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第二章 奇病 2

 隣国ロージオンの騎士シャルル・ド・ベルナールは、修練院から戻って冤罪を駆けられる前に、父男爵エーベルトが定めたアマーリエの婚約者だ。

 継母毒殺未遂の疑いで裁判にかけられた時点で婚約は立ち消えになったものだと思っていたが、罪が晴れて帰還した時点でまたもや復活していたらしい。

 肖像画でしか顔をしらないシャルル・ド・ベルナールを、アマーリエは好きでも嫌いでもなかった。

 ただ、その男と結ばれることこそが自分の正しい幸福だと周囲が決めてかかっていることが苛立たしくてならないのだった。


「よろしゅうございましたねえ姫さまーー」と、エルザがぐすぐす鼻を鳴らしながら言う。「意地悪な継母に虐められたお姫さまはお城を追われてご苦労なさるも、最後には誠実な騎士様と結ばれて、いついつまでも幸せに暮らしました、とやっぱりそういう風に終わるんでございますねえ! エルザは婚礼が今から楽しみでございます。で、どの装身具になさいますので?」

 エルザが目を爛々と輝かせながら訊ねてくる。

 両手にしっかと珊瑚の首飾りを握っている。


 これを選べ――という圧がすさまじい。

 が、アマーリエは強い心で圧迫をはねのけた。

「今日はお継母さまのお誘いで朝食を共にするのだから、その紅玉の飾り櫛を使います。首飾りは真珠で」

「承りました」

 エルザは露骨に残念そうな顔で承った。



 半時間後、アマーリエは地階の大食堂で、重苦しい沈黙に耐えながら、蜂蜜をかけた大麦の粥を黙々と口に運んでいた。

 肋骨めいた黒い梁が頭上に被さる長細い大食堂の長テーブルには、アマーリエのほかに四人の人物がついている。

 アマーリエから見て右手にあたる上座、赤々と焔の燃える暖炉を背にした肘掛椅子に座っているのは父のエーベルト・フォン・ヴェルン男爵だ。幅広の金レースの襟のついた深緑のガウン姿で、白髪交じりの癖のない黒髪を肩に垂らしている。


 はるかに遠い左手の席についてエーベルトと向かい合っているのは、現在のフォン・ヴェルン男爵夫人である継母のカロリーネだ。

 父よりもだいぶ年下の継母はいつ見ても美しかった。

南部地方には珍しい淡い金髪をすっきりと結い上げ、大理石のように白い膚を引き立てる深い青色のドレスをまとっている。

 継母はもう一、二か月もすれば子供が生まれるはずだが、長身細身の体形のうえ、胸の高い位置で切り替えのあるドレスのふわりとした裾のために、椅子にかけていても腹部のふくらみはさほど目立たない。


 カロリーネの傍にはまるで母親の小型版のような淡い金髪の巻き毛の美少女がいる。

 異母妹のミアである。


 父エーベルトの傍には、こちらは蜂蜜みたいに濃い金髪を肩でまっすぐに切りそろえた華やかな顔立ちの少年がいる。八歳になる異母弟のマクシミリアンだ。


 五名はみな無言だった。


 とりわけカロリーネとミアは、よく整った顔から一切の表情を消して、凍り付いたような無表情のまま黙々と食事をするばかりだ。



「なあ奥方よ――」

 沈黙に耐えかねたのか、エーベルトがぎこちない笑みを浮かべてカロリーネに話しかける。

「何でしょう男爵閣下?」と、カロリーネも作り物じみた笑顔で答える。

「その、なんだ、春になってロージオンからベルナールの若殿が訪ねてきたら、料理人はどこから招くのがよいかな?」

「ああ、それは重大な問題ですわね! いっそのことハルトシュタットから呼び寄せましょうか」と、カロリーネがわざとらしくはしゃいだ声をあげて、アマーリエに向けて真っ白な歯をむき出すように笑ってみせる。「ねえアマーリエ、シャルル・ド・ベルナールどのは本当に美男子ね! あなたが羨ましいわ」

「おいおい奥方、聞き捨てならないな」と、エーベルトが非常に芝居がかった明るさで口を挟むと、傍に坐ったマクシミリアンが、笑えと命じられた操り人形みたいにけたたましい笑い声を立てた。

 アマーリエは今すぐ匙をテーブルに叩きつけて席を立ちたい衝動を堪えた。



 ――分かっているわ、分かっている。あの冤罪事件にフォン・ヴェルン家もエーデン宮中伯家も何の関係もなかった。お父さまとお継母さまも、ある意味では巻き込まれただけ。二人はわたくしに済まないと思っている。わたくしは笑って許さなければならない――……



 怒ってはいけない。

 叫んではいけない。

 どうして信じてくれなかったのかと、たとえ信じなかったとしても、どうして盲目的に愛して助けようとしてくれなかったのかと――……そんなことを今更叫んだところで、ただでさえ傷ついている人たちにさらに深手を負わせるだけだ。


 だから笑わなければ。

 何もかも無かったことにして、「ええ、わたくしは幸せですわ」と笑ってみせなければ。


 いくらそう自分に言い聞かせても、どうしても声を発することができなかった。

 口角を持ち上げて笑おうとすると口元が痙攣した。



「アマーリエ」

 父が縋りつくように呼ぶ。

「なあアマーリエ、お前は幸せだよな?」



 いいえお父さま。

 わたくしは幸せではありません。



 喉元まで本音がこみあげてきたとき、不意に、カロリーネの背の後ろの大扉が外から叩かれた。


 エーベルトが癇性に眉を吊り上げる。

「何だ? 食事中だぞ?」


「申し訳ありません男爵閣下、急な来客でございます」

 扉を開けて入ってきたのは老執事のアルノーだった。


「何者だ?」と、エーベルトが唸るように訊ねる。

「それが――」と、執事は一瞬口ごもり、なぜかアマーリエを一瞥してから、腹を決めたようにエーベルトに向き直った。

「ゼントファーレンの傭兵、《赤翼(ローテ・フリューゲル)》のフレデリカと名乗る者です。大至急閣下にお目にかかりたいと」



「え、隊長殿(シェフィン)が?」



 アマーリエは思わず声をあげていた。


 その言葉を発するなり、今しがたまでの息苦しい鬱屈が一瞬で消し飛び、胸の中に爽やかな風が吹き込んできたような気がした。



「《赤翼》のフレデリカというのは、アマーリエにランサウへの上告を勧めて護衛を申し出たという、あの義侠心に富んだ女傭兵のこと?」と、カロリーネが誰にともなく訊ねる。


「ああ」と、エーベルトが、こちらも誰にともなく頷くと、しばらく黙り込んだあとで執事に命じた。

「通しなさい」



 ――隊長殿(シェフィン)がここに来る……



 そう思うなり、アマーリエは胸が高鳴るのを感じた。

 今はもう夢のような気がしてきたあの逃亡の一月――怖ろしくも自由で清々しかった短い日々の記憶が鮮やかに蘇ってくる。


 緊張しながら待つうちに、また外から扉が叩かれ、執事の声が告げた。

「男爵閣下、《赤翼》を伴ってまいりました」

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