第十九章 進軍 2
ガウフリドゥスが独り西へと出立した翌朝、アマーリエたちは、反対の東の方角へと旅立つことになった。
一晩のギャップがあるのは、そのあいだに一夜漬けで、ドワーフ語での《廻りの主》への祈祷句を必死で暗唱していたためである。
「汝らがゼンテスの渡し場へ戻りたいなら、東南の交易路を下って東岸の街道を使うほうが早い。途中までは私が送ってやる」と、朝食の席でカムラクが不愛想に告げる。
「へえ、東岸にもう街道があるんだね!」
地図製作者アーデルハイトがよく熟れたチーズを硬い黒パンのスライスに塗りつけながらとび色の目を輝かせる。「要するにランサウ街道ですよね?」
「そうなると、帝国直轄都市ランサウももう存在するってことなのか?」
アーデルハイトもハインツも明らかにアマーリエに訊ねている。
「帝国直轄都市とは――正確にはまだ言えませんわね」
アマーリエは好物の干し葡萄を摘みながら小首を傾げた。「セルケンバイン帝国はまだ存在しませんもの。今はまだ大公国です。でも、街道が存在するなら、のちのランサウの原型になる集落くらいはあるんじゃないかしら?」
「集落ならあるぞ」と、カムラクが答える。「北方から来た人間たちが築いた交易の拠点だ。我々の鉱物と布を交換している。人間たちはランセウスの市場町と呼んでいるようだ」
「まちがいなくランサウだね!」
アーデルハイトが喜んだ。
アマーリエも喜びながらも、拭いきれない寂しさを感じた。
――最後にもう一度、ジェフリーと会いたかったのだけれど。
食事が終わるとすぐに出立の時間になってしまった。
荷を整え、最長老に挨拶をしてから分岐広間へ戻ってくる。
そこに待ち受けていたサフラとヒータが、
「すまない」
と、片言で謝りながら、アマーリエたち三人に柔らかな黒天鵞絨の布で目隠しをしてきた。
「汝らを信じぬわけではないが」と、カムラクまでが少しばかり申し訳なさそうに言う。「これも掟だ。このままついてこい」
アマーリエの手を握って先導するのはサフラのようだった。
人間よりも一回り小さく、厚みがあって体温の高い手だ。
その手に引かれるまま複雑な路を辿り、幾度か階段を上ったところで、前方からカムラクが淡々と命じる。
「とまれ。ここから東へ跳ぶ」
――跳ぶ?
アマーリエが内心で反復したとき、杖の尻でトンっと床を叩く音に続いて、カムラクの低く落ち着いた声がドワーフ語で何か詠唱するのが聞こえた。
――あ、ここ移動の円陣のなかなのね!
気づくのと同時にあの眩暈が襲ってくる。
頭の奥がキーンと鳴り、見えない大きな掌で頭上から押さえつけられているかのような圧迫感に襲われる。
移動している――カムラクの言うところでは《跳んで》いるのだ。
と、不意に圧迫感が退いて、逆に体が浮遊するような心もとなさが生じた。
同時に額に風を感じた。
頭上から斜めに吹いてくる冷たく澄んだ風だ。
「着いたぞ。東南の交易路だ」
カムラクが相変わらず淡々と告げる。
跪いて後ろから目隠しを解かれるなり、眩い白い陽光に目を焼かれた。
「うわ」
アーデルハイトが声を漏らす。
「朝だね……」
外はまさしく朝だった。
そこは北から南へと深く切れ込む楔型の峡谷の西側だった。
足元は一枚岩で、直径1丈《約3m》ほどの円陣が刻まれている。右手に小さな石造りの祠があって、その後ろに樅の木の木立がある。そちらの方向から、銀灰色の切り石を並べた細いがみごとな舗装路がまっすぐに通っている。
枯れ草に覆われた谷底は緩やかに円いカーヴを描いていて、水は流れていない。
向かい側には10丈はありそうな黒い崖が切り立って、その向こうに淡い青色にかすんだ雪を抱く尾根が見える。
延々と東の方角へ伸びてそのまま碧空へと溶け込むような尾根の稜線の右手に、眩く白く鮮やかな朝日が昇っているのだった。
「この峡谷を南に下っていくと交易路が人間の街道に交わる。ランセウスの市場町はそのすぐ西だ。人間の足なら歩いて二日ほどの道のりだろう。谷口に樺の木立があって奥の祠の傍に水が湧いているから、そこで一泊すればいい。だが、ひとつだけ気をつけろ」
カムラクが異様に真剣な声音で言う。
「何でしょう?」
「水辺の円陣には絶対に踏みこむな。また戻ってこられてはかなわん」
その声はあまりにも真摯すぎて、かえって揶揄っているのだということが分かった。
人間たちは思わず声を立てて笑った。
「勿論ですともカムラクどの」
「色々とありがとうございます」
「世話になりました」
「気にするな。我らも多くの報せを得られたからな」と、ドワーフは淡々と答えた。「堕ちたる造物主に造られながらも堕ちずに生きる被造物らよ、汝らの旅路が平穏であることを我らが創造主ティバルクに祈る」
そう言って深々と頭を垂れる。
人間三人も慌てて倣った。




