第一章 ゼントの地下迷宮 2
やがて倉庫の一軒の扉が内側から細く開いて、少年の掌が手招きをした。
「さて、では参りますか」
アーデルハイトがアマーリエともう一人、背嚢を背負った老御者のヨハンを促して中へと入る。
屋内は埃っぽかった。
向かい壁の上部に開いた小窓から、目に痛いほど真っ白な光の帯が射しこんでいる。
四角い光に照らされた埃塗れの床の上に真新しい小さな足跡と、それよりやや古い足跡とが折り重なっている。アーデルハイトとヨーゼフ母子が事前に下調べをした後だろう。
「こちらですよ姫君、足元にお気をつけて」
倉庫は今は使われていないようだったが、光の届かない壁際には、今も木製の棚や大型の樽が並んでいた。
アーデルハイトが迷いのない足取りで左手の奥の壁際へと進んで、大樽の位置をずらす。
すると、その下から、半丈〈約1.5m〉四方ほどの、ひび割れて乾いた木製の扉が現れた。
大型船の昇降口を思わせる真四角の扉である。
手前に赤く錆びた金属製の一対の取手がついている。
「ヨーゼフ、そっちを頼むよ」
「ほーい」
母子がかがんで取手を掴み、「せーの!」と掛け声をあげて引き上げる。
途端に埃が舞い上がって光の帯のなかで煙った。
厚く重たげな一枚板の扉が煉瓦壁に立て駆けられると、床にぽっかり開いた真四角の孔が現れた。
「これが、あの《ゼントの地下迷宮》への入り口ですか……」
アマーリエは思わず床に両手と膝をついて覗き込んでしまった。
四角い口から石段が始まっている。
十数段先が暗闇に呑まれて底が全く見えない。
随分深い階段のようだ。
――この底に降っていくの……?
思うなり背筋を寒気が走った。
「大丈夫ですよ、意外と普通の地下道ですから」と、アーデルハイトが苦笑しながら言う。「ゼントファーレン市民としては認めるのは悔しいながら、伝説の《ゼントの地下迷宮》っていうのは、相当誇張された御伽噺だったようでしてね」
「じゃ、大昔にペラギウ山脈から来たドワーフが地下迷宮に財宝を隠したってのは、やっぱり本当じゃないの?」と、ヨーゼフが不服そうに訊ねる。
「残念ながら御伽噺だろうね。便利な地下道ではあるけど。こんなところからこっそり市外へ出られるなんて知れたら市参事会は大騒ぎだろうね……」
アーデルハイトは苦笑いをしながら竜の鱗の角灯の黒い蓋を開け、右手を上向けて祈祷句を唱えた。
「わが守護たる焔神カレルよ、お力をくだされたまえ」
途端、器用そうな長い指を備えた大きな掌の上にポッと焔が浮き上がった。
アーデルハイトが、まるで水でも流しこむみたいに掌を傾けると、焔は角灯のなかへと滑り落ちて、中に据えられた短く太い獣脂蝋燭の芯へと移った。
「はああー―」と、母の手元をじっと見つめていたヨーゼフが口惜しさと感嘆の入り混じったようなため息をつく。
「いいなあ母さんは。アマーリエさまも癒しの聖ニーファの加護持ちなんですよね? どうして俺にはどの神さまの加護もないんだろ」
「仕方がないよ、加護持ちのほうが少数派なんだから」と、焔の神カレルの加護持ちの母はにべもなく言った。「こと傭兵稼業の場合、等級《一》や《二》程度の加護持ちの女より、無加護の男のほうがよっぽど仕事があるよ。さ、おしゃべりはここまで。お前は早いところ戻りなさい。閂は内側から閉めたままにしておくんだよ?」
「こっちを閉めちまったら母さんはどうやって帰ってくるのさ?」
「普通に朝になったら市門から戻るよ。ゼントファーレン市内に暮らすまっとうな職人の家内が外の羊の様子を見に行って朝方に帰ったところで咎められる筋合いはないね。あ、ヨハンさん、ちょっと角灯を持っていてくださいな」
ふくれっつらの息子を尻目に、アーデルハイトは腰の巾着から糸巻きを取り出すと、扉の取手に白い糸の端をしっかりと巻き付けた。
「これも念のための用心ですよ。迷ったときにはこの糸を辿って戻ってこられるように。――ヨーゼフ、お前は早く戻りなさいってば!」
「はーい。母さん気をつけてね。アマーリエさま、ヨハンさん、幸運を祈っていますよ」
町場の子供らしいこまっしゃくれた口調で言ってから、少年は敏捷な仔猫みたいに空の棚に上って、細身の体をぐにゃっとさせて、狭い小窓から器用に外へと滑り出した。
その様を得意そうに見届けてから、アーデルハイトはアマーリエを見やって笑った。
「では参りましょうか。名高い《ゼントの地下迷宮》へ」