上等な三枚のケープを受け取り、しばらく悩みこんでから、
「おいカウロス、取引所で確かめて来い」と、若そうな部下の一人に命じた。
そのあとでおもむろに向き直り、意外なほど丁重な態度で告げた。
「この地のドワーフの友がたよ、失礼仕った。確かめが着くまで番小屋でお休みくだされ」
「ありがとうございます」
アマーリエはできるだけ余裕の表情を装って笑った。
エルフに対する怯えと比べて、ドワーフに対してはかなり友好的なようだ。
番小屋とは遮蔽物を入ってすぐ右手に張られた天幕のことだった。
皮の垂れ幕をめくって入ると、骨の蕩けるように心地よい暖かさとともに、ツンと鋭い泥炭の臭気が鼻を刺した。
円い幕内の真ん中に金属製の四角い火鉢が据えられ、その中で赤い焔が燃えている。
「どうぞこちらでお待ちを。すぐに飲み物を運ばせますから」
両腕にケープを山積みにした若い兵士が愛想よく告げて出てゆく。ややあって兜を被らないかなり若そうな少年が重々しい青銅のゴブレットを三つ木の盆にのせて運んできた。
中身は蜂蜜と林檎の入った舌が焼けるほど熱い赤葡萄酒だった。
「いやあ驚いた。えらく待遇がいいね」と、アーデルハイトが呆れたように呟く。「ここの連中はやっぱりドワーフと組んで森エルフの女王様に戦いを仕掛けにきたのかな?」
「や、人数からして斥候か先発の輜重隊だと思いますよ」と、ハインツが顎に手を当てながら首をひねる。「さっきざっと見た感じでは、集まっているのは大体穀物だの家畜だのを運んできている近隣住民って感じだ。兵士自体は百人もいないんじゃないかな?」
「さすがに歴戦の傭兵は違うねえ。それにしてもアマーリエ様、すっかり世慣れてきましたねえ! さっき私は吃驚しちまいましたよ」
「いえそんな、大したことはありませんわ」
正面から褒められたアマーリエは、ふつふつと湧き上がる得意さに頬が火照るのを感じた。
そのとき、不意に外から皮の垂れ幕が開かれたかと思うと、右頬を刺すような冷気と共に、低くしわがれた女の声が響いてきた。
「歓談中すまない、お客人がた。汝らに訊きたいことがある」
短く太い刀をどすりと突き立てるかのような、歯切れがよいのに独特の重みのある声音だ。
ハインツが咄嗟に立ち上がってアマーリエとアーデルハイトを背の後ろに庇う。
「あなた様は――」
アマーリエは膝立ちになってハインツの肩越しに入り口の相手を見あげた。
ごうごうと横殴りに吹きすさぶ風を背にして立っているのは、軍団兵と同じ甲冑に鮮やかな緋色のマントを重ね、右肩に隼をとまらせた壮年の女戦士だった。
背丈はさほど高くないが、細身ながら鍛え抜かれた体つきは一目で歴戦の古強者と分かる。
なめし皮のように陽に焼けた膚とごつごつとした手。
これも日焼けのためにか殆ど白く見える麦わら色の髪を一本の三つ編みに編んでいる。
アマーリエたちが呆然と見あげていると、女戦士はわずかに眉をよせた。
「ああ、名乗りが未だであったな。失礼。私はシグルーン。北方のセルケンバインの女大公アンゲラード殿下に仕える騎士だ。そなたらはドワーフの元から来たと聞いたが、これから西岸へ戻ろうとしているのか?」




