第四十話 握手
スタジアム全体に、快音が響き渡った。八木はバットを振り切ったまま、ボールの行方を見ている。リョウは振り向くことなく、そのまま片膝をついてうなだれた。中堅手の中村は一歩も動かず、打球を見送っている。バックスクリーンに打球が直撃すると、スタンドから歓声が巻き起こった。
「うおっしゃああ!!」
「サヨナラだー!!」
「八木ー!!!」
八木は球場の雰囲気をかみしめるように、ゆっくりと一塁に向かって駆け出した。自英学院の選手たちはベンチを飛び出し、喜びを分かち合っている。八木もダイヤモンドを回りながら左手を突き上げ、チームメイトに笑顔を見せた。
「終わった、のか……」
久保は打球を見届けたあと、小さい声で呟いた。八木から同点弾を放ったことも、森山の前に三振に打ち取られたことも、どこか遠い記憶のように思われた。整列のために、彼はレフトから内野へと向かっていった。
「そんなっ……」
「終わりだよ、レイちゃん……」
今にも泣きだしそうなレイに対し、まなは静かにそう言った。去年は大粒の涙を流していた彼女だが、今年は泣かなかった。監督として、最後まで勇ましく立っていようと努めていたのだ。ベンチでがっくりと肩を落とす選手たちに対し、整列するように促していた。
「ひっくっ、ぐっ……」
マウンドのリョウは、ただただ涙を流していた。自分の一球で、三年生の夏を終わらせてしまったという後悔。そのことで胸がいっぱいになり、立ち上がることすら出来なかった。
「……リョウ、整列しよう」
そこに現れたのは、岩沢だった。彼は目を赤くしながらも、はっきりとそう言いきった。対戦相手に挨拶をする。そのことが、主将としての最後の仕事だったのだ。遊撃手の近藤も近寄り、リョウの左肩を持った。
「岩沢、そっち持ってやれよ」
「ああ、分かってるさ」
二人は両肩を支えながら、本塁の方へと向かった。リョウは泣きながら、二人に謝った。
「すいません、自分が打たれなければ……!」
彼はただひたすら涙を流し、謝罪の言葉を並べている。すると、岩沢が口を開いた。
「なーに言ってんだ、お前が投げてなければ準決勝なんて有り得なかったんだ。もう十分だよ」
「でも、でも……!」
「ありがとな、リョウ。キャプテンとして、今日ほど誇らしい日は無いよ」
岩沢はリョウに対して、ニッと笑顔を見せた。左肩を支えていた近藤も、優しく微笑んでいた。外野から戻ってきた久保は、その様子をじっと見て静かに呟いた。
「……いい経験したな、リョウ」
投手であれば、自分の責任でチームが負けることもある。リョウは一年生ながら、その貴重な経験をすることが出来たのだ。これから先の野球人生において、そのことは必ず生かされていく。久保はそれを理解していたのだ。
やがて両チームが整列して、審判が試合終了を宣言した。選手たちは大きな声で挨拶をして、試合を締めくくった。
「四対三で自英学院高校の勝ち。礼!!」
「「「「ありがとうございました!!!!」」」」
挨拶が終わると、両校の選手は握手を交わした。岩沢は松澤と握手を交わし、互いの主将としての健闘を讃え合っていた。リョウは自英学院の選手たちに話しかけられ、その好投を褒められていた。涙で目を腫らしていた彼だったが、ようやく笑顔を見せるようになった。
久保はというと、八木と握手を交わしていた。一年越しのリベンジは、久保の勝ち。しかし、チームとしては八木が勝利するという結果になった。
「八木先輩、ありがとうございました。決勝、絶対勝ってくださいね」
「あの球を打たれるとは思わなかったよ。やっぱお前には敵わないな」
「本当はピッチャーとして投げ合いたかったです。でも、もう無理ですね」
「そうだな。でも、アイツとなら出来るぞ」
八木は森山を指さした。森山もそれに気づき、二人のもとへと近寄ってきた。そして、久保に向かって口を開いた。
「久保、来年こそ投手として投げてくれるんだな?」
「ああ、約束する。必ずマウンドに上がって、お前らに勝って甲子園に行くよ」
「そうか。なら、来年また会おう」
そう言うと、森山はスッと右手を差し出した。それに応じて、久保も右手を出した。二人は互いの手を強く握り、来年の再戦を誓い合った。
去年の試合後、久保は八木との再戦を約束した。それと同じように、二人は再度の対決を望んだのだ。来年は、両者にとって最後の夏となる。大林高校と、自英学院高校。二校の命運は、この二人の背中に懸かっているのだ。
大林高校の選手たちは片付けを終え、ベンチを後にした。帰りの時間まで少し余裕があったため、広場に集まって皆で待っていた。そのとき、まなが久保に話しかけた。
「泣かないんだね」
「まあな。あそこで三振した時点で、どこか割り切れてたんだ」
「そっか。……そうだよね」
「悪いな、こんな四番でよ」
「ううん。雄大はよくやったもの」
「ありがとな」
二人はそのまま、黙って立っていた。しかし、久保は隣からむせび泣く声がするのに気づいた。横を見ると、まなが静かに涙を流していた。
「どうした、まな」
「ごめん、我慢してたのに……ごめんね」
久保と会話したことで、ずっと堪えていた涙の粒がとうとうあふれ出てしまった。監督として迎えた、最初の夏。そのプレッシャーから解き放たれた今、いろいろな感情が押し寄せてきていたのだ。
「使えよ」
「あ、汗まみれだから……!」
まなはお決まりの文句を言ったが、久保が差し出したハンカチを受け取った。涙を拭きとったが、それでも泣き止まない。ぽろぽろと零れ出す彼女の涙を見て、久保も少し目を滲ませた。
「まな、もう泣くなって……」
「ゆ、雄大こそ……!」
全力で駆け抜けた夏が、終わってしまった。二人の中に、その実感がようやく湧いてきたのだ。それを周りで見ていた部員たちも、どう声を掛けたらよいものかと困惑していた。その時、岩沢が少し笑いながら口を開いた。
「お前ら、三年の俺たちより泣くなって」
「あ、いやすいません」
久保は我に返り、岩沢の方を見た。三年生たちは既に充実感に満ちた顔つきで、今日の敗北を受け入れていた。後輩たちの助けもあって、準決勝まで来ることが出来た。そのことが何より嬉しく、また良い思い出となったのだ。
「それに滝川、いつから久保のことを下の名前で呼ぶようになったんだ?」
「あ、私もそれ気になってました」
岩沢がまなにそう聞くと、すかさずレイも乗っかった。部員たちはハハハと笑い声をあげ、まなは顔を赤くしてすっかり小さくなってしまった。久保はどうしたもんか分からず、ぽりぽりと頭をかいていた。その時、岩沢が彼に向かって口を開いた。
「久保、少し早いが大事な話がある」
「え? な、なんでしょうか」
「次のキャプテン、お前がやれ」
「自分が、ですか」
「そうだ、お前以外に適任者はいない。だよな?」
岩沢はそう言って、周りの三年生たちに同意を求めた。するとぱちぱちと拍手が巻き起こり、その意見に賛成を表していた。久保は呆気に取られていたが、やがて真剣な表情で口を開いた。
「……分かりました、自分がやります」
「よし、それでこそキャプテンだ」
久保の言葉を聞き、岩沢は彼のもとへ歩み寄った。そして右手を差し出し、握手を求めた。久保もそれに応じ、力強く握手をした。
「いいか、久保。来年は今年より上に行けよ」
「はい。頑張ります」
久保が力強く返事をすると、部員全員から拍手が送られた。こうして、三年生たちの夏は終わった。けれども、その夢は下の世代に引き継がれていく。大林高校野球部は、来年に向けてスタートを切ったのだ。
***
自英学院高校は、そのまま県大会を制した。八木と森山という二人の超高校級投手を擁し、さらに甲子園でも勝ち進んでいった。決勝で敗れて準優勝という結果に終わったものの、森山隆という名は全国に広まることになった。
新体制となった大林高校野球部では、久保を中心としてチームづくりが進んでいった。彼は新チームの目標を「甲子園出場」として、部員たちの奮起を促した。
久保は本格的に投手復帰を目指し、より厳しいトレーニングに励んでいた。秋の大会では、リョウが「1」の背番号を背負うことになった。また、彼はその打撃力を活かすために一塁手としてもプレーすることになった。さらに控え投手として、二年生野手の加賀谷が投球練習をするようになった。
チームは少しずつ形を変えながら、その実力を伸ばしている。まなも監督として、部員たちとともに厳しい練習を行っていた。
夏はあっという間に終わり、秋の大会が始まった。エースのリョウと、四番の久保。二人は夏と同様に活躍し、大林高校はあれよあれよという間に地区大会を突破してしまった。
勢いに乗り、久保たちは県大会へと乗りこんだ。秋の大会で勝ち進めば、春の甲子園が見えてくる。チーム一丸となって、その目標に突き進んだのだが――現実はそう甘くはない。県大会準々決勝、大林高校は悠北高校と対戦することになった。
リョウを先発させて試合に臨んだが、久保たちは悠北高校の新エースである内海を打ち崩すことが出来なかった。夏の大会でサヨナラ負けを喫したことが、内海の心に強く残っていたのだ。先輩たちのリベンジとばかりに、彼は鬼気迫る投球を見せた。
一方のリョウは、野村と尾田を擁する悠北打線に打ち込まれてしまった。夏の大会で六得点を挙げたこともあり、悠北高校はリョウに対する苦手意識を持っていなかったのだ。八回裏開始の時点で九対三と、大林高校は大幅なリードを許していた。
一点でも返そうと奮起していた大林ナインだが、あっという間にツーアウトとなった。二番手投手の加賀谷が九回表のために投球練習に出ようとすると、久保が引き止めた。
「加賀谷、ちょっと待て」
「待てって、まさかリョウに投げさせるつもりなのか?」
「違う、そうじゃないんだ」
久保はそう言って、戦況を見つめるまなのところへ向かった。真剣な表情で迫る彼に対し、まなは少し驚いたような感じで口を開いた。
「ゆ、雄大? どうしたの……?」
それに対し、久保は表情を変えない。彼は左手でグラブを握っている。すっと息を吸い、そのままゆっくりと口を開いた。
「まな――頼みがあるんだ」




