第二章 奇病 1
一か月後の朝である。
アマーリエはゼントファーレンから南東に三〇歩里〈約45㎞〉ほど離れた長閑な城下町、ミッテンヴェルンの城の居室で、寝間着のまま深いため息をついていた。
城の主はセルケンバイン帝国南部地方でも指折りの《古き剣の貴族》エーベルト・フォン・ヴェルン男爵。
要するに、アマーリエ・フォン・ヴェルンの実の父親である。
通算すれば四か月ぶりになる生家の城の居心地は、有体にいって、極めて悪かった。
待遇は素晴らしい。
広々とした寝室の暖炉では贅沢にも本物の林檎の薪がパチパチ焔をあげて燃えているから、真冬の朝だというのに、室内はまるで春の午後の日向みたいに暖かい。
肌触りのよい薄手の亜麻の寝間着一枚でベッドに身を起こしていても何の問題もないほどだ。
足元には美しいクリーム色の地に青で蔓草模様を織りなした南方渡りの絨毯が敷き詰められているし、格子窓には円い硝子がどっさりはめ込まれているし、寝室の隣の洗面所の便器の蓋にまで浮彫の装飾が施されている。
寝室に戻って呼び鈴の紐を引けば、たちまち部屋付きの侍女たちが現れて、銀の器に充たされた熱いお湯と手触りのよい真っ白な麻布を運んでくる。
その侍女たちの視線がまたいたたまれないのだ。
針の筵――というわけではない。
誰もが深い、深い慈愛と、同情と懇願と罪悪感がないまぜになったような、なんとも言えない目つきで見つめてくるのだ。
なんてお可哀そうだった姫さま!
と、彼女たちの目は無言で訴えてくる。
――まあ、気持ちは分からないでもないわ。冤罪をかけられた挙句に実の父親に裁かれて生涯幽閉の判決を受けかけた娘……なんて、わたくしだって他人事だったらさぞ同情したでしょうし。
気持ちはわかるが鬱陶しい。
ついでに、着替えにやたらと手助けがあるのも、修練院で質素な寄宿舎生活を十年おくったアマーリエとしては、正直なところかなり煩わしかった。
実際は全く不必要な侍女たちの介在で寝間着を脱ぎ、一昨日仕立てあがったばかりの赤天鵞絨のドレスに着替える。
襟元には幅広の真っ白なレース。
前身頃には繊細な浮彫を施した真珠母貝のボタンがずらりと並んで、細く絞った腰の後ろに、金色のレースで裏打ちをした友布のサッシュを大きくリボン結びにする仕立ては、アマーリエ自身の趣味というより、どう見ても父エーベルトの好みだ。
「姫さま、装身具はいかがなさいましょう?」と、姫君付き筆頭侍女のエルザが甘ったるい声で訊ねてくる。
アマーリエはため息交じりに応えた。
「なんでもいいわ。このドレスに会う色の装身具なんて大して数はないでしょう」
途端にエルザが細く描いた眉を吊り上げる。
「沢山ございますとも! こちらはお父上が姫さまにと沿海諸都市からお取り寄せになられた薔薇色の真珠の首飾りです。こちらは奥方様が首府のハルトシュタットからお取り寄せになられた紅玉の飾り櫛。それからこちらは姫さまの父方の叔母君さまたるレーゲンスハイム伯爵夫人がご無事の御帰還の御祝にと贈ってくださった柘榴石の腕輪。こっちは奥方様のご生家のエーデン宮中伯閣下から――」
筆頭侍女がテーブルの上に赤天鵞絨張りの宝石箱を開いて、見覚えのない宝飾品を次々と取り出してみせる。
すべて、アマーリエが冤罪をかけられたときには助けようとはしなかった家族や親族たちからの贈り物だ。
アマーリエはげんなりした。
ランサウの地方法院での上告が成功して冤罪を晴らし、父の城へと戻ってからのこの一か月、新しいドレスの採寸と毎日毎日降るように届く贈り物への礼状書きだけで一日の殆どが終わってしまっている気がする。
――無為なる日々というやつだわ。脳みそが溶けてしまいそう。
「――さぁていよいよ真打登場!」
姫さまの憂鬱に気づかず、筆頭侍女は盛り上がっていた。
三つ目の宝飾箱のなかから恭しい手つきで、割と何の変哲もない珊瑚の首飾りを取り出した。
金具はすべて純金のようだし、そう悪い品でもなさそうだが、今までの豪奢な装身具とは値段にして桁がひとつ違う感じだ。
アマーリエは小首を傾げた。
「それは?」
「ロージオンのシャルル・ド・ベルナールさまからですよ! 姫さまの婚約者の!」
エルザは心底誇らしそうに言った。
アマーリエは内心でゲッと思った。