金の匙
物は
暑くても汗をかかない
唇を紫にして震えることもない
感覚も心もないからか
ものは泣かない
くすぐってみたら?
お洒落に着飾り
手のなかで舞うだろうか?
時計の刻む静寂を知らす音が
夜の闇に溶けゆき
窓外の家々の明かりと
銀色の声だけが何かを訴えんと
喧騒を引き連れている
無心に伸びた手で
立ち昇る湯気を押しのけ
熱い珈琲を口にする
ほろ苦さが染みわたり
カラメルの香りが鼻腔をつく
軽くついた吐息の先
置き忘れたようにあるのは
金の匙、祖父の形見
堂々とした太陽の朗らかさも
照れ屋の月のはにかみも
熟れた柿の甘さも渋みも
風にただよう金木犀の香りも
ひっそり隠された秘密の
その値打ちすら知らず
沈黙を守っている
記憶にない思い出を宿したまま
鈍く遠く光る金の匙よ
不平も言わず
愚痴も零さず
噂も漏らさず
目配せもせず
ただときどき
思いもよらない音を立てるのだ
ケトルは歌い
エアコンは唸る
汚れちまった悲しみに
啜り泣くよな気配を醸し
実家に帰ると
書斎で積み重ねられた本が
崩れ落ちる
そんなものたちの音で
世界はざわめきに満ちている
そっと耳を澄ました人にだけ
聞こえる声があるという
ああ、金の匙よ
お前は何を思うのか?
何を語るのか?
待てど暮らせど沈黙すか?
古い物語を秘めた
沈黙する金の匙よ
「As You Like It, As you please,
Bonjour Tristesse
お気に召すまま、気の向くまま
悲しみよこんにちは」
世界に轟けとばかりの声が
確かに聞こえた気が
だけどきっと
それは空耳なんだろう