第三十四話 恩義
久保が打ち取られたあと、五番の芦田と七番の中村が出塁してツーアウト一二塁とこの試合初のチャンスを作った。しかし得点とはならず、結局七回表も無得点に終わった。飄々と振舞う八木に対し、大林高校の選手たちの顔は冴えない。
「八木が打てねえな……」
「このままじゃ……」
不安な声を漏らす部員もいるなか、それを遮るように声を出す者がいた。
「まだ二回あるぞ!! しっかり守っていけよ!!」
主将の岩沢だった。チームを率いる立場として、率先して部員たちを鼓舞していたのだ。皆もそれを聞いてハッと前を向き、声を出した。
「よっしゃー!!」
「いくぞー!!」
まだ三点差で、二イニングもある。諦めるにはまだ早い、岩沢は皆にそう思ってほしかったのだ。
「岩沢先輩、やっぱり頼もしいですね」
「そうだね。キャプテンだし、皆を引っ張ってるよ」
去年の夏、彼は竜司から主将を引き継いだ。圧倒的な剛腕投手だった竜司に対し、彼は平均的な三塁手だ。それでも皆を背中で引っ張ろうと、必死に努力を重ねてきた。彼の存在は、大林高校にとってとても重要なものだった。
試合は七回裏へと突入していく。リョウは未だに自英学院の打者にヒットを許していない。この回は一番からの攻撃だったが、あっさりとツーアウトを取ってしまった。
「リョウ、ツーアウトだぞー!!」
三塁から、岩沢も声を出した。リョウはコクリと頷き、二本の指を突き立ててアウトカウントを確かめ合っていた。打順は三番の松澤へと回っていく。
「三番、キャッチャー、松澤くん」
「頼むぞ松澤-!!」
「打ってくれー!!」
松澤も岩沢と同じく、自英学院の主将である。強豪校としては、これ以上一年生投手にしてやられるわけにはいかない。その威信をかけて、打席に入っていた。
(この人は配球を読むんだったな。リョウとは相性が悪そうだ)
芦田は松澤の様子を見つつ、初球に何を投じるか考えていた。この打席がリョウと松澤の初対決である。芦田は何の球を待たれているかが分からず、不気味に感じていた。
(とりあえずアウトローだ。簡単には打たれん)
リョウはそのサインに頷き、セットポジションに入る。状況は二死走者なしだが、松澤には一発のリスクがある。彼も神経を使いながらマウンドに立っていた。そのまま小さく足を上げ、初球を投じる。
白球が外角低めいっぱいに決まった。審判の右手が上がり、ストライクとコールした。松澤は特に反応を見せず、自然に振舞っている。
(本当に分からんな。カーブ待ちではなさそうだが)
芦田がもう一球、同じコースに直球を要求した。リョウがその通りに投じると松澤はこれも見逃し、ノーボールツーストライクとなった。大林高校の応援団は、それを見て盛り上がっていた。
「よっしゃ追い込んだー!!」
「攻めろ平塚ー!!」
一方で、バッテリーは悩んでいた。このまま直球で押し切るべきか、それともカーブでタイミングを外すか。何度かサインを交換したのち、スローカーブに決まった。リョウは足を上げ、第三球を投げる。
ボールは弧を描いて山なりに本塁へと進む。コースはストライクゾーンに収まっており、松澤はしっかりとタイミングを合わせてカットした。打球が三塁側に転がっていく。審判が両手を挙げた。
「ファウルボール!!」
(この人、初見でカーブに合わせられるのか)
芦田は松澤の反応を見て驚いた。松澤は直球を二球も見せられたあとに、しっかりとカーブについてきた。彼は他の打者に対する芦田のリードを見て、ある程度配球を予想していたのだ。
(けど、この分なら内角の直球で刺せる)
スローカーブを見たあとなら、インコースにはついていけない。そう考えた芦田は、内角の真っすぐのサインを出した。リョウはそれに頷き、第四球を投げた。
(よし!)
芦田の構えた通り、綺麗な真っすぐが内角へと向かってくる。しかし、松澤は待ってましたとばかりにスイングを開始した。うまく肘をたたみ、左方向へと打ち返してみせた。
「ショート!!」
芦田は近藤に指示したが、それも虚しく打球は三遊間を抜けていった。これでレフト前ヒットとなり、リョウは初めて自英学院に安打を許すことになった。
「いいぞ松澤ー!!」
「ナイスバッティングー!!」
松澤は塁上で声援に応えていた。内野陣はリョウに声を掛け、気持ちを落ち着かせるように伝えていた。
「リョウ、引きずるなよ」
「次取ればいいからな」
「ハイ!!」
リョウは元気よく返事したが、次の打者は四番の八木だ。さっきは無死満塁で三球三振に倒れており、この打席に懸ける思いは強い。
(とりあえず低めで様子見だ)
芦田がサインを出すと、リョウが頷いた。八木は真剣な眼差しでリョウを見つめ、集中力を高めている。一塁の松澤も、塁上からプレッシャーをかけていた。そして、リョウはセットポジションから第一球を投じた。
低めのボール球だったが、八木はやや強引にすくいあげた。鈍い金属音とともに、打球が舞い上がる。
「センター!!」
芦田が大声で指示を出すと、中堅手の中村が前に突っ込んできた。しかし僅かに及ばず、打球はぽとりと落下してしまった。これでツーアウト一二塁となり、ピンチとなった。
「ナイバッチ八木ー!!」
「さすがー!!」
自英学院に勢いが生まれつつあり、球場の雰囲気もそちらに傾き始めた。それを察知したまなはタイムを取り、梅宮を伝令に送った。自英学院の応援団がその声援でプレッシャーを与えるなか、梅宮は落ち着かせるような声色で指示を伝えた。
「リョウ、しっかり低めを突いていけ。外野は前進守備だ」
「ハイ!!」
「塁は詰まってるし、内野は取れるところでアウトを取ろう」
「「おう!!」」
「じゃ、しまっていけよ!」
「「おうっ!!」」
まだ三点差だが、これが四点差、五点差となるとかなり厳しくなってしまう。次の失点を防ぐため、ナインは必死になって守っていた。
「落ち着けよ、リョウー!!」
岩沢も懸命に声を飛ばしていた。打席には、五番の川添が入っている。今日はノーヒットだが強打者であり、油断ならない相手だった。リョウは慎重に低めを突いていき、打者に的を絞らせない。ワンボールツーストライクと、しっかり追い込んだ。
(インローで勝負だ、リョウ)
芦田は内角低めに構えた。リョウもそれに同意し、セットポジションに入る。塁上のランナーは、二人して彼を睨むように見つめている。それでも構わず、リョウは第四球を投じた。打者も反応したが、ひっかけてしまった。内野ゴロが三塁方向へ飛んでいく。
「サード!!」
芦田がそう叫び、岩沢も捕球しようとする。しかし、その直前に打球がイレギュラーしてしまった。ボールは岩沢のグラブを弾き、転々と転がっていく。
「「あっ!!」」
ベンチでは、マネージャー二人が思わず声を出した。岩沢は慌てて打球を拾い上げたが、どこにも投げられない。これでツーアウト満塁となり、スコアボードの「E」のランプが灯っていた。
「リョウ、すまん!」
「今のは仕方ないですよ」
岩沢が声を掛けると、リョウは明るく返事した。しかし岩沢の気持ちは晴れず、どこか浮かない顔で三塁へと戻っていった。
(岩沢先輩、責任感強いもんな)
リョウはその気持ちを慮っていた。彼も、一年生投手の自分を信頼してくれている岩沢に対して恩義を感じていた。だからこそ、今のエラーについて自分のことのように心を痛めていた。
(リョウ、こういうときにカバーするのが投手の役目だぞ)
久保もレフトから、リョウに対してエールを送っていた。マウンドに立つ以上、投手は味方のミスをカバーしなくてはならない。たとえ一年生でも、その責任を負わなければならないのだ。
「リョウ、切り替えていけよ」
芦田の声かけに対し、リョウは大きく頷いた。打席には六番が入る。二年生だが、こちらも強打者だった。
(俺が、岩沢先輩の分まで)
ツーアウト満塁で、四球も与えられない場面。リョウは慎重に芦田のサインを見つめ、初球を投じた。ボールがアウトローいっぱいのコースを通過し、審判の右手が上がる。
「ストライク!!」
「オッケーオッケー!!」
「いいぞリョウー!!」
リョウはいつになく真剣な表情で、芦田からの返球を受け取った。打者は一度打席を外し、呼吸を整えていた。リョウは再びサインを交換すると、セットポジションから第二球を投げた。またも同じコースにぴったりと決まり、これでツーストライクとなった。
「リョウくん、すごい」
「はい、寸分の狂いもないです」
見事にアウトローに投げ込むリョウを見て、マネージャー二人も感心していた。塁上から、八木もその投球に唸っていた。
(あんな制球の良い投手、全国にもそういない。凄いのがいるもんだな)
芦田は直球のサインを出し、内角いっぱいに構えた。三球で勝負に行くつもりだった。リョウはそのサインを見て、セットポジションに入る。小さく足を上げ、その左腕を振るった。
(しまっ……)
打者は予想だにしないボールに戸惑い、手が出なかった。そのまま白球がミットに収まると、審判が右手を突き上げた。
「ストライク!!バッターアウト!!」
「おっしゃあああ!!」
リョウは雄叫びを上げ、喜びを表現していた。ベンチに戻ろうとすると、岩沢が横から現れた。
「リョウ、ありがとな」
「いえ、こちらこそ!!」
二人はグラブを合わせ、喜びを分かち合った。試合は八回表に入る。あと六個アウトを取られれば、大林高校は敗退してしまう。ナインは三点差を追い上げて決勝への望みを繋ぐことが出来るのか――




