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切り札の男  作者: 古野ジョン
第三部 怪物の夢

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第二十三話 トップギア

 雄大はふうと息をつき、表情を引き締めた。ネクストバッターズサークルから二番打者が歩き出し、右打席に入る。審判がプレイをかけると、悠北のブラスバンドが威勢よく演奏を始めた。


(見てろよ、まな)


 雄大は芦田のサインを見て、セットポジションに入る。内野陣は前身守備を敷いており、特に森下とリョウはスクイズを警戒して打者の様子を窺っていた。


「打てよー!!」


「決めろー!!」


 悠北のベンチからは必死な声援が続く。雄大はそれを耳に入れつつ、小さく足を上げた。その瞬間、三塁手の森下が大声で叫んだ。


「ランナー!!」


 三塁ランナーがスタートを切っており、打者がバントの構えに切り替えた。そう、悠北は初球からスクイズを決行したのだ。


(来るなら来い!!)


 雄大は気にせず、そのまま右腕を振るった。白球が唸りを上げて、胸元へと向かっていく。打者はバットに当てようとしたが――


「いっ!?」


 手元で、直球が大きく伸びた。彼はかろうじてバットに当てたが、打球はファウルグラウンドの方へ跳ね上がった。それを見て、三塁走者が慌てて引き返す。


「芦田!!」


 雄大がそう叫ぶと、芦田が一目散に打球を追いかけていく。彼はそのまま滑り込んだが、僅かにミットが届かなかった。


「ファウルボール!!」


「「おお〜」」


 初球から息の詰まるような攻防が起こり、観客席がどよめいた。芦田はユニフォームについた泥を払っている。雄大は平然とした表情でマウンドに戻っていった。


(またギアが上がったのね、雄大)


 まなはマウンドの方を真剣に見つめていた。その隣では、レイが心配そうな表情を浮かべている。無死二三塁で、二塁走者が帰ればサヨナラ負け。それでも、雄大は大林高校の勝利を信じていた。


 続いて、雄大は第二球を投じた。内角に食い込むシュートだったが、打者はなんとかファウルにした。カウントはノーボールツーストライクとなり、雄大が追い込んだ。


「久保先輩、落ち着いてー!!」


 一塁からは、リョウが大きな声で声援を送っていた。追い込まれた打者は、必死の表情でバットを握っている。雄大は威圧するように足を上げ、第三球を投じた。


 ドン!という音が響き、球場に一瞬の静寂が訪れる。しかし審判の右手が上がると、大林高校の応援席から大きな歓声が巻き起こった。


「ストライク!! バッターアウト!!」


 雄大の投げた直球は、芦田の構えた通りアウトローいっぱいに決まっていた。打者はバットを出すことすら出来ず、構えたままうなだれた。


「オッケー、ナイスボール!!」


 芦田はゆっくりと立ち上がり、マウンドに向かって返球した。ここに来て、雄大は圧巻の三球三振を奪ってみせたのだ。それを受ける芦田は、その凄まじさにただただ震えが止まらなかった。


「三番、ライト、尾田くん」


「尾田頼むぞー!!」


「お前が決めてくれー!!」


 続いて、三番の尾田が左打席へと向かっていく。状況は一死二三塁とピンチであることには変わりない。特に今日の尾田は二安打と当たっており、雄大にとって気が抜けない相手だった。


(この場面、久保は必ず力で抑えに来る。直球を外野に運べば、犠牲フライで一点だ)


 打席の尾田は、雄大の直球に狙いを絞っていた。この場面、外野フライでも内野ゴロでも場合によっては点が入る。彼は、とにかく前に飛ばすことを目標として打席に立っていたのだ。


 雄大はサイン交換を終え、セットポジションに入る。先ほど悠北がスクイズを失敗したこともあり、彼は打者との勝負に集中することが出来ていた。敵味方両方の声援が轟き、彼の精神をかき乱そうとしている。それでも動じず、彼は初球を投じた。


(なっ……)


 その球を見て、尾田はピクリと反応したが、バットを出すことは出来なかった。再び派手な捕球音が響き渡り、審判の右手が上がる。雄大が投じていたのは、外角低めいっぱいのストレート。その球威と制球力で、尾田は圧倒されつつあった。


(尾田がバットすら出せないとはね……)


 ネクストバッターズサークルから見ていた野村は、その球の威力をひしひしと感じていた。好打者の尾田が手も足も出ないストレート。野村は、心のどこかで雄大との対決を心待ちにしていた。


 続いて、雄大は第二球を投じる。同じく外角低めいっぱいへのストレートだったが、尾田は何とか手を出していった。しかしバットに当てることは叶わず、そのまま空振りしてしまった。


「ストライク、ツー!!」


「よっしゃー!!」


「追い込んだぞ久保ー!!」


 内野陣からも、必死の声援が送られている。尾田は追い詰められたような表情で、バットを短く持ち替えた。信じられない実力の剛腕投手が、彼の夏を終わらせようとしているのだ。彼は恐怖すら抱いており、もはや平常心ではいられなかった。


 そして――セットポジションから、雄大は第三球を投じた。白球が、尾田の胸元を目掛けて飛んでいく。


(来た、真っすぐ!!)


 尾田は打ちにいこうと、バットを始動させた。二球連続で直球を見せられたこともあり、タイミングは悪くなかったが――彼の視界から、ボールが姿を消した。


「え……」


 そう呟く間もなく、彼のバットは空を切った。ボールはしっかりと芦田の構えたミットに収まっており、審判が右手を突き上げた。


「ストライク!! バッターアウト!!」


「ナイスボール!!」


「ツーアウトツーアウトー!!」


「あとひとりー!!」


 雄大が投じていたのは、内角へのカットボールだった。トップギアの雄大が投じるそれは、時速百五十キロ近い球速を誇りながら、手元で消えるように変化していく。たとえ尾田でも、初見で捉えるのは至難の業なのだ。


「これで、あとひとり……!」


「うん、ここまで来たね」


 二死二三塁となり、ベンチで見ていたレイも少し落ち着いた。大林高校の応援席からは「あとひとり」の声が鳴り響いている。しかし、それを打ち消すように悠北側から声援が巻き起こった。


「四番、サード、野村くん」


「お前しかいないぞー!!」


「頼むぞ四番ー!!」


 場内アナウンスが流れ、野村がネクストバッターズサークルから歩き出した。彼はバットを少し振りながら、雄大の方をちらりと見た。


(本気の久保くんと対決が出来るんだ、絶対に打つ)


 野村は右打席に入ると、バットを強く握った。雄大もふうと息をつき、真剣な眼差しで芦田のサインを見ていた。悠北対大林の二回戦も、いよいよ大詰め。雄大が野村を抑えれば勝ちで、打たれればサヨナラ負けである。緊迫した状況に、観客たちも熱い視線を送っていた。


「「かっとばせー、のーむらー!!」」


 悠北の応援団が必死にエールを送る中、雄大は芦田のサインに頷いた。彼はセットポジションに入り、ランナーの方を見る。そして小さく足を上げ、第一球を投じた。白球が唸りを上げて、インハイのボールゾーンへと向かっていく。


(真っすぐ!!)


 野村はバットを始動させ、雄大の投球を捉えようとしていた。彼は前までの打席では直球にタイミングを合わせることが出来ていた。当然この打席でも直球を打とうとしていたのだが――彼のバットは空を切った。


「ストライク!!」


「え……」


 ボールが芦田のミットに収まり、審判が大きな声でコールすると、野村は目を丸くした。完璧に捉えたはずが、ボールがバットの上を通過していったのだ。四番打者にとって、これほど屈辱的なことはなかった。


「いいぞ久保ー!!」


「落ち着いていけー!!」


 一方で、大林高校の応援席は雄大を応援する声で満ちていた。古豪の悠北相手に真っ向勝負を挑む雄大を見て、皆が心を奪われていたのだ。


 続いて、雄大は第二球を投じた。今度は外角低めいっぱいのストレートだ。野村はピクリと反応したが、バットを出せず、これでツーストライクとなった。


「ストライク、ツー!!」


「よっしゃー!!」


「追い込んだぞー!!」


 野村は思わず天を仰ぎ、バットを出さなかったことを悔いた。塁上の走者も、野村に対して大声を張り上げている。無死二三塁という大チャンスを作っておきながら、そこから少しも進むことが出来ていないのだ。彼らの表情には焦りが見えていた。


(こんなところで終わるわけにいかないんだ。俺が打たないと……)


 悠北という高校が、二回戦で終わっていいはずがない。野村はそのことを思い出し、もう一度バットを強く握った。雄大は芦田とのサイン交換を終え、セットポジションに入る。カウントはノーボールツーストライク。雄大は迷わず、三球勝負の構えだった。


「雄大、頑張れー!!」


 ベンチから、まなが大きな声を張り上げる。雄大の耳にもしっかりとそれは届いており、彼はクスリと笑みを浮かべた。そして小さく息を吐き――第三球を投げた。彼の右腕から放たれた白球は、まるで加速していくように本塁へと向かっていく。


「なっ……」


 そして、野村に手を出させることすらなく――再びアウトローいっぱいに決まった。審判の右手が突き上がり、雄大は雄叫びを上げる。


「ストライク!! バッターアウト!!」


「っしゃあああ!!」


 野村は呆然として、再び天を仰いだ。大林高校のベンチからは選手たちが飛び出してくる。こうして、雄大は強力打線の悠北高校を抑え、見事な完封勝利を収めたのだ――

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