第一章 ゼントの地下迷宮 1
埠頭近くの倉庫街には猫の子一匹いなかった。
不揃いな丸い川石を敷き詰めた幅1丈〈約3m〉の街路の左右に、白壁に黒い梁の切妻屋根の倉庫が並んでいるだけだ。
路は西にあたる右手から射す金色がかった陽射しに照らされ、ずらりと並んだ切妻派風が黒々とした牙みたいな影を落としている。
今日は冬至月の中日――
冬至の大市のただなかの祝宴が開かれる日だ。
南部地方きっての大都市である帝国自由自治都市ゼントファーレンの五万人におよぶ住民の殆どは、中央マルクト広場で市参事会主催の祝宴に加わっているか、気心のしれた身内や仕事仲間同士で集まって杯を交わしているのだ。
そんな祝祭日の夕刻、人気のない倉庫街に奇妙な四人連れが現れた。
先頭を来るのは四十前後に見える大柄な女だ。
額が狭く鷲鼻気味の顔立ちはどちらかというと不器量だが、キラキラと輝く大きなとび色の目の魅力が造作の欠点を補って余りある。
褐色の髪を無造作にひっつめ、手織りっぽい短い褐色の外套と毛織の長ズボンを合わせて、大きな皮袋を背負って、まだ燈を入れない角灯を手にしている。取手が綺麗な蔓草状の細工になっていて、鉄製の枠に不揃いな楕円形の竜の鱗を嵌めこんだ上等の照明器具である。
後ろを来るのは少年だ。
年頃は十歳前後。
肘に継の当たった毛織のシャツに赤煉瓦色のベストを重ねて、膝までの黒い半ズボンと毛糸の靴下と木靴を履いている。
ふわふわとした麦わら色の髪と雀斑の散った小麦色の膚。
顎の尖った小作な顔やどちらかというと華奢な骨格は似ていないものの、好奇心に充ち溢れたとび色の眸の輝きが前を行く女とそっくりだ。
誰が見てもこの二人は母子だと分かるだろう。
きびきび歩く母子の後ろをオドオドびくびくしながらついてくるのは、同じ仕立ての古びた灰色っぽいマントを羽織ってすっぽりとフードを被った二人の人物だ。
どちらも結構小柄で、より小柄な一方は腰に巾着袋を下げただけで、やや大きいもう一方が重たげな革の背嚢を背負っている。
この二人はしきりと背後や屋根の上を気にしている。
やがて前をゆく母子が足を止めた。
「着きましたよアマーリエさま、そこの倉庫から地下道に入れるんです!」
少年が高く澄んだ声で得意そうに告げる。
途端、母親が拳でフワフワ頭を小突いた。
「こら馬鹿息子、町中に聞こえそうな大声で顧客の名前を呼ぶんじゃない。密かな道案内を請け負った傭兵の心得ってもんだよ」
「ここで誰が聞くっていうのさ」
少年が不服そうに口を尖らせる。
小柄な灰色マントのより小柄なほうであるアマーリエ・フォン・ヴェルンは思わず口を挟んだ。
「ヨーゼフ、アーデルハイトどのの言う通りよ」
「だって、周りを見てくださいよ?」と、少年ヨーゼフが言い募る。「何を用心しろって?」
「何もかもを、よ。――市内に入ったとき、白い大きな犬に跡を尾行されていたような気がするのよ」
「え、それって、狩人神ウルーの加護持ちが鳥獣を使役しているってことですか?」
「ええ。たぶんね、だから、正直なところ、今のわたくしは屋根の上のコマドリ一匹だって怖ろしくてたまらないの」
話しているうちにアマーリエは本気で怖くなってきた。
アマーリエは今、身に覚えのない義母毒殺未遂の冤罪をかけられて森の古城に生涯幽閉されそうになっていたところを、親切な傭兵たちの助けで逃亡し、上告のために帝国直轄都市ランサウの地方法院へと向かう途上である。
今いるゼントファーレンの市参事会が敵なのか味方なのかは、全く推測がつかない状況なのだ。
「ああ、小鳥は大丈夫ですって」と、アマーリエの怯えを見てとったのか、アーデルハイトが慌てて口を挟む。「この辺りにいる聖ウルーの加護持ちは谷の狩人たちだけです。あの連中が使える鳥は、鷹狩に使う大型の猛禽だけですから。用心は念のためです。――ほれ頼りになる息子さん、ほーらそうだろって顔に書いてあるよ? ニマニマ笑っていないで、早いところ最後の一仕事にかかんなさい」
「はーい」
ヨーゼフは木靴と靴下を脱いで母親に投げ渡すなり、右手に並ぶ二軒の倉庫のあいだのごく細い路地に、敏捷な小動物みたいに入り込んでいった。
「あっちの壁側に鍵のない小窓がありましてね」と、アーデルハイトが説明する。「あの子の背丈ならどうにか入れるんですよ」