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世界が爆発した。
文字通り、ではない。しかし他にどう表現すればいいのか。
すさまじい衝撃が身体を突き抜け、地面が消失し、何もかもがめちゃくちゃにかきまわされた。聞こえるのは耳鳴りと風の音、目に映るのは――
(――そら、を――?)
飛んでいる。
いや、飛ばされている。
はるか遠くに花火の光と提灯行列の明かりが見えた、かもしれない。
そうなる直前、兄がよくわからないことを言いながら、こちらを蹴り上げる動作をとった、ような気もする。
だがそんなわけがない。
仮にダンプに撥ねられたとして、人一人、飛ばされるのは数メートルがせいぜいだ。なのにこんな、空と呼べるほどの高さまで人力だけで蹴っ飛ばすなんて、できるわけがない。よしんばそれが可能だったとしても、された方がこうして生きていられるはずがない。そもそもあの兄が自分に暴力をふるうなんてことがまずありえない。
だからきっとこんなのは、何かの。
(――ちがう――)
そして二度目の衝撃が来た。
今度はなんだと思うと同時に、地面に落着したのだと理解していた。
「ぅ、あ……」
声が出ない。やはり大して痛くはないが、ショックのせいか麻痺したように身体が上手く動かせない。周囲からは悲鳴やうめき声が、膜一枚を隔てたような曖昧さで聞こえてきている。
目がチカチカする。
それでもどうにか、何度か瞬きをして、見た。
めちゃくちゃだった。
どうやら出店の列に突っ込んだらしい。横倒しになった視界の中で、鉄パイプや木材、テントの布、食べ物に出し物。残骸となったそれらが散乱し、火の手まで上がっている。石畳にはひびまで入っている。
やはりありえない。
辺りはこんな爆撃跡みたいになっているのに、撃ち込まれた砲弾にあたる自分がこうして生きているなんて、どう考えてもおかしいじゃないか。
それになんだか、景色が青い。まるで水の中から眺めているように、目に見える全てが青く揺らめいていて……水の中?
何かが引っかかった。
そういえば前にもこんなことがあったような。
死ぬはずの状況で生かされたことが、前にも。
「【――優芽!!】」
「……ぅ……?」
何か、聞こえた。
憤怒と焦燥と、そしてこちらを案じる優しさに満ちたこの声は。
兄――ではなく。
「――……ス、イさま……」
「【そうだ! ワシだ! しっかりしろ、ユメ!】」
「あ――」
我に返った。
まだ少しふらつく頭を押さえて身を起こす。そこにいたのは竜だった。
竜。
ヘビのように長大な胴体に、鋭い爪の生えた手足。シカのような枝角。ワニやシェパードにも似た長い顔。鼻先から伸びる長いひげ。そして瞳に宿る確かな知性。身体を覆ううろこは青く、透き通っている。
青く見えた光景は彼を透かして見ていたせいらしい。
彼。
二年前、あの嵐の日に川に落ちたユメを助けてくれたひと。
その川自身、あるいは化身。御名駿庇穂主。伝承に語られる竜神そのものであり、そしていつかユメがその身を捧げるべき相手。
手が無意識に頭に伸びるが。いつもつけている青い髪留めの手触りが、その場所から消えていた。おそらくは、永遠に。
なぜ、いま。ここに。
いや、彼が守ってくれたからこそ、ユメはこうして――守る? 何から?
「【怪我はないな。ではワシに掴まれ】」
「え?」
「【早うせい! やつが来る!】」
ヤツ、って。
「なんだこりゃ。竜?」
そこに聞こえてきた、声。
慣れ親しんだその声に、ユメは安堵を覚えてしまった。視線をめぐらし、目に留める。
「兄さ……」
しかし伸ばしかけた手は彼の尾に阻まれた。
何を、と視線で問うも、彼もまた兄を見て注意を向けていた。
いや、睨んで、敵意を向けていた。
「死んじゃいねぇとは思ったが……こう来るか?」
「【小僧! きさま、何のつもりだ!】」
「しゃべんのかよ」
対する兄は怯むこともなく、言いながら足元に転がっていた鉄パイプを器用に蹴り上げて手に収める。
「東洋竜なぁ。見たことねぇが、ま、どうせ水属性だろ」
そして信じられないことをつぶやく。
竜が怒りに目を向いた。
「【きさま……ワシを忘れたとぬかすか! このミナハヤノヒスイヌシを!】」
「知るかよ。要はそいつの護衛ってことだろ」
キン、と澄んだ音が響いた。ガラスを打ち合わせたような。
いつの間にかそばまで来ていた兄が、鉄パイプで竜を殴りつけた音だった。
「スイさま……!!」
安否を問う声は、彼自身に遮られる。
「【きさまァ!! 今、ユメを狙いおったな!】」
「ちっ。固てぇな」
「【答えぬか!】」
怒りに任せるように腕を払い、鉄パイプを弾く。
兄はその勢いに逆らわず、飛び退って着地した。そしてなぜかパイプを前から後ろに、地面を掻くような軌道で振り抜く。
ぎゃあ、と悲鳴が上がる。
「え?」
目を向けると、見知らぬ男性が手を押さえてしゃがみ込んでいた。足元にはスマホが落ちている。
……あの人が撮影しようとしたのを、小石か何かを飛ばして兄が阻止した。見えたわけではないが、そんな結果の光景に思えた。
「……異常はなし、か? 遅効性だったらアウトだが……」
しかし当の本人はというと、手を握ったり開いたり、肩ごしに背中を覗いてみたりと、身体の調子を確かめるような仕草。
違和感。
まるでスマホを向けられた意味を理解していないかのような。
兄は確かにゲーム以外の機械全般を苦手としているが、そこまで常識知らずではなかったはずだ。
「スイさま……」
「【ああ、あの機械のことならワシでさえ知っておる。何かおかしいぞ、あやつ】」
竜、スイはいぶかしげに目を細めた。
「『スイ』、なぁ。翡翠川の化身でスイって、完全に千と千尋のパクリじゃねぇか。ま、おかげで設定はだいたいわかったけどな」
「【小僧、きさまは何なのだ。今の礫もそうだが、先ほどの剛力に縮地術、どこでそれだけの力を手に入れた?】」
「あ? 敵に情報を渡す馬鹿がいるかよ」
「【敵。敵か……】」
その表情が再び憤怒に染まる。
「【答えてもらうぞ! 先ほどきさまはワシをユメの護衛などと呼んだが、それはきさまの役目であったはずであろう! それが何故ユメを害そうなどとする! このワシを敵に回してまで!】」
「っせぇなぁ」
隣で聞いているだけのユメでも竦み上がるほどの怒気を当てられて、しかし兄は平然としている。パイプを肩に担いだ格好で、面倒くさそうにタメ息をつく。
「別に俺はお前らとこれ以上話すつもりとかねぇんだわ。しゃべってんのは、術の構築に邪魔な思考を捨てるために垂れ流してるだけでな、要は戦うときの俺の癖だ」
「【術だと? なんの……――!】
言葉の途中で息を呑むスイ。
ユメも同じ思いだった。
兄のそばに何かが浮いている。何かというか、火の玉にしか見えないものが。それも複数。
三つ、四つと増え続けて、最終的には八つになった。
「【鬼火!?】」
スイの叫びに応えるかのように飛来する火の玉。速い。
彼が舌打ちを一つすると、二人の身体をすっぽり覆う水の膜が現れた。迫る火の玉はこれにぶつかり、消滅する。
――キンッ
ほっとする間もなく、再び響く高音。ユメのすぐ近く、ほとんど耳元だ。
振り向くと、まさに目と鼻の先、熱されたように赤く仄光る鉄パイプが、水の膜に遮られて蒸気を上げていた。
「ひっ」
「うーん、まだ足んねぇか」
つぶやかれる言葉には優しさのかけらもなく。代わりに冷たく突き刺すような何かに満ちていて、これが殺意というものなのかと、混乱する頭の片隅でユメは思った。
「【あくまでユメを狙うか……】」
忌々しげにスイがうめく。
そして初めて兄妹以外の人々、その場にいた野次馬たちに向けて声を張り上げた。
「【皆の者! こやつは鬼だ! 今すぐ逃げろ!】」
彼らは一瞬、一様に身を震わせて動きを止めた。特にシルエットや色合いが異様な妖怪と思しき者たちは大慌てで平伏し、すぐに言われた通り逃げ出した。
短い騒乱のひとときを経て屋台通りは静寂に包まれる。
通常、神たる竜は民衆に直接何かを命じたりはしない。今の言葉を告げるのは、仮にも巫女であるユメの役目だったのに。
「あの、鬼って……」
「【わからぬ。だが、あやつのあの有様、何かに取り憑かれておると考えるべきであろう】」
「そんな……」
スイは大きく息を吐き、兄を見据える目に力を込めた。
「【少しばかり手荒になるぞ。許せよ、ユメ】」
「で、でも」
「【安心せい。殺しはせぬ】」
「そりゃ助かる」
まただ。またあの見えない移動。
そして攻撃。さっきまでとは少し違う。鉄パイプを、叩きつけるのではなく槍のように突き出してきている。その接触面を中心として、スイの張った膜、おそらくは水の障壁が同心円状に激しく脈打っている。
「【ぬうっ……!】」
「お? これならいけるか?」
「【小賢しい!】」
もちろん、それを座視するスイではない。
ユメを軸に渦を巻くように旋回し、勢いで兄を弾き飛ばした。先ほどのように危うげなく着地――したところに、追撃。
意趣返しのつもりか、兄の放った火の玉、鬼火と同じ八つの水の玉が高速で迫り、
「……」
「【ちぃっ!】」
ぶつかる直前で逸れ、あさっての方向の飛んで消えた。
ユメには焦る暇も安堵する暇もなかった。
「へぇ、マジで殺すつもりはねぇのな」
「【悪辣な!】」
笑う兄と唸るスイ。
ユメはどうすればいいのかわからない。
そもそもなぜこのような状況になっているのかも完全には理解できていない。何か悪いものが取り憑いているとスイは言った。仮にも竜神の言うことだ、間違ってはいないのだろう。
なぜ、何に。
そういったことも気になるが、何より気にかかるのが、いつ、という点だ。
「【ならばこれでどうだ!】」
「触手かよ、エロ竜が」
触手というか、水でできたヘビだった。
少なくとも十体以上。手足に絡みつこうと迫るそれらを、兄は鉄パイプや例の鬼火、そして超人的な体さばきでかわしていく。隙を見て反撃もしてくる。
両者の動きは常軌を逸するほど速く、あっという間にユメでは目で追うこともできなくなる。
見ていることしか――いや、それすらできない。
焦れる思いに耐えること数分、二人が不意に動きを止めた。
「ちっ。まぁ持った方か」
見れば兄の手に握られていたパイプが半分ほどの短さになっていた。スイが折った、ということだろう。
「【痴れ者が。そのような棒切れでワシに挑もうという時点でそもそも正気ではないというのだ】」
得意げというふうでもなく、至極当然のこととしてスイは言う。
「【もっとも、いかな名刀を手にしたところで意味などないがな。人の身でこのワシを斬ることなどできるものかよ】」
それはそうだろう。彼は、今はこうして生き物としての姿を取ってはいるものの、その実態はあくまで川なのだ。斬れるわけがない。
水の流れに刃物を突き入れることは、なるほど確かにできるだろう。
だがそれで『川を斬った』ことになるかというと、断じて否だ。
あるいは重機を駆使して多くの人手と時間を投入すれば人間にも不可能な仕事ではないが、この場で一人でとなると、どう考えても不可能だ。
そのはず、なのだ。
なのにあの余裕はなんだろう。
武器を折られてもなお変わらないふてぶてしさの根拠は、何なのだろう。
「まぁいいや。日が出てなきゃ威力は落ちるが」
言いながら、短くなった鉄パイプをさらに半分に切り――どうやって?
素手なのに? ひびでも入っていた? それにしたって。
スイも目を見開いた。ユメたちが混乱しているうちに、兄は両手に光の剣……そうとしか呼びようのないものを出現させていた。
一見蛍光灯のようにも見える光の棒、映画やマンガではよく見るようなそれらが、左右の手にそれぞれ握ったパイプの断片から伸びている。
「【なんなのだ、それは……!?】」
「わかんねぇか? なら試しに斬られてみろよ」
「待って! 兄さん!」
わからない。
何もかもがわからない。
が、なんであれ、兄がまだ続ける気であることだけは確かなようだ。
ならば止めなくては。
他ならぬ、妹である自分が。
「……はぁ? なにお前、まだそんな茶番続ける気かよ」
しかし帰ってきたのはそんな心底呆れたような声だけだ。
スイのひげが腕を撫でてくる。
「【無駄だ、ユメ。さっき独り言が聞こえたが、あやつはどうやらお前のことを偽物と思い込んでおる。何を言っても聞く耳持たんだろうよ】」
「そんな……!」
なんだ、それは。
なぜそんなことに。
いったい兄たちに何が起きたというのだ。
「【安心せい。ワシが――】」
「待って! ――兄さん、一つだけ答えてください! ノゾミお姉ちゃんはどうしたんですか!?」
「さぁな。どっかで元気にやってんじゃね?」
「……っ!!」
渾身の問いも雑に流された。
それよりもなおショックだったのが、ノゾミの名前に反応らしい反応がまるでなかったことだ。眉一つ動かさず、こちらを見もしない。
理解できた。
腑に落ちた。
あれは。目の前にいるあの相手は、違うのだと。
佐野口カイではないのだと。
「……スイさま、お願いします」
「【ああ】」
「兄さんを、助けて……!」
「【ああ、任せよ!】