第十八話 覚醒
ボールが柵越えした瞬間、球場中が大歓声に包まれた。松澤は表情を変えずにゆっくりと一塁を回る。三塁塁審が、人差し指を高く掲げてクルクルと回した。
「ホームラン!」
竜司は神林のサイン通り、内角に完璧なシュートを投じた。だが、松澤はまさにそれを狙っていた。他の打者と違い、松澤はシニア時代に久保とバッテリーを組んでいたのだ。久保のシュートについても、散々捕手として受けてきた。だから竜司のシュートも、決して見慣れぬ球種というわけではなかった。カウントに関わらず、シュートが来たら打つつもりだったのだ。
「ナイバッチ健太!!」
「ああ、狙い通りだ」
本塁に帰ってきた松澤を、八木が笑顔で出迎えた。六回にして、ホームランによる先制点。八木にとって、これ以上ない援護だった。
一方、竜司は膝に手をついてうなだれていた。失投でもない球を完璧にレフトスタンドに運ばれる。そのことは、投手にとって計り知れないほどの屈辱だった。
「竜司、悪い。俺の配球ミスだ」
神林は竜司に声を掛けた。平静を装ってはいたが、彼もまさかシュートを狙われているとは思わず、ショックを隠し切れていなかった。
ベンチにも、そのショックは伝わっていた。練習試合、一回戦とほぼ完璧な投球をしてきた竜司だが、ここに来て初めて打たれてしまった。相手が自英学院とはいえ、エースの被弾に部員たちは動揺していた。
これで二対〇だ。八木のピッチングを考えれば、大林高校には痛すぎる失点となった。すっかり部員たちは意気消沈していたが、それをかき消すようにまなが声を張り上げた。
「おにーちゃん、あと一点でも取られたら許さないからねー!!」
その声に、思わず竜司と神林が振り向いた。二人が戸惑っていると、まなはさらに続けた。
「取られたのは仕方ないでしょー!! さっさと立ち直りなさいよー!!!」
「お、おいまな」
久保は思わずまなに声を掛けた。まなは気にせず、二人に向かって声を張り上げている。すると、大林高校の応援席から拍手が巻き起こった。
「滝川ー、踏ん張れー!!」
「頑張って滝川くーん!!」
すっかり自英学院に傾いていた試合の流れを、まなは強引に引き戻してしまった。竜司は帽子を取り、スタンドに向かって礼をした。呆気にとられる久保に対し、まなが口を開いた。
「久保くん、勝ちに来たんでしょ? 落ち込んでる場合じゃないよ!」
その言葉を聞き、久保ははっとした。たしかに痛い失点だが、悔やんでも仕方ない。久保も再び大きな声を出し、竜司を盛り立てた。
竜司も落ち着きを取り戻し、マウンドへと向かった。深呼吸をすると、より一層真剣な表情に変わった。
「四番、ピッチャー、八木くん」
そして、四番の八木が左打席に入った。第二打席では四球を選んでいるが、ヒットはまだない。
「八木ー、続けよー!!」
「頼むぞー!!」
自英学院のベンチは、八木を盛り立てている。松澤の本塁打を機に、一気に竜司を打ち崩そうという作戦だ。試合は既に六回表であるから、追加点が入れば試合を決定づけることが出来る。何としても次の一点が欲しかったのだ。
「プレイ!!」
審判のコールで、試合が再開される。状況はワンアウトランナーなし。竜司は振りかぶって、第一球を投じた。指から放たれたボールが、風を切ってキャッチャーミットに向かっていく。
「えっ」
次の瞬間、思わず八木は声を漏らした。その直後、今までより大きな捕球音が響き渡った。
「ス、ストライク!!」
一気に球場がどよめいた。明らかに竜司のギアが上がったのだ。もともと威力のある直球が、さらに大きなエネルギーを持って神林のミットに突き刺さっていた。明らかに竜司の様子が変わったのを見て、久保はまなに話しかけた。
「おい、どういうことだよ」
「おにーちゃん、本気だね」
「い、今まで本気じゃなかったのかよ」
「もちろん、油断してたわけじゃないわ。けど、昔の怪我もあって力をセーブしてただけ」
「じゃあ、今の竜司さんは」
「これが本来の姿だよ。怪我をする前の、私が一番憧れていたおにーちゃん」
竜司は第二球を投じる。ど真ん中へのストレートだが、八木のバットはボールの下方をかすめていった。
「ストライク!!」
「ナイスボール!!」
「追い込んでるぞー!!」
竜司の剛腕っぷりを見て、大林高校の応援席が盛り上がった。松澤のホームランで自英学院側に傾いていた球場の雰囲気を、竜司が一気に変化させていく。
(コイツ、今まで力を抑えてたのか)
八木は打席のなかで悔しさを滲ませた。彼は大林高校に対して、本気を出して投球していた。竜司に対して互角だと思っていたのに、ここに来て秘めたる力を見せつけられたのだ。投手として、そのことを認めるわけにはいかなかった。
竜司はふうと息をつき、第三球を投じた。今度も直球だが、八木は意地で食らいついた。打球は三塁側に切れていき、ファウルボールとなった。
「ファール!!」
「粘っていけ八木ー!!」
「頑張れー!!」
本気を出してきた竜司に対し、自英学院の選手たちは気圧されそうになっていた。リードしているのは自分たちなのに、何故か追い詰められているような感覚だったのだ。
竜司は第四球を投げた。無我夢中で打ちに行った八木だったが、そのバットが白球を捉えることはなかった。ボールはベース手前でカクンと落ち、神林のミットに収まった。
「ストライク!! バッターアウト!!」
「ナイスピッチー!!」
「竜司さんナイスボール!!」
大林高校のベンチは沸いたが、八木はその場でしばらく止まっていた。
「クソッ!!」
そして大きな声を出し、ベンチに引き上げていった。今まで飄々とプレーしてきた八木だったが、初めて感情を露わにしていた。
竜司はその後、五番打者をショートゴロに打ち取った。松澤に本塁打を打たれたものの、結局崩れることなく六回表を投げ切ったのだった。
「竜司さん!!」
「おにーちゃんお疲れ様!!」
「ホームラン打たれてお疲れはないだろう、ハハハ」
竜司は苦笑いして、ベンチに戻ってきた。そしてキャプテンらしく、チームメイトを鼓舞した。
「お前ら、点取ってくれ!! 頼むぞ!!」
「「おう!!」」
エースの頼みとあって、皆大声で応えた。数段ギアを上げて本気で抑えていく竜司に対し、援護してやりたいという気持ちは全員に共通していた。
そして、六回裏の攻撃が始まった。八番九番と打ち取られてしまったものの、一番の松木が粘ってフルカウントとしている。そして八木が七球目を投じたが、アウトコースに大きく外れてボールとなった。
「ボール、フォア!!」
「ナイスセン松木ー!!」
「よくやったぞー!!」
松木を褒め称える声が飛ぶ一方で、マウンドの八木は足でマウンドをガツガツとならしていた。そもそも八木はあまり四球を出す投手ではない。さっきの竜司の投球に対し、焦りを隠せていなかったのだ。
「八木先輩、イライラしてるなんて珍しいな」
「さっき三振してたしね」
久保とまなはベンチでそんな会話を交わした。続いて、二番の寺北が打席に入った。八木はセットポジションから初球を投じた。寺北は積極的に打ちに行くが、ショートへのゴロとなった。
「ショート!!」
松澤が指示を出した。しかし、平凡なゴロだったのに遊撃手が弾いてしまった。
「走れ寺北ー!!」
ベンチから寺北に向かってそんな声が飛んだ。遊撃手は慌てて拾い直したが、どこにも投げられない。オールセーフになり、これでツーアウト一二塁だ。
「よっしゃー!!」
「ナイスラン寺北ー!!」
盛り上がる大林高校とは対照的に、自英学院の野手陣には動揺が広がっていた。
「すまん八木!!」
遊撃手が八木に声を掛けた。八木の焦りは、後ろを守る野手にも伝播していたのだ。試合の流れが悪くなっていると見て、自英学院は二度目の伝令を走らせた。守備陣がマウンドに集まり、監督の指示を聞いていた。
その時間を使って、まなも岡本に指示を出している。明らかに動揺している八木に対し、甘い球は積極的に打ちにいくようにと話していた。岡本はそれを聞き、気合いを入れて打席に向かった。
「三番、センター、岡本くん」
「頼むぞー!!」
「岡本頑張れー!!」
五回裏に引き続いてのチャンスに、部員たちも盛り上がる。一方で八木も少し冷静になり、落ち着いた様子でマウンドに立っていた。
「ここで一点でも返せたら、おにーちゃんも楽なんだけど」
「岡本先輩に託すしかない」
久保とまなが話すなか、八木がセットポジションから第一球を投げた。五回裏のときと変わらず、ストレートで入ってきた。
(来たッ!)
五回の攻防を見ていた岡本もそのことは承知だった。コースは外角。岡本は打ちにいくが、僅かに振り遅れてファウルとなった。
「ファール!!」
「八木いいぞー!!」
「踏ん張れー!!」
ファウルでカウントを取れたことで、八木は少し安心した。ふうと息をつき、返球を受け取った。続いて第二球を投じる。今度は内角への直球だ。岡本はこの球にも食らいついたが、今度はタイミングが早すぎて一塁線側へのファウルとなった。
「ファール!!」
「岡本先輩ドンマイ!!」
「粘っていこー!!」
早くもノーボールツーストライクと追い込まれてしまった。八木は第三球にチェンジアップを投じたが、コースが低かったため岡本は見逃した。
「岡本先輩、見えてるな」
「うん、もしかしたら打てるかも」
久保とまなは期待感を抱いた。自英学院同様、大林高校の打線も三巡目だ。徐々に目も慣れてきて、ボールに食らいつけるようになってきた。
八木はセットポジションから四球目を投じた。アウトコースへの速球だ。
(これだッ!!)
岡本が打ちに行くが、ボールはベース手前で鋭く軌道を変えた。八木が投じていたのは、高速スライダーだった。ボールはそのままバットの先っぽに当たり、高く舞い上がった。
「サード!!」
松澤が声を出した。岡本は悔しそうにバットを放り投げ、一塁へと走り出す。大林高校の部員たちが思わず「あ~」という声を出した。三塁手はしっかりと上を見上げ、落ち着いて捕球した。
「っしゃあ!!」
八木は思わず大声を出した。竜司の投球に対する焦りと悔しさから、この回はピンチを招いてしまった。それを無事に切り抜けたことに対する喜びが、思わずあふれ出てしまったのだ。
「ナイスピー、倫太郎!」
「ああ、よかったよ」
松澤も八木に声を掛けた。これでスコアは変わらず二対〇だ。自英学院がリードしているのには変わりないが、大林高校にはそれほどの悲壮感はなかった。
「仕方ないです、次の回に期待しましょう!!」
「おにーちゃん、点取られないでね!!」
「おう、任せろ!! お前ら、いくぞお!!」
「「おおーっ!!」」
久保とまなが竜司を励まし、そして竜司が部員たちを鼓舞する。松澤に本塁打を食らったことで、かえって大林高校には活気が生まれていた。何としても点を取って竜司を助けてやろう……という目標を共有することで、全員が団結していたのだ。
そして試合は、運命の終盤へと差し掛かっていく――




