表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

遠回りして、たどりつく

作者: 笹夢まさき

 以前の自分について語れとは言われれば、僕は黙って曖昧に微笑むしかない。

 なにもない人生だった。

 孤独に生き、孤独に死んだ。それだけだ。

 だから、歩道に突っ込んできた車を正面に見たときも、別段なにも思わなかった。

 しばらくなにも聞こえない時間があったけど、そこでも考えることはできた。ああ、よかった、とすら思ったんだ。やっと終わったか、と。

 運転手を責める気持ちは湧いてこなかった。彼か彼女、がどんな人間かももう知りようがないし、そのときの精神状態とか健康状態とかにしても同じ。普通じゃなかったのかもしれない。

 まあでも、それは僕一人に関しての話。ほかにも巻き込まれた人はいたはずだ。彼らに関しては甘んじて責を負うべきだ。未来のある人もいただろう。僕なんかと違って。

 最初は夢を見ているのか、もしくは天国のひとつかとも思った。だって、あの世もひとつの国としてまとまってるかなんてわからないから。現世みたいにいくつもの国々に分断されている可能性だってある。だから、そのうちのひとつかと。

 でも、まず考えられるのは昏睡状態の僕が見ている夢という可能性。これにはすぐに違和感を覚えた。とにかくリアルだったんだ。ぜんぶ、なにもかもが。慎重な僕はそれでもしばらくは夢である可能性を捨てきれなかったけれど、やがて考えを改めた。これが夢なら、以前の人生だって夢だ。以前の人生が現実なら、これも現実と変わらない。





 休む間もなく、第二の生がはじまった。

 自分で言うのもなんだけど、今回の僕は可愛らしい容姿に生まれた。

 成長するにつれ、目鼻立ちはさらに整っていく。十代後半には、モデルみたいな見た目になった。

 言葉も意外と簡単に覚えられたし、貴族としての教養やその他もろもろの知識もすんなりと吸収されていく。家庭教師の先生も驚いてたし、僕自身も驚いていた。一度見たものを忘れない。記憶したものは瞬時に引き出せる。以前の生と比べると、同じ人間とは思えない。圧倒的なスペックだった。

 高い身長。ヒールを履いた女性たちにも見上げられる。その表情といったら、まったく……。女性というものは、こんなにも感情が表に出るものだっただろうか。上品な仕草で口元を隠してみても、視線だけで好意をもたれてることが伝わってくる。

 一人や二人だったら、嬉しすぎて舞い踊っていたかも。それが五人、六人ともなると、もしかしたら僕をからかってるのかな、ってちょっと不安になる。でも、会う人会う人のほとんどがそんな感じだと、僕もいつの間にか当たり前のこととして受け入れるようになっていた。この生の僕はモテる。めちゃくちゃに。反面、男性たちからは反感を買うことも多かったけれど。





 その人とは晩餐会の会場で出会った。そう、晩餐会だ。以前の僕にはなんの縁もなかった場所。きらびやかな会場、豪華な食事、着飾った面々、窮屈な所作。控えめに言ってろくなもんじゃない。

 ご婦人方が僕を取り囲む。なにかと理由をつけてその輪を抜け出しても、またべつの女性たちに囲まれる。僕は人気者だった。正しく言うならば『現在の僕』は、だ。能天気に考えるなら、僕はいまのこの状況をエンジョイしたっていいのだろう。文句を言う人はいない。僕は生まれたときからこの体の主だったわけで、他人の身分を奪ったわけではない。この第二の生を得てから二十五年。決して短くはない時を過ごした。

 でも、僕はいまだに以前の僕を忘れてはいなかった。胸に宿る原風景は、真っ赤な絨毯と高い天井に吊るされたシャンデリアではなく、焼けた茶色い畳と紐で引っ張って点ける豆電球のままだ。だから、僕はまだどこかで仮初めの人生を生きているような気がしていた。





 壁を背にして立つ一人の女性に目がいった。彼女に話しかけようとする人はいない。彼女の周りだけぽっかりと空間が空いていた。彼女は一人だけ、仮面をつけていた。

 僕は彼女と目が合った。いや、それは気のせいだったかもしれないけれど。仮面のせいで、この距離からでは目の動きもわからないから。

 僕は気がつくと、彼女の方へ一歩を踏み出していた。誰かが手を掴んで僕を止めようとしたけれど、それよりも僕は早かった。「楽しんでいますか?」僕は彼女に声をかけた。

 いつの間にか堂に入ったセリフと微笑み方。仮面の奥で彼女の表情が歪んだようだった。あきらかに楽しんでいないであろう人にこんなセリフ。嫌味な奴だと思われたかもしれない。





 嫌な男だと思った。わたしがこんなに近寄るなオーラを出してるっていうのに……。どんだけ鈍いの? それとも、わざと?

 みんな、わたしが嫌がると知っていてパーティーへ誘ってくる。姉妹たちにしても、お母様にしても。……お母様? ふん! そう呼ぶのが癖になっているだけ。うやまう感情なんてこれっぽっちもない。ただ、わたしをその股の間からひりだしたというだけの存在。

 姉妹連中にしてもそう。なんの親しみももっていない。小さい頃は最悪だった。無邪気にわたしの仮面をはぎ取ろうとしてくる。抵抗したらムキになって、奪い取るまで諦めない。ほかの姉妹同士は協力して、わたしを羽交い締めしたりなんかする。仮面をとったらとったで、悲鳴をあげて投げ捨てる。あらわになったわたしの姿を遠巻きに見て、ひそひそとなにかを話す。その眉は同情しているかのように下がっているけれど、反対に口角は上がっている。あいつらは楽しんでいた。「なんで、あんなのと血がつながってるの?」と、姉妹たちはことあるごとに親へたずねていた。ときにはわたしにも聞こえるような声で、ときにはわたしがドアの外にいることも知らずに本気で。……なんで? わたしの方がききたかった。なんで、こんなやつらと血がつながってるわけ?

 もっと心優しい両親のもとに生まれていたら。たまにそう願う夜もあった。でも、すぐに思い直して自嘲気味に笑う。子供がこんな顔に生まれたら、どんな親でも同じような態度をとるだろう。わたしだって、きっとそうだ。自らの手で絞め殺さないだけマシといえた。





「すこし外の空気を吸いませんか」と彼は言った。その声からはなんの思惑も読み取れなかった。わたしの存在に特段の興味――とても風変わりな――があるわけでもなく、なにかの余興としてあとから笑い話にしてやろうといった企みも感じない。彼はごく自然体にわたしに接していた。

 彼の目はわたしだけを見ていた。でも、わたしは周りが気になってそっと目をそらした。周囲の視線がわたしたちに集まっていた。好奇と戸惑いが混ざっている。貴族特有の含み笑いは聞こえてこない。だから、これは彼が自分の意志でわたしに話しかけている――本当にそうかもしれないとわたしも思い始めていた。

 彼が手を差し出す。わたしはいつの間にかその手をとっていた。





 バルコニーで二人きり。

 彼との話は楽しかった。なんてことない話題。そのはずなのに、なぜか心地いい。

 彼の価値観はどこか懐かしさを覚えるものだった。なんでかはわからない。こんな世界でなにもかもを持って生まれたというのに、どこか庶民じみているというか。そんな言動がところどころから漏れ出る。出自にも容姿にも恵まれているから、当然数え切れないくらい女とは遊んでいるはずなのに、微妙に不慣れなところがのぞく。洗練しきっていないところが新鮮に感じられた。

……いけない。わたしは自分を戒める。

 まどろっこしい駆け引きはやめようと思った。彼が前を見ているときに、わたしは仮面をはずした。予告も前触れもなく。彼がわたしの方を見る。その目が驚きで見開かれた。「なにかのご病気ですか?」しばらくしてやっと放たれた彼の言葉は、ひどく間が抜けて聞こえた。

 いままででも言い寄ってきた男はいた。醜い顔であることは知れ渡っていても、普段は仮面で隠されている。どれほどのものなのか、実際に目にするまでは知らない。なにより名家の令嬢なのだ。貰い手がいないのなら狙い目、とばかりに下心丸出しで寄ってくる男共もそれなりの数いた。しかし、彼らもわたしの素顔を目にすると途端にしどろもどろになった。適当に言い訳し、そそくさとわたしの前から去っていく。逆にわたしを罵倒する者さえもいた。俺の貴重な時間をとらせやがって、と。去っていった男たちは、二度とわたしの前に姿を見せることはなかった。

 でも、いま目の前にいる彼は違った。質問を投げかけてきたあと、わたしの答えをじっと待っている。立ち去る気配はない。わたしのこの顔に狼狽しながらも、失礼にあたらないようじっと目を見つめてくる。そこまで待たれたら、わたしもなにか答えなくてはという気持ちになってくる。生まれたときから、原因不明で医者にもわからず、などとぽつりぽつり言葉を返した。わたしとしてもこのあとの展開なんて考えていなかったから。初めてだった、素顔を見せたあとに続きがあるのは。





 仕事の関係で知り合った男、彼からある話を聞いた。どんな病も治るという魔女の作る薬のことを。僕は酒の席での話と笑って聞いたいたけれど、彼は至って真剣だった。実際、彼の友人が魔女に薬を作ってもらったらしい。母親が重い病気を患っていたらしいのだ。結果、どうなったか。なんと、その母親は嘘みたいによくなったのだ。魔女の作った薬を飲んだだけで。だけど、息子の方は……。母親に薬を届けたあと、誰にもなにもいわず町を去ったらしい。魔女は薬の代償を求めるという。彼が母親を助ける代わりに魔女からなにを求められたのか、男も知らないという。だから、男は魔女のいる場所を知っているのだけど、自分が利用することはないだろうと話した。

 僕はしつこくねだり、その場所を教えてもらった。絶対に行かないことを約束して。





 三日後、僕は魔女の家を訪ねていた。魔女の住む家は、森の奥深くにあった。魔女は快く僕を迎え入れてくれた。魔女との交渉にあたっても僕は恐れはなかった。以前の記憶をもっているがゆえ、死に対する恐怖がないからか、あとは今生の自分に多大な自信をもっているからか。

 僕は魔女に彼女のことを話した。原因不明の病によって顔がただれている女性のことを。とはいえ、僕に話せるような情報はほぼなかった。そもそも病名なんてないし、詳しく情報を伝えられるような知識も僕にはない。画家に頼んで書いてもらった絵を用意するのが精一杯だった。これも彼女を呼んでモデルになってもらったわけじゃない。素顔を晒してそれを絵にされるのを彼女が嫌がらないわけがない。だから、僕がなんとか時間をかけて口頭で表現したものを画家に描き起こしてもらったのだ。僕が持参した絵を魔女はちらりとしか見なかった。「この症状は知っている」と魔女はあっさり言ってのけた。

 薬を用意してやってもいい、と魔女は続けた。だがしかし、と条件をつける。ここまでは予定通りの展開だった。僕はそれなりの覚悟を決めてここへ来ていたのだ。魔女の言った条件、それは「報酬におまえの美をもらう」だった。

 僕は拍子抜けした。……ああ、そんなものでいいのか、と。

 確かに以前の記憶がなかったのなら、ものすごいショックを受けていただろう。いまの自分の顔がすべてだと思っているから。でも、僕はいまのこの顔が借り物だと知っている。父と母から、さらにその先祖から、もっといえば大地からの。しばらくの間、何十年間かの仮宿。ときが来れば、また大地に返すだけ。僕はもともとこんなにかっこいい顔じゃなかった。それがもとに戻るだけだ。

 僕は了承した。とくに迷うこともなく。うなずいた魔女は「これを飲みな」とコップを渡してくる。中身は得体の知れない液体。一気に飲み干すと、がっと体が熱くなって、それからすぐに眠気が来た。起きると、だいぶ時間が経ったような感覚があった。「もうできてるよ」と魔女は机の上の小瓶を指差した。それから僕に手鏡を渡してくる。映ったのは、それはもうひどい顔だった。彼女とは違った種類の醜さがある。紫色のイボが顔中を埋め尽くしていた。自分で笑っちゃうくらいだった。なにもここまでしなくても、と逆におかしかった。魔女っていうのも、すがすがしいくらいに嫌なヤツだ。

 前の人生でわかったことがある。あんな人生でも、学べることが少しはあった。いや、あんな人生だからこそ身に沁みてわかることがあった。自分のためだけに生きる人生は、わりと退屈だ。気楽ではあるのだけど、どこか物足りない。

 この想いが一方通行でもいい。僕は彼女に期待していない。これはただの自己満足だ。僕は僕のやりたいようにやるだけ。僕は進んで彼女の犠牲になる。彼女の代わりに不幸を背負い込んだ自分に、僕は酔いしれる。大丈夫、自覚してる。彼女からの感謝も、誰からの称賛もいらない。今度死ぬときは、自分に自分で「よくやった」と親指を立てたいだけ。ほかにはなにもいらない。





 僕はすぐに彼女に会えるよう算段をつけた。薬だけ人づてに送ってもよかったけれど、それはやっぱり怖い。なんたって、薬はこの小瓶ひとつしかないのだ。途中で割れてしまったし、または紛失したりなんてしたら、僕がなんのために魔女の家にお願いしに行ったのかわからなくなる。

 僕は顔に包帯を巻いて出かけた。これなら、怪我をしたと言ってごまかせるから。ずっとこのままだといずれはバレるだろうけど、とりあえずのところは大丈夫だ。彼女は僕の顔を見るなり心配してくれたけれど、大したことないからと言って本題に移った。「これは、あなたの病を治す薬です」僕は小瓶を彼女の前に出した。彼女は僕がからかっていると思ったのだろう。不快そうな顔をした。実際、「不快です」と言葉に出した。無理もない、と僕は思った。彼女も幼い頃はずっと、あらゆる医者に相談してまわったのだから。それでも無理だとわかると、彼女の両親はもう彼女を見るのをやめた。文字通り、いないものとして扱うようになった。

 信じる信じないはあなたに任せます、と僕は言った。精一杯の誠意を込めて。彼女は戸惑っているようだった。僕がからかっているわけじゃないことは伝わったようだ。僕はなかば押し付けるように小瓶を彼女に渡し、その場を退去した。





 わたしは結局、その小瓶の中身を飲んだ。彼の話を信じたわけじゃない。彼の目は真剣だった。でも、あんなお人好しだから。本気で治療法を探してくれたのだろうけど、結果高い金で偽物を掴まされたと。きっと、そういう顛末。

 彼は顔に大怪我をしたみたい。もしかしたら、この薬とやらを手に入れるために……? 考えすぎかも。だけど、わたしのことをあれからも気にかけていてくれたのは事実。だから、これで彼の気が済むなら、とわたしは小瓶に入った液体を飲み干した。苦いような、甘いような、不思議な味がした。それからなにかが起きるのを待ったけれど、べつになにも変化はなかった。

……やっぱりね。期待なんてしてなかった。でも、でもでもでも……!

 翌朝目が覚めると、なにかが変わっていることに気づいた。起きたら、まず顔を洗いに行く。顔を洗ったら、すぐに仮面をつけなくちゃいけないから。鏡を見た。最初、わたし以外の誰かがいる、って驚いてしまった。でも、ふりかえっても誰もいない。部屋にはわたし一人。心臓がどきどきしていた。わたしはゆっくりと鏡の方に向き直った。すぐには信じられなかった。わたしの心情を表すように顔を歪ませた人物。ヘンな表情をしているけれど、それでも補って余りあるほど美しい。わたしは自分の頬を自分の手で触った。もう十何年としていないその仕草を、いままた、したのだ。鏡の中の人物はわたしの動作をなぞる。指先の震えさえも再現していた。

……間違いない、これはわたしだった。なめらかな肌の感触。わたしは、わたしの顔を初めて見た。わたしの本当の顔を。慌てたメイドが部屋に飛び込んでくる。わたしは知らず識らずのうちに声をあげていたらしい。メイドがわたしの顔に気づく。彼女も負けじと大声で叫んだ。





 その日を境にわたしの暮らしは一変した。両親はわたしを愛するようになり、姉妹たちはわたしに嫉妬するようになった。それから、貴族の男たちからの求婚が激増した。現金なものだと思う。でも、わたしにも気持ちはわかった。こんなにも美しい顔はありえない。わたし以外の女がどんなに着飾っても、本物の美のまえにはかすむだけ。男たちの話に気の利いた返しをする必要はない。愛想笑いすら必要なかった。ただ、そこに立っているだけで周囲の視線を独占する。

 正直に言うと、悪い気はしていなかった。いままでひどい扱いをされてきた分、これは正当な報酬のように思っていた。女たちの嫉妬も心地よかったし、男たちの掌返しは可愛くすらあった。

 だけど、すぐに虚しさにも気づいた。わたしはなにも変わっていない。顔以外は。でも、なんでそんなにチヤホヤするの? 「おもしろい人だ」なんて、する話はなにも変わっていないのに。猫を撫でているだけで「やさしい人だ」なんて。この子はずっとまえから飼っているのに。

 みんな表面的にしかわたしを見ていない。最初はそれでもよかった。ほんのすこしのあいだだけは……。でも、すぐに物足りなくなった。わたしの本来の顔がこれだったとして、まだ馴染んでいるわけじゃない。鏡を見るたびに、ソワソワと落ち着かない気分になる。

……これが自分の顔? まだ夢を見ているみたい。または、ひとときの魔法のような。意地悪な魔女が杖を一振りしたら、すぐに取り上げられてしまう。そんな儚さ。わたしの病は一晩で治った。なら、また一晩で再発しない道理はないだろう。朝起きたら、まず鏡のまえへ直行する。そしてホッとする。よかった、まだ魔法は解けていないんだと。いえ、そろそろ認めてもいいのかも。これが現実。わたしの新しい日常はもう始まっている。

 彼のことを忘れたわけじゃなかった。わたしは彼がまた会いに来るのを待っていたし、こちらから連絡をとろうともした。でも、彼は会いに来てはくれない。心変わりをしてしまったのだろうか。でも、わたしのために薬を探してくれたのに。治ったことも伝えた。でも、彼は「よかったですね」と言伝を預けるだけで、直接わたしの顔を見に来ることはなかった。





 彼女が僕に会いたがっているのは知っていた。それは嬉しかった。彼女の噂は聞いていた。病が治った彼女は、とても美しい素顔をもっていたらしい。以前とは打って変わって、男性たちからの求婚も止まらないのだとか。

 一方、僕は片時も顔に巻いた包帯をはずせないでいた。あの選択に後悔しているわけじゃない。でも、こんな顔を見せれば周りのみんなは反応に困るはずだから。僕はずっと傷の跡を言い訳に包帯で顔を隠し続けた。最初は心配してくれていた女性の方々も、少しずつ僕から離れていった。中身はなにも変わってないとはいえ、僕の人気はやはり容姿込みのものだったらしい。

……いや、離れていった女性の数を考えれば、僕の価値の比重はだいぶ容姿に偏っていたのかもしれない。僕の中身だけでは誰も引き留めることはできなかった。以前の人生が僕の頭をよぎった。以前の僕は自分の不幸を容姿のせいにしていた。テレビの中のあの人みたいにカッコよければ、きっと違う人生が待っているはずだと思っていた。スタートラインにさえ立たせてもらえれば、きっと中身も評価してもらえるはずだと。この人生では望み通りカッコよく生まれ、僕は大勢の人に囲まれた。自分の中身を知ってもらえる機会はたくさんあった。僕の内面もみんなに知ってもらえたはずだった。

……でも、結果はどうだ? 結局みんなは去っていった。顔が包帯で見えなくなっただけで。僕は自分を伝えきれなかったのだろうか。それとも、みんなが僕の中身なんかには興味がなかった? ……いや、認めるべきだろう。そもそも、僕という存在はその程度のものだったと。





 僕が仕事から家に戻ると、執事が来客を伝えてきた。応接室にいたのは彼女だ。僕はとっさに逃げようかと思った。大人げもなく。そうしたくなる心を必死に押し留め、彼女の対応をする。彼女の美しさは、直視するのもはばかられるほどだった。彼女は僕に感謝の意を伝えてきた。僕は謝意を受け取り、疲れているのを言い訳に失礼しようとした。再会して五分と経っていない。彼女にはひどく無礼な奴に映っただろう。でも、それでいい。彼女にはべつの殿方との素敵な出会いが待っているはず。僕は嫌われて、二度と会えなくていいんだ。

 後ろから素早く距離を詰めてきた彼女に気づかなかった。気づいたときには、僕は彼女に馬乗りにされていた。「やめろ!」僕は叫んだけれど、彼女は強引に僕の顔に巻かれた包帯をほどいていった。あらわになった僕の素顔を見て、彼女は言葉を失った。「なぜ?」ようやく口からこぼれたその問い。僕が正直に答えるわけもなかった。





 彼は自分の顔について詳しくを語ろうとはしなかった。ただ、「病だ」とだけ。わたしには信じられなかった。わたしの薬を手に入れたと同時期に、今度は彼が病にかかるなんて。薬を持ってきたときには怪我だと言っていた。あのとき嘘をついた意味もわからない。彼のひどい顔について、わたしは自分のつてで医者に話を聞いてみたけれど、誰もが知らない症状だと言っていた。各地の名医が誰も彼の病について知らないのも不思議だった。彼はどの医者にも診てもらっていないのだ。

 わたしは別方面にも手を広げた。彼についてなにか知っている人物はいないか、家の者たちに調査を命じた。ほうぼうの町に散らばっていった者のうちの一人が、数週間後に手がかりをもってきた。彼に魔女の作る薬について話した人物がいたようなのだ。それは、彼があの小瓶を持ってきた日の数日前……。時系列はぴったり合う。

 わたしは確信した。わたしはすぐさま魔女の家を訪ねた。今度は彼の病を治すための薬を作るよう、魔女に迫った。魔女は「それは無理だ」と首を振った。わたしを治す薬のために彼の美を頂いたのだから、と。

 わたしは胸が痛んだ。晩餐会で出会ったよくも知らない女のために、彼はなんという献身を。わたしは腹をくくった。「もう一度、薬を作って」わたしは魔女にお願いをした。代わりに、わたしの美をあげるから、と。魔女は笑った。わたしもおかしかった。

 でも、これでいい。もとに戻るだけだ。魔女は承諾し、薬をくれた。今度のこれもわたしが飲めばいいいらしい。これを飲めばわたしの病は再発し、彼にかけた呪いがとける。わたしは飲み干した。気がついたときには朝になっていた。床で目覚めたわたしに、魔女は仮面を手渡してきた。どうやって持ってきたのか、それはわたしの部屋の引き出しにしまってあるはずの仮面だった。

 わたしが仮面をつけて魔女の家を出ると、従者はとても驚いた顔をしていた。ここまで快くついてきてくれたけれど、それもきっと今日までだろう。明日からはまた態度を一変させるはず。

 わたしが馬車に乗り込もうとしたところで、早駆けしてくる蹄の音が聞こえた。霧の中から姿を現したのは、彼だった。包帯はつけていない。あの日見た顔のまま。息が上がっている。どうやら、呪いがとけたのを知るやいなや、急いでここまで馬を走らせてきたらしい。「どうして!」今度は彼がそう叫んだ。わたしは仮面の奥で微笑んだ。いいんです、これで、と。





 わたしには生まれるまえの記憶がある。わたしはこの体に生まれるまえ、べつのわたしだった。以前のわたしは、控えめに言っても美人だった。目鼻立ちは整っていたし、髪はサラサラだったし、胸は大きくて、脚は長かった。

「性格はクソだな」高校生のときの彼氏にも大学生のときの彼氏にも言われたけれど、全然気にしていなかった。所詮、別れる間際の捨て台詞だと受け止めた。最後の最後になんて女々しい奴、って哀れにすら思った。

 暴走した車を目の前にしたとき、わたしは足が動かなかった。運転席に座っていた男の慌てたような顔を覚えている。なんて無様なツラよ。ムカつく。

 天国も地獄もクソくらえ。どうでもよかった。なるようになれば、ってカンジ。

 結局、天国も地獄もなかった。あったのは、闇――。最初は暗闇だけがあった。ずっと、長い間。いえ、もしかしたら一瞬だったかも。そのあと、光に包まれた。真っ白な暖かい光に。

 生まれた瞬間、わたしを取り上げた産婆の顔が忘れられない。彼女は顔を歪めてなにかを叫んだ。成長して、言葉を覚えてから知った。あのババアはあのとき、「悪魔!」と叫んだのだ。

 最初は全力で抵抗した。このクソッタレな境遇に。

 でも、すぐに諦めた。だって、味方は一人もいないんだから。わたしは強い人間だと思っていた。ピンチになることはあっても、なんだかんだそれを切り抜けちゃう運も強くて賢い女の子。それがわたし。

 でも、違った。以前のわたしは恵まれていただけ。……なにに恵まれていたか? それは容姿。キレイな見た目があったら、おのずと人を引きつけ、簡単に助けを得ることができた。

 この体になって知った。わたしにはなにもない。強くなんてなかった。賢くもない。一人じゃなにもできない。教室の隅で陰口を叩いていたクラスメイトの女子。あいつらはわたしのことを「見た目がちょっと可愛いだけ」と言っていた。わたしは内心「バーカ」って思っていた。見た目だけでこんなにモテるかよ。わたしは性格もいいの。だから、仮にこの美貌が衰えても、わたしはなにも変わらないと思っていた。このモテモテでハッピーな環境は。

 でも、違った。この体になって、この醜い顔に生まれて、誰もわたしの中身なんて見てくれない。初めのうちは必死に会話に参加しようとした。話を盛り上げて、自分を知ってもらおうと。でも、駄目だった。両親も、姉妹たちも、パーティーで会う男たちも。わたしの話をつまらなそうに聞き流す。唯一食いつくのは、この仮面の下がいかに醜いだろうかというのを予想するときだけ。わたしは心を閉ざした。ひとに期待するのをやめたのだ。

 でも、あの晩餐会で彼と出会った。彼はわたしの話を聞いてくれた。彼はわたしの手を取ってくれた。わたしが仮面を脱ぎ捨ててもなお、この目を見つめてくれた。

 わたしの中でなにかがはじけた。憑き物が落ちたような感覚があった。以前の人生で知った気になっていたもの。それをじつは知らなかったのだと知った。わたしはこの体で、この望んでもいない顔に生まれたことによって、それを知った。これまでの十数年は長かったけれど、無駄ではなかった。すべてがむくわれたような気がした。





 僕は彼女と抱きしめ合っていた。

 そんな大胆なことをする気はなかったのに。気がついたら、いつの間にか。僕から駆け寄ったのか、それとも彼女の方から駆け寄ってくれたのか。

 彼女は泣いていた。僕も泣いていた。

 ふと気がつくと、僕たちは光に包まれていた。真っ白な、暖かい光。どこか懐かしいような。いつか僕はこれを経験していた。

 僕は彼女のそっと仮面をはずす。僕は驚いた。彼女の顔が変わっていたから。病が治っていた、という意味ではない。確かに病は治っていた。でも、それだけじゃない。彼女の顔自体が変わっていたのだ。

「その顔……」彼女がつぶやく。僕は自分の顔を触った。呪いはとけたままだ。イボはできていない。でも、どこか変だった。顔の作りが変わっている。なんだか懐かしい手触り。それから手を見ると、いままでなかった毛が生えていた。この体毛の生え方、それに黒い毛……。

 彼女も一緒だった。黒い髪の毛と、日本人っぽい顔の作り。

 記憶がフラッシュバックする。僕は彼女と会ったことがある。とても短いあいだ、一瞬だけ。でも、記憶に焼き付くような重要な場面で。

「さあ、時間だよ」そばで誰かが言った。魔女の声だ。魔女は言った。「この体を捨てるときだ。……いや、もとに戻るだけさね。不思議だねぇ。この奇跡が起きた理由はあたしにもわからないが、少なくとも意味はあったようだ」

 白い光が増していく。僕は体が浮き上がるのを感じた。





 真っ白な天井が見えた。

 まばゆいほどの光はもうない。窓からはほどよい光が差し込んでいる。

 目を丸くした看護師さんが話しかけてきた。「大丈夫です」僕は答える。でも舌が回らず、うまく言葉にはならなかった。

 慌てて看護師さんが外に出ていく。僕はなんとか一人で体を起こすことができた。まだ歩くのは早いだろう。でも、そうせずにはいられない衝動があった。僕はふらつく足で立ち上がる。そのまま――。





 僕は病室を出た。


 わたしは病室を出た。


 廊下で彼女と再会した。


 廊下で彼ともう一度会えた。


 僕は彼女の目を見た。


 彼がわたしの目を見つめた。


 表情から、あれは夢じゃなかったことを知る。


 彼の顔を見てわかった、あれはやっぱり現実だったんだと。


 彼女が僕に微笑む。


 わたしは自然と彼に微笑みかけていた。


 僕は彼女の方へ一歩を踏み出す。


 わたしは彼の方へ歩き出す。


 僕は彼女を抱きしめたいと思った。


 わたしは彼に抱きしめられたいと思った。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ