第九章 二つの護符 1
三日後である。
アマーリエは川辺の風神殿の宿坊の一室で身支度に勤しんでいた。
中庭に面する出入口の扉が半ばほど開いて、刺すように鋭い冷気とともに、淡く弱弱しい朝日が射しこんで、土のままの床に斜めの帯を伸ばしている。
三方の壁際に三つの寝台を備えた房には、フレデリカとアーデルハイトの姿もある。
二人ともそれぞれの寝台の縁に腰掛けて身支度を整えている。
「それにしても妙なことになったねえ」と、長い褐色の髪を馴れた手つきで一本の三つ編みにしながら、アーデルハイトが疲れたように笑う。「過去の世に遡ってエルフの女王様をお訪ねすることになるなんてさ! 去年の私が聞いたら正気を疑っちゃうよ」
「違いない」と、生成り色の毛織の脚絆を巻いた足を黒い革ブーツに突っ込みながらフレデリカも苦笑する。「生きていると色々なことがあるもんだ。しかし、二人とも、実際のところどう思う? 使者たちを襲った謎の怪異とやらは、本当に森エルフの女王の差し金じゃなかったんだろうか?」
「後世の伝承からして、それはありえませんわよ」と、アマーリエは思わず語気強く言い返した。「森エルフの女王イムールドは、アヌビル王子とシグルーンの説得を受け入れ、後年、《堕ちたる造物主》に操られたチャーノスの《不死の軍勢》が円環山脈を越えようとしたとき、エルフの軍勢を率いて森を出てきたのだと、『帝国建国史』にもはっきり書いてあります」
「だけど、それは今から十四年後のことなんだろ?」と、アーデルハイトが髪を編む指を止めて眉根をよせる。「今はまだ女王様は人間やドワーフに反感を抱いているのかもしれない」
「でも十四年後には間違いなく同盟を組んでいるんですから。ここでアヌビル王子が女王イムールドに殺されているはずがありませんわ。この通り、これからガウフリドゥスどのに渡されるはずの護符だって伝わっているのですし」
アマーリエが最後の縁とばかりに胸元に吊るした青い護符を示すと、フレデリカがこめかみを掻きながら頷いた。
「まあ、そうだね。間違いなく彼は生きてはいるんだろうね。しかし――」
ちょうどそのとき、外から戸板が叩かれて、銀無垢の鈴を振るような甘い声が響いた。
「三人とも、支度は済みました? 殿方たちがお待ちかねよ」
アマーリエは胸の奥がドキリと跳ねるのを感じた。
「あ、はい《風の乙女》さま。すぐに参りますよ」
アーデルハイトが慌てて答え、夕べのうちに調えてあった背嚢を背負って立ち上がる。
アマーリエも急いで腰帯に巾着を吊るし、アーデルハイトやフレデリカのものより一回り小ぶりな背嚢を背負って房の外へと出た。
ジュニーヴルはすぐ外で待っていた。
銀と金とを取り混ぜたような淡い色の髪が朝日を透かして、白く繊細に整った顔を後光のように取り巻いている。
相変わらず人間離れした美貌だ。
アマーリエはその美しさにまたあの奇妙な寒気を感じた。
――半エルフのジュニーヴル。この方は何者なのかしら……
聖堂都市エルンハイムで七歳から十七歳まで教育を受けたアマーリエは、《大分離》以前の古代の伝承学にそれなりに通じている。
しかし、アマーリエの知識のなかに、《最後の戦い》の時代に活躍した半エルフの女祭司などという存在はなかった。
「――アマーリエ、どうしたの?」
背後からフレデリカが気づかわしそうに訊ねる。
アマーリエはわれにかえって誤魔化した。
「なんでもありませんわ」
中庭をよぎって向かい側の棟の長細い広間に入ると、ハインツとエルベリッヒとエーミールがもう食卓について、お預けを命じられた犬みたいに粥の椀と向かい合っていた。
「あら、先に食べていればいいのに」
「そうはいきませんよ《風の乙女》どの」と、ハインツが皮肉っぽく笑う。「万が一また眠らされて、我々だけまた地下牢に逆戻りとなっちゃ敵わない」
「ハインツ、口が過ぎるぞ」と、フレデリカが窘める。
ジュニーヴルは全く悪びれずに声を立てて笑った。
蜂蜜と干し果物の入った大麦の粥を大急ぎで平らげてから前庭へ向かうと、葉を落とした林檎の木陰で、旅装姿のガウフリドゥスが待ち受けていた。
相変わらずの黒いマント姿で、布製らしい古風な背嚢を背負っている。
「王弟殿下には従者のお一人もいらっしゃらないので?」と、ハインツが眉をあげて訊ねる。
「彼はこっそり来たのよ」と、ジュニーヴルが小声で囁く。「ロージオン王国の廷臣たちの大多数は、東の皇帝に相対するエルフやドワーフとの同盟なんていう話には反対しているらしくてね」
「それにしちゃ堂々と名乗っていましたけどね?」と、エーミールが肩を竦める。
と、まるでその声に気付いたかのように、当のガウフリドゥスが、明るい琥珀色の目に苛立ちを湛えて一同を睨みつけながら怒鳴った。
「女ども、遅いぞ! 荷なんぞ従者に持たせろ!」
「……従者って俺たちのことかな?」と、アルベリッヒが不本意そうに言う。「どうもなんだか気に喰わないね、あの王弟殿下は」