第三十九話 宿命の対決
森山が登場すると、観客席が一斉に沸いた。今大会でも彼は好投を見せており、その知名度は日に日に高まっている。八木に続く、自英学院のエース候補。その登場とあって、観客たちの視線が一気に集まっていたのだ。
（とうとうこの時が来ちまったな、森山）
ネクストバッターズサークルで待っていた久保は、マウンドの方をじっと見た。森山はボールを受け取ると、投球練習を始めた。早くも松澤の豪快な捕球音が響き渡り、スタジアムをどよめかせていた。
「頼むぞ森山ー！！」
「お前しかいないぞー！！」
自英学院の応援席からは、森山の投球に期待する声援が飛び交っていた。八木は本塁打を打たれ、斎藤も大林高校に攻略されつつある。となれば、もう頼れるのは森山だけだったのだ。
（森山、俺の分まで頼むぞ）
レフトに下がった八木も、真剣な眼差しでマウンドを見つめていた。エースでありながら久保に一発を食らい、マウンドを降りた。その悔しさはもちろんある。しかし、今はチームの勝利こそ優先すべき事項だ。彼は森山にマウンドを託し、久保を打ち取ることを願っていた。
「信じらんねえ、バケモンみたいだ」
「二年生でこれかよ」
大林高校の選手たちは、投球練習の時点で圧倒されていた。セットポジションからでも、関係なく剛速球を投げ込んでいる。その球は風を切るように進み、松澤のミットに吸い込まれていた。球威だけなら、八木を大きく上回っていた。
「久保先輩、大丈夫でしょうか」
「あとは祈るだけだよ、レイちゃん」
心配そうにグラウンドを見るレイに対し、まなは動じていなかった。ここまで来れば、もはや彼女に出来ることは無い。久保が打ち砕くか、それとも打ち取られるか。それだけだった。
（確かに速いが、真っすぐとスライダーの二択だ。絶対に打つ）
久保は森山のフォームをじっと見つめ、頭の中でタイミングを取っていた。やがて投球練習が終わり、彼は打席に向かって歩き出した。それに合わせて、森山もふうと呼吸を整えていた。
「プレイ！！」
「よっしゃこーい！！」
審判がプレイを再開するのと同時に、久保が大きな声を出した。それを聞いた森山は不敵な笑みを浮かべ、松澤のサインを見た。
（どのみち真っすぐを打たないとな）
久保は直球に狙いを絞っていた。松澤はボスンと右手でミットを叩き、高めに構えた。森山はセットポジションから、小さく足を上げた。その右腕を後ろに持っていくと、一気に振るった。指から解き放たれた直球が、唸りをあげて突き進んでいく。
（真っすぐ！！）
直球と見るや、久保は一気にスイングを開始した。持ち前のスイングスピードで、バットを前方に進出させていく。捉えきることは出来ず、そのままボールの下を僅かにかすめた。強烈なファウルボールがバックネットに突き刺さる。ガシャンという音が響き、審判もやや驚きながらコールした。
「ファ、ファウルボール！！」
「「おお～」」
次の瞬間、球場がどよめいた。電光掲示板には「150」という数字が表示されている。森山の剛速球と、それを迎え撃つ久保のスイング。両者ともに高校生のレベルをはるかに上回っており、二人だけが別次元にいるような雰囲気だった。
「すごい、初見で森山さんのストレートを」
「そりゃ、おにーちゃんの真っすぐを二球目で当てたんだから」
久保のポテンシャルに驚くレイに対し、まなは当然という顔をしていた。森山も特に驚いた表情は見せず、松澤からの返球を受け取っていた。
（流石だな。けど、次は当てさせない）
森山は松澤のサインを見て、首を縦に振った。セットポジションに入り、各塁のランナーをちらりと見る。二死満塁という状況だが、彼は動揺するどころか楽しんですらいた。
「春季大会の時と違って、なんだか楽しそう」
まなは小さな声でそう呟いた。森山は「怪物」という目標を追い続け、気づけば一人になっていた。対戦相手を抑えるのが当たり前になり、彼は退屈するようになった。そして自分に匹敵する実力者を追い求めた結果、この準決勝で再び「怪物」と相見えることが出来たのだ。
森山は小さく足を上げ、第二球を投じた。再び高めのストレートが、唸るように本塁へと向かってくる。久保は迷わず、スイングを開始した。
（さっきと同じだ、捉えた！！）
完璧に芯で捉えたつもりだったのだが――バットは白球の下方を通過した。予想外の出来事に、彼は思わず目を見開いた。そして松澤のミットから、ドスンという重い捕球音が響く。すると、球場から一気に歓声が巻き起こった。
観客たちの視線の先には、球速表示があった。そこにははっきりと「154」との表示がなされている。さっきの剛球を上回るスピードで、森山は空振りを奪ってみせたのだ。
「おらあああ！！」
森山は雄叫びを上げた。それに呼応して、自英学院の応援席からは拍手が送られる。これでカウントはノーボールツーストライクだ。
（お前がそこまで感情を出したの、初めて見たな）
松澤は、普段とかけ離れた森山の様子に驚いていた。とはいえ、森山はこの大ピンチでも遺憾なくその能力を発揮することが出来ている。完成度は八木に及ばないが、内に秘めたる可能性では彼の方が上かもしれない。松澤はそんなふうに予感していた。
（三球勝負だ。スライダーで仕留めるぞ）
松澤は勝負を決めようと、スライダーのサインを出した。ところが、森山は首を横に振った。松澤が高め直球のサインを出すと、今度は頷いてセットポジションに入った。
（松澤先輩、真っすぐで仕留めないと勝ったとは言えないでしょ）
森山はただ久保に勝つだけでは満足しない。その勝ち方にもこだわりを持っていたのだ。スライダーでなく直球という選択こそ、そのことを如実に表していた。
彼はランナーを目で牽制したあと、小さく足を上げた。そして右腕を振るい、第三球を投げた。力強く、それでいてしなやかにボールを解き放ったのだ。
「うぉらっ！！」
彼は思わず声を漏らした。彼はこの一球で完全に仕留めたつもりだった。バットが空を切り、審判がストライクとコールする――そこまでイメージ出来ていた。ところが、次の瞬間に快音が響き渡った。
「！」
森山は目を丸くした。久保は思い切り右足を踏み込み、持てる力を振り絞ってバットを振り切ったのだ。その目つきはまるで獣のようで、来る球全てを仕留めてしまいそうな雰囲気を醸し出している。芯で捉えられた打球が、左方向に空高く舞い上がった。
「いった！！」
「すげえ」
観客席から、次々にそんな声が上がった。松澤はマスクを取り、じっと打球を見上げている。レフトの八木が追っていくが、打球は僅かにポールの左側を通過していった。久保は僅かに振り遅れていたのだ。
「ファウルボール！！」
三塁塁審が両手を上げると、球場中がどよめきに包まれた。観客たちは打球方向を見て、その凄まじさにただただ呆然としていた。電光掲示板には「155」との数字が示されていたが、もはや誰も見ていなかった。
「クソッ！！」
久保は大きな声を上げ、悔しがった。あと数十センチメートル右にずれていれば、文句なしの満塁ホームランだったのだ。仕留めそこなった自分に、腹が立っていた。
「ドンマイ久保ー！！」
「次は打てるぞー！！」
大林高校の選手たちから、声援が飛んだ。怒った表情を浮かべていた彼だったが、その声を聞いて我に返った。
（冷静にならないと。まだノーツーなんだし）
彼はちらりとベンチの方を見た。その視線の先にあったのは、まなの顔だった。彼女もそれに気づき、静かに頷いた。
（……ありがとよ、まな）
視線をマウンドに戻し、彼は大きく息を吸った。そしていつもの表情に戻ると、大きな声で叫んだ。
「よっしゃこーい！！」
さっきは不敵な笑みを浮かべていた森山だったが、もはやそんな余裕はなくなっていた。完璧だったはずの直球を、見事に打ち返されてしまったのだ。マウンド上で、自分の球に対する自信を失いかけていた。
「森山！！」
そのとき、松澤が叫んだ。森山がハッとそちらを向くと、松澤はサインを出した。
（森山、残念だが直球勝負で勝てる相手ではない）
彼も勝負球をあそこまで飛ばされるとは思っていなかったため、もちろん動揺した。しかし、今は森山に立ち直ってもらうのが先決だ。だから彼に声を掛け、落ち着きを取り戻させたのだ。
松澤は今度こそ確実に仕留めようと、スライダーのサインを送った。森山も静かに頷き、セットポジションに入った。久保もバットを強く握り直し、マウンドと対する。
「「かっとばせー、くーぼー！！」」
状況は二死満塁と大チャンスであることに変わりはない。なんとか勝ち越しをと願い、応援団も必死の声援を送る。あと二勝すれば甲子園に届く。しかし、そのためには森山という壁を突き破る必要があったのだ。
「雄大……」
まなは両手を組み、祈るような表情で見つめている。ベンチにいる選手たちも、ただ願うことしか出来ない。
「久保先輩、お願いします！！」
リョウは二塁から声援を送った。この回に久保の打撃で勝ち越して、裏の攻撃を自分が抑えて勝つ。その願いが成就するよう念を送っていた。
（これは俺対森山じゃない。皆と自英学院の戦いなんだ）
自分にはチームメイトがついている。そのことを再認識して、久保は四球目を待っていた。森山は各塁を見て、ふうと息を吐く。完璧な当たりを打たれて心が折れかけていたが、彼は落ち着きを取り戻していた。
大砲か、剛球か。その結末を見逃すまいと、球場中の視線がグラウンドに集まっている。極限まで張り詰めた空気が弾けそうになる中、森山は足を上げた。自らの力を全て指先に注ぐように、第四球を解き放った。
（真っすぐ！！）
久保はスイングを開始した。三球連続で直球を見せられ、そのタイミングは完璧につかんでいた。今度こそフェアグラウンドに飛ばそうと、バットを前に進めていく。しかし、白球が本塁手前に差し掛かった瞬間、彼の視界から忽然と姿を消した。
（しまっ――）
そう思う間もなく、彼のバットは空を切った。ボールは地面すれすれに構えられた松澤のミットに収まっており、森山が雄叫びを上げた。審判が右手を突き上げ、勝負の結果を伝えた。
「ストライク！！ バッターアウト！！」
「っしゃああああ！！」
「ナイスピー！！」
「森山ー！！」
自英学院の応援席が一気に沸き起こった。試合に勝ったかのような雰囲気になり、抱き合う者すらいた。一方で大林高校の選手たちは唖然として、何が起こったのか分からずにいた。
「……負けたよ、森山」
久保は静かに呟き、ベンチへと戻っていった。自英学院のナインは、大ピンチを凌いだ森山を讃えていた。彼はその声かけに応えつつ、松澤に話しかけていた。
「松澤先輩、さっきはありがとうございました」
「なに、気にするなよ」
「真っすぐで押し切れるなんて、自惚れてました」
森山がそう言うと、松澤は考えを巡らせていた。やがてそれがまとまると、静かに口を開いた。
「……あの場面で直球勝負が出来るピッチャーなんて、俺は一人しか知らない。もちろん、お前でも倫太郎でもない」
そして、彼はベンチに帰る久保の方を見た。森山はそれを見て、表情を曇らせていた。
今日の一打席は、両方にとって悔いが残る勝負となった。勝ち越し打を打てなかった久保と、最後まで直球で押し切ることが出来なかった森山。宿命の対決にて、勝者は現れなかったのだ。
久保は今大会で、ずっと大林高校に勝利をもたらしてきた。その彼が打ち取られたというのは、ナインにとってショックが大きい出来事だった。守備に向けて準備をする彼らは、どこか冴えない表情を浮かべていた。まなも口を一文字に結んだまま、何も言うことが出来なかった。
そして、結末はあっけないものだった。九回裏、先頭打者は四番の八木だった。彼はリョウが投じた初球のストレートを捉え、バックスクリーンへと運んでみせたのである――
