第三十六話 大砲
タイムが終わり、内野陣が散って行った。そのとき、ベンチにいたまなが久保に向かって叫んだ。
「久保くん!!」
久保は思わず振り向き、彼女の方を向いた。まなはニッと笑い、大きな声でこう言った。
「『目標』、叶えてよね!!」
「おうよ!!」
久保もニッと笑い、まなに応えた。いよいよ、エースと四番の対決が幕を開ける。観客たちも身を乗り出すようにして、グラウンドの方を見つめていた。アナウンスが流れ、場内のボルテージは最高潮に達する。
「四番、レフト、久保くん」
「お前を待ってたぞー!!」
「一発かませよー!!」
久保はゆっくりと打席へと歩き出した。歓声をかみしめるように、足を進める。梅宮とリョウが必死に自英学院打線を封じ込めているのを、ただレフトから見守ることしか出来なかった。打撃でも八木を捉えきれず、二人を援護できていない。彼はそのもどかしさを、この打席での決意へと変えていた。打席に入り、バットを構える。そしてすうと息を吸い、大声で叫んだ。
「よっしゃこーい!!」
「!」
その声に反応したのは、まなだ。去年の久保は打席で気負ってしまい、まなの声援で自分の間を取り戻していた。しかし今年は、最初から自分のテンポで打席に入ることが出来ていたのだ。
「久保くん、頑張れー!!」
まなも精一杯の声援を飛ばす。そのとき、レイが申し訳なさそうに彼女に話しかけた。
「あの、まな先輩……」
「レイちゃん、どうしたの?」
「『あのこと』、久保先輩に伝えなくて良かったんですか?」
「伝えてないよ」
「え、どうしてですか」
「久保くん、きっと分かってるから。私が言ったところで、余計に迷わせるだけだよ」
まなははっきりとそう言って、じっと久保の方を見た。応援団の声がいっそう大きくなり、スタジアムの雰囲気をますます加熱させる。自英学院の外野手は後退し、久保の長打に備えている。八木はキッと表情を引き締め、真剣な眼差しで松澤のサインを見つめた。
(この打席、どう来るか)
久保はバッテリーの考えを読んでいた。去年は変化球で打ち気をそらされた後に、ストレートで勝負を挑まれた。今日の一打席目はスプリットで三振し、二打席目と三打席目は直球を打たされている。
八木はセットポジションに入り、各塁のランナーを見た。二塁には木尾、一塁には岩沢がいる。ここで一発が出れば同点だ。当然、久保もそれを狙っていた。
(八木先輩から連打は難しい。狙うは一発のみ)
そして、八木は第一球を投じた。ボールが直線軌道を描いてミットへと向かっていく。久保はそれを見てスイングを開始したが、バットが空を切った。
「ストライク!!」
「オッケー!!」
松澤はいつになく大きな声で、八木を励ましていた。今の球を見て、久保は八木が直球で押してくることを察知した。
(やっぱり、ピンチになったら真っすぐか)
久保はギュッとバットを強く握り、再び構えた。八木はセットポジションに入り、ランナーを見る。そのまま、第二球を投じた。
「うぉらっ!!」
彼は白球を放つ瞬間、思わず声を漏らした。ボールはやや内角寄りに、ただ風を切るようにひたすら直進していく。久保は再びスイングを仕掛けたが、捉えきれない。ボールの下を叩いてしまい、強烈なファウルボールがバックネットに飛んでいった。
「ファウルボール!!」
(クソ、速いな)
八木は今日最速のストレートを投じていた。得点板に球速が表示されると、観客席からどよめきが起こった。早くもツーストライクに追い込まれてしまったが、久保はそれでも前を向き、バットを構えた。
「久保くん、信じてるからねー!!!」
まなも今日一番の声量でエールを送っていた。彼女にとって、もはや出来ることは信じることのみである。今日の勝利、久保のプロ入り、そして甲子園。色々な目標が、この打席には込められているのである。
「「かっとばせー、くーぼー!!」」
全校から駆け付けた生徒たちも、一斉に久保に向かって声を出している。史上初の準決勝進出とあって、学校中が久保たちの活躍を期待しているのだ。あと二勝で、夢の舞台。近いようで、ずっと遠くにある存在だ。
八木は三球目に直球を投じたが、これはアウトコースに外れてボールとなった。これでカウントはワンボールツーストライク。勝負のカウントとなった。
(……ここらで、勝負に来るか)
久保はじっとマウンドを見つめながら、あることを考えていた。八木は松澤と慎重にサインを交換する。その真剣な表情は変えず、しっかりと久保に向き合っている。インハイの直球を弾き返された去年の屈辱を忘れてはいない。油断することなく、全力で仕留めにかかっていた。
「さぁこい!!」
松澤はぽんと右手でミットを叩き、八木に向かって声を張り上げた。球場の雰囲気がピンと張り詰め、グラウンドに注目が集まる。
八木はセットポジションから小さく足を上げた。そして、その指から第四球を放った。次の瞬間、マネージャー二人が声を出した。
「「あっ」」
白球は山なりの軌道を描いて本塁へと向かっていく。八木が投じていたのは――カーブだった。そう、今日の八木はここまでカーブを使っていなかったのである。マネージャー二人はそのことに気づいており、レイがまなに確認していたのはまさにカーブのことだったのだ。
(これで決まりだ、久保!)
八木は勝利を確信した。三球連続でストレートを見せ、ここに来て初めてカーブを投じる。久保を封じるためだけに、ここまで温存してきたのだった。自ら球種の選択肢に縛りを設けてまで、バッテリーは久保対策に本気で取り組んでいた。
「くっ……そ!!」
しかし、なんと久保は堪えていた。声を出しながら、必死にバットが前に進もうとするのを抑えている。そのままホームベースの前で、バットに当ててみせた。ボテッという音を響かせて、打球が一塁線を切れていった。
「ファウルボール!!」
「なっ……」
松澤はそれを見て、驚きを隠せなかった。八木は完璧なコースにカーブを投じてみせたが、久保はそれを当ててみせたのだ。もちろん、彼自身も八木がカーブを投じていないことに気づいており、そのことが意識の片隅にあった。とはいえ、初見の球に食らいついていくその集中力と技術は相当なものだ。彼が「大砲」としてこの大会に君臨している所以だった。
「タイム!!」
ここで、松澤はタイムを取ってマウンドに駆け寄った。二人は口元を隠しながら、これからの配球について考えていた。
「まさか、お前のカーブを当ててくるとはな」
「流石に参ったよ」
二人にとって、カーブを当てられるのは想定外だった。この一打席のためだけに、二人はずっとカーブを使わずにいたのだ。それをあっさりファウルにされるのは、流石に勘弁願いたいという心情だった。
「しかし倫太郎、さっきのカーブは有効に使えるぞ」
「だな、これでアイツの心にカーブが残る」
だがここで、二人は気持ちを切り替えた。今の一球で、久保の意識の中に強くカーブが植えつけられることになったのだ。これにより、バッテリーはぐっと配球がしやすくなった。
「まだカウントはワンツーだ。あと二つボール球を使える」
「変化球、ちゃんと低めに投げるからな。捕ってくれよ」
「ああ、お前もしっかりな」
そして、松澤は戻っていった。二人が話している間、久保は打席を外して軽く素振りをしていた。彼は少し呼吸を整えて、次の球を読んでいた。
(カーブをファウルにしたのは良いけど、これで次の球が難しくなった。ヤバいな)
ここに来て、久保はバッテリーのペースに飲まれそうになっていた。迷いを抱えながら、打席に向かおうとする。そのとき、ベンチから大きな声がした。
「雄大!!」
久保はハッとしてそちらの方向を見た。その声の主は、まなだった。彼女は大きな声で、勇気づけるように叫んだ。
「迷わないで!!」
まるで道に迷いそうな久保を導くように、彼女はそう言い切った。周囲の部員たちも彼女の姿に驚き、目を見開いている。
(……分かってるよ、まな)
久保は深呼吸をして、気持ちを静めた。迷わず、来た球を撃ち抜く。そのことを改めて決意し、ゆっくりと打席に入った。
「プレイ!!」
審判が試合を再開すると、再び視線がグラウンドへと集まった。カウントはワンボールツーストライクで、久保が追い込まれていることに変わりはない。
(もう配球は読まない。来た球を打つ)
久保は強くバットを握り、じっとマウンドの方を睨んだ。八木はそれを意に介さず、松澤のサインを見つめている。
(もう一球カーブだ、倫太郎)
松澤はカーブのサインを出し、低めに構えた。八木はそれに頷き、セットポジションに入る。
「久保、頼むぞー!!」
一塁から、岩沢が声援を送った。彼はなんとか四球で繋ぎ、二死一二塁というチャンスを演出した。彼に報いるためにも、久保は絶対に打ちたい場面だった。
八木は小さく足を上げ、第五球を投げた。松澤の要求通り、山なりの軌道を描いてボールがミットへと向かう。久保は反射的にバットを出し、芯で捉えた。カーンという快音が響いて、打球が右方向へと飛んでいく。
「なっ……!」
松澤は驚き、マスクを取った。僅かにタイミングが早く、打球は右方向へと切れていくファウルとなった。
「惜しいぞー!!」
「合ってる合ってるー!!」
盛り上がる大林高校のベンチとは対照的に、バッテリーは冷汗をかいた。第六球、八木はスプリットを投じたが久保はピクリとも反応しなかった。これでツーボールツーストライクとなり、バッテリーにも焦りが出てきた。
(まだ一球はボール球を使える。低めのスライダーでいくか)
松澤はここで、外角の高速スライダーを要求した。八木もそのサインに従い、第七球を投じる。久保はこれにも反応し、辛うじてバットの先でファウルにしてみせた。
「ファウルボール!!」
「オッケーオッケー!!」
「打てよー!!」
バッテリーは徐々に球種の選択肢を失っていく。なかなかサインが決まらず、八木は何度も首を振った。
(……結局、去年と同じか)
やがてある球種にサインが決まると、松澤は苦笑した。そして、彼は右手で胸を叩いた。強気で来いという、彼なりのメッセージだった。八木もそれに頷き、セットポジションに入った。
「久保先輩、お願いします!!」
八回裏に備えて投球練習をしていたリョウが、大きな声で叫んだ。ベンチのマネージャー二人に、じっと見守るエースの梅宮、四球でチャンスを広げた岩沢、ネクストバッターズサークルで待つ芦田。皆が久保を見つめ、声を枯らして応援していた。
(皆のためにも、絶対に打つ)
久保は改めて精神を集中させ、打席に立っていた。またも凌がれるか、それとも跳ね返すのか。エースと四番、二人のプライドがぶつかり合い、火花を散らしていた。
八木は足を上げ、体を始動させた。その指に意識を集中させ、白球を解き放つ。
「うぉらっ!!」
彼は声を上げ、左腕を振るった。ボールは唸りをあげて、松澤の構えたミットへと向かう。彼が投じていたのは、インハイへのストレート。今日最速の、最高のストレートだった。
(打つ!!!)
久保はスイングを開始した。カーブ、スプリット、そして高速スライダー。これらの変化球を見せられたあとに、インハイへの直球を投じられる。普通の打者であれば打ち取られる場面だが――彼は「大砲」なのだ。
彼は今日一番のスイングスピードで、一気にバットを振り抜いた。快音を響かせ、打球が右方向へと高く舞い上がる。美しい放物線を描き、観客全ての目を奪っていた。
「ッ……!!」
八木はその打球音を聞いた途端、自らの負けを確信した。打球を目で追うことすらせず、天を仰いだ。松澤はマスクを取り、ただ呆然と打球の飛んだ方を見ている。
久保はバットを放り投げると、右手を高く突き上げた。ゆっくりと、一塁へ向かって駆け出していく。打球はそのまま、ライトスタンド上段に突き刺さった。
「よっしゃあああ!!!」
「同点だー!!」
「ナイスバッティングー!!!」
スタジアム全体が揺れ、久保の同点弾を祝福していた。大林高校の応援団は狂喜乱舞で、泣いている者すらいる。ベンチも大騒ぎで、特にまなは感動で何も言えなくなっていた。
「すごい……本当に、すごいよ……!」
やがて、ただ呟くようにそう言った。グラウンドでは木尾と岩沢が相次いで本塁に帰り、久保を出迎えていた。二人は嬉しそうに久保の頭を叩き、祝福していた。
「よくやったな、久保ー!!」
「お前、やるじゃねえかー!!」
「ありがとうございます、先輩!!」
三対三となり、試合は振り出しに戻った。未だ歓声が鳴りやまない球場の中で、一人自英学院のベンチから久保を見つめる者がいた。そう、森山隆だ。
「……お前、やっぱり『怪物』だよ」
彼は静かにそう言うと、グラブを持ってブルペンへと向かった。八木を打ち砕き、一気に盛り上がる大林高校。このまま勝ち越しを決め、決勝進出を果たすことは出来るのか――




