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のっぺらぼうが死んだ日

作者: morko

 外はもくもく、くもり空。湿った風がぴゅうぴゅう吹いて、おうち遊びにぴったりのいい天気です。

 のっぺらぼうは今日、もうほとんどデートの気分で、うんとおめかしをしてきました。プリーツのきいた紺色のロングスカートに、襟袖にレースがあしらわれた白いブラウス、いつものように裸足ではいけないと黒のバレエシューズまで履いてきました。肩あたりでざっくり切ったおかっぱ頭は何年かぶりに洗髪し、たっぷり梳いてあります。これでむやみに怖がられることはないはず。さあ、準備は万端です。

 熱い決意をみなぎらせたのっぺらぼうは、茶色いレンガタイルの壁をすり抜けて、いざ、他人様の邸宅へ不法侵入を試みます。

「よいしょ〜〜」

 するりと壁を抜けた先、子ども部屋の床にはいつくばって、ちびたクレヨンを握りしめたおさげ頭の幼女はミミコちゃん。年の頃は四つか五つ。のっぺらぼうが一年かけて選んだ、大切な女の子です。

「こんにちは〜〜〜〜」

 はじめの挨拶というのはなによりも肝心です。のっぺらぼうは脱いだバレエシューズを指に引っ掛け、部屋中に響くくらい大きな声で、丁寧に挨拶をしました。けれど返事はありません。返事どころか、こちらには見向きもしないで、小さなからだをさらに小さく丸めたままでいます。ミミコちゃんはあいさつができない女の子ではありませんから、どうやらのっぺらぼうが来たことに気づいていないようです。

「はじめまして〜〜!」

 やはり、返事はありません。

 聞こえていないということはないはずだわ、と不思議に思ったのっぺらぼうは、長いスカートを膝の裏でたたんでしゃがみ、同じように床にはいつくばってみました。すると、ミミコちゃんの手元が細かく動いているのがわかりました。

「す、素敵〜……!」

 のっぺらぼうは思わず、といった調子で小さく声を上げました。

 ミミコちゃんは白い画用紙いっぱいに、お城とうさぎと、たくさんのお姫様の絵を描いているまっさいちゅうなのでした。それならこちらの声が聞こえないのも仕方のないことだ、とのっぺらぼうは思いました。

 箱に揃ったクレヨンを余すことなく使って描かれたその絵は、目にも鮮やかで、食い入るように突き出したのっぺらぼうの白い顔をまばゆく照らします。ミミコちゃんの絵はやはり、何度見てもうっとりしてしまいます。のっぺらぼうの口から、ほう、と感嘆のため息がこぼれました。

 これは、邪魔をするわけにはいきません。のっぺらぼうは一度からだを起こして三角座りの姿勢をとってから、ミミコちゃんの手が止まるのを、横でじっと待ち続けました。

「でーきたっ!」

 最後はお城じゅうのカーテンにハートの模様を描きこんで、やっとクレヨンを置いたミミコちゃん。たいへん満足そうに、自分の作品をしげしげと眺めています。

 いまがチャンス!

「こんにちは〜〜〜〜!」

 のっぺらぼうは二度目になる挨拶もきちんと、大きな声でこなしました。その甲斐あってか、今度こそミミコちゃんの二つのおめめがくりっとこちらを向きました。

「……あなた、だあれ?」

 となりにいるのっぺらぼうを見ても、ミミコちゃんはきょとんとするだけで、少しも驚きません。子どもはいつだって、いろいろなものと、少しずつとなり合わせなのでしょう。

「あなた、ミミコちゃんでしょ〜?」

「どうしてミミコのおなまえしってるの?」

 当然の質問です。なぜかって言うとね、とのっぺらぼうは語気を強めます。

「ミミコちゃんのこと、ずいぶん前から見てたもの〜〜〜」

「みてたの? どうして?」

「ちょっとミミコちゃんにお願いがあってね〜〜」

「おねがい?」

 不思議そうに呟くミミコちゃんに、のっぺらぼうは、そうなの、とうなずきながら返事をしました。そうなのです。のっぺらぼうは、ミミコちゃんにあるお願いをするためにやってきたのです。

 ミミコちゃんは大きく首を傾げました。それから、

「うーんと、それよりあなた、おなまえはぁ?」

 と、のっぺらぼうに尋ねました。

「えっ?」

 ミミコちゃんからの唐突な問いかけに、のっぺらぼうは面食らいました。

「な、なまえ〜?」

「そう」

 わたしの名前はミミコです、と元気よく手を上げてみせたミミコちゃんを前に、のっぺらぼうはおろおろとうろたえます。

 なお、追撃の手は緩みません。

「ねぇ、おなまえはぁ? ひみつはよくないんだぁ」

「えっ、と〜」

「ごあいさつはまずおなまえからでしょー?」

 くもりなきまなこのミミコちゃんを前に、のっぺらぼうはただ、押し黙るほかありません。そうか、人間にはみんな名前があるのだった。そしてまず名乗り合うのが筋なのだった。のっぺらぼうは、そんな初歩的な人間の作法を、失念していたのです。

 冷たい汗がひとすじ、頬を伝うのがわかりました。

 のっぺらぼうには、とくにこれといった名前がありません。名前がなければ当然、名乗りようがないのです。このことを、人間であるミミコちゃんにうまく伝えられる自信もまた、ありません。

 適当に、嘘の名を騙ってもよかったな、と思ったのはあとになってからで、のっぺらぼうは、おそるおそる真実を口にします。うまく伝わるでしょうか。

「わたしの名前はね、ないの〜」

「ないの?」

「そう、ないの〜……変かしら〜?」

「ないのちゃん。……たしかにちょっぴり、へんなおなまえかもね」

 あらら、ミミコちゃんは勘違いをしています。のっぺらぼうはぶんぶんと首を横に振りました。

「ちがうの〜。わたし、名前、なし……名前は、ありません〜」

 なんと言ったら真意が伝わるのか、しどろもどろになりながらぶつぶつ呟くのっぺらぼうを、ミミコちゃんは変なのと思っています。これは秘密です。

「あっ!」

 ここでミミコちゃん、のっぺらぼうの必死なお顔――あくまで雰囲気の話――と、それから前に読んだご本のお話を思い出して、ピン、となにかをひらめいたようです。

「もしかして、あなた、のっぺらぼう?」

 鋭い!

 ミミコちゃんはやはり賢い女の子です。のっぺらぼうは感心して、何度も何度もうなずきました。

「そう〜、そう〜」

「だったら、おなまえは、のっぺらぼうね!」

「ええ、ええ〜。そういうことにしておきましょう〜〜!」

 なんだか盛り上がった二人は、たがいにパチパチと拍手を送り、健闘を称え合いました。拍手をすると、なにかたいへんなことを成し遂げたような満ち足りた気持ちになります。簡単に言うと、いい気持ちです。

 はっ。いけない、いけない。

 ゆっくりと手を下ろしたのっぺらぼうは、ふうと息を吐き出して、心を落ち着けました。ここからが本題なのです。スカートのプリーツを撫でながら、つとめて冷静に、ミミコちゃんに語りかけます。

「ミミコちゃん、あのね〜、わたしさっきも言ったんだけれど〜、ミミコちゃんにお願いがあるの〜」

「おねがい?」

 ミミコちゃん的には問題が一段落していますから、新たな画用紙に手を伸ばすのは必然です。そんなミミコちゃんの気を引くために、真っ白な顔を両手で指さして、のっぺらぼうはいっとう大きな声で、

「ミミコちゃんに、わたしの顔を、描いてほしいの〜〜!」

 と告白しました。

「おかお……?」

 ぱっと顔を上げたミミコちゃん。長いまつげが、ぱちぱちと上下に跳ね動きます。

「わたしの顔を、ぜひあなたに描いてほしくってね〜〜」

 そう繰り返すのっぺらぼうの顔は、なにもついていないのに、真剣そのもののようにも見えます。

 ふと、赤のクレヨンを握りしめたままだったことに気づいたミミコちゃんは、まずそれをそっと箱の中に仕舞いました。それからとなりにいるのっぺらぼうの顔を、じっ、と見ました。たしかにそこはまっしろけです。でも。

「でも、おかおは、がようしじゃないでしょう?」

 幼稚園でお顔に落書きをした男の子は、もれなく先生に叱られて、濡れたタオルで顔をごしごし拭われていました。ミミコちゃんはそれをはっきり覚えています。

「おかおにらくがきをするのは、いけないことよ?」

 のっぺらぼうは、たしかに、と言いたい気持ちをぐっとこらえて、気にしないでと言いました。それでもミミコちゃんはまだ不満げです。

「どうしてのっぺらぼうなのに、おかおがいるの?」

「う〜ん、憧れって、わかるかしら〜?」

 素直に、いいえと答えたミミコちゃんに、のっぺらぼうもうなずき返します。

「そうよね〜」

 もとより誰かに理解されようとは思っていませんから、ミミコちゃんがわからなくても、のっぺらぼうとしてはべつに構わないのです。話題を変えるべきだわ、とすぐに思いました。

「ね、ミミコちゃん、わたしの顔、触ってみて〜?」

 のっぺらぼうは、声色でミミコちゃんに笑いかけます。緊張や警戒心を、少しでも解いてもらうためです。

「わ、つるつる!」

 のっぺらぼうの顔のちょうど鼻のあたりに手を伸ばしたミミコちゃんが、感心したように声を上げました。もみじのような小さな手のひらは少し湿っていて、真っ白い皮膚に触れるたびにぺたぺたと音が鳴ります。

「そうでしょう〜〜」

 のっぺらぼうも自分の凹凸のない顔をそっとひと撫でして、笑ってそう答えました。



 のっぺらぼうは生まれたときからずっとこの、まっさらな顔で生きてきました。シミやそばかすの一つもない真っ白な肌。月明かりにぼうっと浮かぶツヤツヤの肌。目がなくとも視界ははっきりしているし、鼻がなくとも匂いはわかるし、口がなくともお喋りはできます。なんの問題もありません。

 あるべき場所になにもないからこそ美醜に悩まされる必要もなく、誰かにそしられるような心配もありません。ですから、自分の顔がのっぺらぼうであることを、むしろ自慢に、そして得に思っているくらいでした。

 ところが、何十年ぶりか、友人の口裂け女に会ったときのことです。

 その日はたしか、月のない暗い夜でした。柳がそよそよと風に揺れる生あたたかい池のほとりで、二人は落ち合いました。向こうの方で、二匹の河童がじゃぱじゃぱ水浴びをしています。

「なにヨみんなして! ワタシ、ちょっと口が大きいだけじゃないノ!」

 赤いサテンのワンピースに身を包んだ口裂け女は、この日もやはり怒っていました。そして同時に、悲しんでもいました。

「人の顔を見て叫ぶなんて失礼だワ!」

「まあまあ〜それがわたしたちの運命ってものよ〜〜」

 柳の葉が風になびいて、頭上でぱらぱらと音を立てます。

 だいたいの場合、二人が会うといつも口裂け女が泣きわめき、それを慰めるのがのっぺらぼうの役目です。のっぺらぼうは聞き上手で、二人は親しい仲なのです。

 のっぺらぼうの顔を指さして、口裂け女が声を荒らげます。

「そんなこと言ったって、あなたには口だってなんだってないじゃないノ!」

 なんとまあ。これを言われてしまうと、のっぺらぼうには返す言葉がありません。しかし口裂け女に悪気がないのもわかっています。誰彼構わず愚痴を吐き出したいときというものは、あるものです。

「こんな口、ない方がましヨ!」

 言って、口裂け女はわっと泣き出しました。ここまでが一連の流れで、いわば様式美というやつです。つぎはなにも言わずに、横からそっとレースのハンカチを差し出すのが安牌なので、のっぺらぼうはそのとおりにします。真っ白なハンカチは、闇のなかだと青白く光って見えました。

「うわああン!」

 なかばひったくられるように奪われたハンカチでブーンと鼻水をかまれても、慣れっこなので気にしません。いくら汚れたって、洗濯すれば済むことですから。ただ口裂け女と会うときは、いつも二枚、ハンカチを持つことにしています。

「ほら〜。泣くと、もっと顔がぐちゃぐちゃになるわよ〜」

 涙にまみれた口裂け女の顔は、すでにお化粧が落ちてどろどろです。ぐすぐすと鼻をすすりながらお化粧ポーチを取り出し、まっさきにリップを塗り直そうとするその姿勢は、やはり口裂け女の鑑だとのっぺらぼうは思います。が、口には出しません。濡れたハンカチは黙って回収しました。

 のっぺらぼうと口裂け女は同時に、はあ、とため息をつきました。

「……なんであんたまでため息つくのヨ」

 いま悲しんでいるのはわたしなのよ、とでも言いたげに、口裂け女がのっぺらぼうを見ます。その場にごろんとねころがったのっぺらぼうは、勢いのまま思ったことを口にしました。

「ほ〜んと、口があるって画期的よね〜〜」

「アラ。どうしたノ、急に」

 手鏡片手に、口の端から端までリップを塗りながら、口裂け女はいぶかしげに尋ねます。のっぺらぼうはその様子を下からうっとり眺めつつ、答えました。

「そのリップ、こっくり赤くていい色ね〜」

「でショ? ちなみに限定色ヨ」

 きっともう売っていないわ、と口裂け女は自慢げに長い口角をつり上げてみせます。自分の口の大きさをいつも嘆いているこの友人も、じつは色々な種類のリップを気分によって塗り分けていることを――そしてその習慣を楽しんでいることを――のっぺらぼうは知っています。

「ねえねえ〜、わたしなら何色のリップが似合うかしら〜〜」

 それはほんの小さな好奇心から出た言葉でした。

「なに、その顔のどこに塗るっていうのヨ?」

 お化粧直しが済んだ口裂け女が、そう言ってあまりにげらげら笑うものですから、さすがののっぺらぼうもついムッとしました。

「この〜いまに見ておきなさいよ〜〜」

「ヤダ、なにする気?」

「うるさ〜〜い!」

 ぽかぽかと口裂け女の背中を叩きながら、のっぺらぼうのなかで、なにかがほつほつと芽生えはじめていました。

 帰宅してからも、口裂け女の赤い口元や、手鏡や、お化粧道具の詰まったポーチのことを思い出しては、自分には縁のないことだからと首を振って、そのまま部屋の中をうろうろしました。なんだかとても落ち着かない気分が続いているのです。こんなことはいままでに一度もありませんでしたから、のっぺらぼうは困惑しきりです。なにもついていないはずの口元をつい指先でなぞってしまう自分には、ほとんど怖くなりました。

「起きているから余計なことを考えちゃうんだわ〜〜」

 その日はいつもより早く、日が昇る前に床に入り、開いていても閉じていても誰にもばれない瞳をぎゅっと閉じて、無理矢理眠りにつきました。

 それでも、のっぺらぼうは、もう以前ののっぺらぼうとはなにかが違っていました。三日三晩悩み抜いて、それからこう、思ったのです。

 顔がないのなら、描いてしまえばいい――。

 それはのっぺらぼうとしてのアイデンティティを揺るがす大事件、禁忌と言ってもいいでしょう。そんなあやしい好奇心は、もはやのっぺらぼうの手に余るほど、ぶくぶくと膨らんでいました。

 さっそく墨をつけた筆を持って鏡台の前に移動したのっぺらぼうは、おそるおそる、自分の顔に筆先を向けました。参考にするのは、これまで何十人も、何百人も、何千人も何万人も見てきた人間たちの顔です。

 そうやって一晩中、筆の先をただ見つめたまま、のっぺらぼうはまんじりともせずたたずんでいました。そして朝を迎え、ついに静かに筆を置きました。顔は当然、真っ白のままです。

 ほら穴のような暗い部屋に、悲しい声がこだましました。

「わたし、びっくりした顔の人間しか知らないじゃない〜〜!」

 いざ人間の顔を思い浮かべてみると、のっぺらぼうの目の前で彼らは、みんな驚いたり、泣いたり、叫んだりしているのです。はっきり言って、ひどい顔です。のっぺらぼうが望む顔ではありません。著しくナチュラルさに欠けています。

 自分は、真面目に人間を驚かせすぎてしまった。このときほど、のっぺらぼうは自分ののっぺらぼうとしての性を恨んだことはありません。むしゃくしゃして、湿ったおかっぱ頭をぐしゃぐしゃとかきむしりました。

 ところが、です。それくらいで諦められるのならはじめから悩んではいないのです。のっぺらぼうは、握りしめたこぶしを天井高く突き上げました。

「よ〜し、自分でだめなら、他人にお願いするまでよ〜!」

 こういうわけで、のっぺらぼうの“顔を描くのにふさわしい人探し”がはじまりました。

 手始めに同業者をあたってみましたが、予想どおり、返事はみんなのっぺらぼうと同じでした。やはり、人間にお願いするしかないようだ、とのっぺらぼうは覚悟しました。

 人間。それは未知の生き物です。

 まず、大人はだめでしょう。大人はのっぺらぼうを見ると――大人の中には、そもそものっぺらぼうのことが見えない人が多くいるのも事実ですが――たいていが急いで逃げていきます。たまになにかを投げつけてくる人や、へんな呪文を唱えてくる人もいます。こちらも当然、あてにはなりません。

 大人がだめなら子どもしかいないということになります。

 子どもに会うには昼間の時間が一番よいというのは、一般常識です。のっぺらぼうはまず、朝に寝て夜に起きる生活をあらため、夜に寝て朝に起きるよう、つとめました。慣れるまでにたいへんな苦労をしましたが、慣れてみればこちらのものです。

 つぎに、絵を描くのがじょうずな子どもを探さなければなりません。子どもがみんな、のっぺらぼうに驚かないわけではないし、同じように、子どもがみんな、絵がじょうずなわけではありません。じょうずかじょうずでないかはあくまでのっぺらぼうの好みの問題ではありますが、とにかく、のっぺらぼうを見てもぎゃあぎゃあと騒がなくて、さらに絵がじょうずであること。この二つの資質がそろう子どもを見つけるというのは、これまた意外と難しいことでした。

 草木の陰からそっと幼稚園や保育園、たまに小学校や中学校までのぞき続けて一年と少し。人間たちの肌にうっすら汗が浮かぶような陽気に包まれた、緑の明るい初夏のことでした。のっぺらぼうはついに運命の出会いを果たしました。それが、幼稚園児のミミコちゃんです。

 ミミコちゃんはまず、一人で園内のお手洗いに行けるしたたかな心を持っていました。それから、近所のなにを見ても吠える犬にもきちんとおじぎができたし、必要があれば、年上の男の子に果敢に立ち向かう勇気も持っていました。

 さらに、幼稚園のなかで絵を描くのがもっとも好きなのが、ミミコちゃんなのでした。

 好きこそもののじょうずなれ、とはよく言ったもので、クレヨンでも絵の具でもたくさんの色を使う美的センスと、画用紙を目一杯使って描くその心意気に、のっぺらぼうは胸を打たれました。

 わたしの顔を任せられるのはこの子しかいない。のっぺらぼうは強く思いました。



 くもり空だった外は、どうやら雨が降りはじめたようです。その証拠に、さやさやと雨が降る音がガラス窓の向こうから聞こえます。少し前――と、言ってもそれはミミコちゃんの体感の話――にスーパーに買い物に行ったママのことを思い出しました。ママはちゃんと傘を持っていったでしょうか。ママはいったい何時に、帰ってくるでしょうか。

 ひとしきりのっぺらぼうの顔を撫でくりまわしたミミコちゃんは、少し早口で、目の前のまっさらな顔に向かって言いました。

「のっぺらぼうさんはどんなおかおがいいの?」

「描いてくれるの〜?!」

「うん」

「ありがとう〜〜〜!!」

 のっぺらぼうは感極まって、思わずミミコちゃんを腕の中に閉じこめて頬ずりしました。

「わぷっ」

 のっぺらぼうの平熱は三十六度もあるはずがありませんから、ブラウス越しとはいえ、その低い体温にミミコちゃんの背筋がぶるりと震えます。あわててからだを離して、ごめんねとのっぺらぼうは言いました。ミミコちゃんは、ぼつぼつと鳥肌の立った腕を不思議に思いながら、いいよと返しました。

 それより、とミミコちゃんはのっぺらぼうに言います。

「ママがかえってくるまえにすませたほうがいいとおもうの。ママがのっぺらぼうさんをみたら、びっくりして、けいさつにおでんわしちゃうかも」

 たしかに。これにはのっぺらぼうも大賛成です。先ほども述べたとおり、大人に会ってもきっとろくなことにはなりません。

「そのとおりだわ〜〜」

「じゃあ、ねころがって、ちょっとまっててね」

 そう言い残したミミコちゃんは、洗面所へ行ってうつわに水を汲み、ピンク色のレースのついたバッグの中から、色とりどりの絵の具を取り出しました。そして、汚れるといけないからと、のっぺらぼうの白いブラウスの首元に小さな水色のスモックを掛けてくれました。きっと、幼稚園で使っているミミコちゃんの園服です。

「ありがとう〜」

「ううん。どういたしまして」

 のっぺらぼうは横になったままクラクラしました。この子は、なんて優しい子どもなんでしょう。

「それで、どんなおかおがいいの?」

 大小二本の筆を水の中でちゃぷちゃぷ泳がせながら、ミミコちゃんが尋ねます。一方で、のっぺらぼうの答えはもう決まっているのです。

「ミミコちゃんが、とびきり可愛いと思うお顔を描いてほしいわ〜〜〜」

「おひめさまみたいな?」

「そう〜〜!」

 ミミコちゃんの絵を見たときに、のっぺらぼうは自分のほんとうの気持ちに気づきました。色鮮やかで、キラキラしていて、ニコニコ笑顔の女の子の顔がほしい。この白いキャンバスいっぱいに可愛い顔を描いてほしい、と。

「わかった。じゃあ、かくね」

 目をつぶっていてねと言われて、必要ないとわかっていながら、のっぺらぼうは素直に目をつぶりました。目をつぶっていてね、なんて。なんだかくすぐったくて、心がわくわくします。

「おめめはね、ピンクいろとあおいろ」

「ふむふむ〜」

「おはなはきいろとみどりね、おくちはぁ、ピンク!」

「ほうほう〜!」

「ほっぺはー、オレンジいろ!」

「いいわね〜〜!」

「あとはね、うんとね、むらさきいろもつかいたいよねぇ」

「さすがミミコちゃんだわ〜!」

 なにがどうなっているのかわからないまま、のっぺらぼうはミミコちゃんの筆さばきに圧倒されていました。顔じゅうを筆先が縦横無尽に動き回るのですから、息をするのも一苦労です。けれどそれ以上に、絵の具の冷たさがひたひたと皮膚を濡らすのがたいへん心地よく、のっぺらぼうはまさに夢見心地で横たわっていました。ああ、お化粧をするときも、こんな気持ちになるのかしら、と心の中で思いました。口裂け女が持っていた、熟れたプラムのように赤いリップを思い出しながら。

「はい、できた! かわくまで、すこしそのままでいてね」

 垂れちゃうからねと念を押されて、のっぺらぼうは口元だけではいと返事をします。

 スモックが取り上げられたあと、はたはたと風を感じてそっと目を開けてみると、ミミコちゃんがあじさい柄のうちわで顔をあおいでくれているのでした。その手は様々な色の絵の具がこびりついて、カサカサしているように見えます。きっと大作ができあがったのだと、のっぺらぼうは確信しました。

「もう、いいかも」

 小さな豆粒みたいな指先が、のっぺらぼうの顔をすいすいなぞっていきます。ミミコちゃんは、よし、と呟きました。

「はい、おきあがってくださいー」

「はあい〜〜」

 上体を起こし、目を開けると、ミミコちゃんの手には大きな丸い鏡が、伏せた状態でありました。

「ママのへやからもってきたの。みるでしょ?」

「もちろん〜!」

「ん、どーぞ!」

 ずい、と鏡を手渡してくれたミミコちゃん。先程とは違って、少しぶっきらぼうな調子です。ミミコちゃんも緊張しているのかもしれません。

 どきどき、のっぺらぼうは震える手で鏡を持ち上げました。

 ミミコちゃんが、そっと問いかけます。

「……のっぺらぼうさんてきには、いいかんじ?」

 少しもじもじしているミミコちゃんに、のっぺらぼうは、うん、うん、と何度も縦にうなずいてみせます。泣くとお化粧がどろどろになるのは知っているので、けっして涙は流しません。

 のっぺらぼうの胸が、火の玉を抱いたみたいにほかほかとあたたかくなりました。

「やっぱり、やっぱりミミコちゃんにお願いしてよかったわ〜〜!」

「ほんと?」

「ほんともほんとよ〜、最高〜〜!」

 絵の具が乾いて少しカサついた肌にそっと触れてみます。白い部分のほうが少ないんじゃないかと思うほど、顔じゅうがたくさんの絵で埋めつくされています。目、鼻、口の他に、頬や額にはハートとお花のマークまであります。なんて型破りで可愛らしいんでしょう。

 のっぺらぼうがあらためてお礼を言おうとしたときでした。向こうの方でガチャリと音が鳴って、それから、ミミちゃん、と女の人の声がしました。

「ママだ!」

 ミミコちゃんがのっぺらぼうと遊んでいたなんて知れたら、ママはきっと悲しい思いをするに違いありません。のっぺらぼうはすっくと立ち上がると、バレエシューズを履いて、壁の方へ向かいます。

「じゃあ、あっこれ、ほんのお礼なの〜〜」

 言って、スカートのポケットから光る石を三つ四つ落としてから、来たときと同じようにレンガの壁をすり抜けて、のっぺらぼうはとにかく急いで家を出ました。

「あっ、だめ! だめよ、のっぺらぼうさん!」

「なに、ミミちゃん? どうしたの?」

 ママは濡れてくるくるになった亜麻色の髪をタオルで拭きながら子ども部屋へやってきました。ミミコちゃんの必死の制止は、のっぺらぼうの耳には届きませんでした。



 本降りになった雨をかき分けかき分け、のっぺらぼうはひとまずミミコちゃんの家の近くにある公園まで走りました。そして、大雨のせいで人っ子一人いない公園のベンチに、息も絶え絶え腰掛けました。普段めったに走ることなどないので、心肺機能が脆弱なのです。

 それでも、のっぺらぼうの気分は最高です。念願の可愛い顔を手に入れられたのですから、これくらい、なんてことはありません。

 もう一度、今度はゆっくり眺めたいと思ったのっぺらぼうは、足元にあった水たまりをのぞいてみました。

「あら〜?」

 そこに映ったのは、先ほどミミコちゃんの家で見たようなまぶしい笑顔ではなく、どんよりとして、どろどろとした、はっきり言って汚い模様でした。

 水たまりは風に揺れてゆらゆらとゆらめくものです。きっとそのせいに違いないと、ポケットに忍ばせていた小さな小さな手鏡を取り出して、もう一度、眺めてみます。

 そこには、なぜか、信じられないくらいひどい顔をした生き物が映っていました。

 目も鼻も口も、全部がいっしょくたになってどろどろと垂れ下がっています。頬や額にあったはずの素敵なマークも、いまやなにが描かれてあったのか判別できません。全体的に青黒く混ざり合った顔を見て、のっぺらぼうは、ただ呆然としました。なにが起きたのか、まったく理解できませんでした。

「どうして〜……?」

 ミミコちゃんの部屋を出る前はたしかにあんなに可愛かったのに、少し走ったくらいで、どうしてこんなことになってしまったのでしょう。次第に肩が震え出し、目の奥が痛くなって、みるみるうちに、頬が熱く濡れていくのがわかります。これは雨ではありません、幾年かぶりに流すのっぺらぼうの涙です。するとますます顔が、いえ、のっぺらぼうの大切な顔の模様が、流れ落ちてしまいます。負の連鎖とでも言うのでしょうか。のっぺらぼうにはもはやどうすることもできません。

 のっぺらぼうはもう一度、どうして、と呟きました。

 悲しく小さな呟きが、大きな雨音にかき消された直後のことでした。水に濡れたアスファルトをバシャバシャと蹴る音と、小さな叫び声が聞こえてきました。それらはどんどんこちらに近づいてきているようです。

「のっぺらぼうさん!」

 顔を上げた先、公園の入り口に立っていたのは、黄色のレインコートを着たミミコちゃんです。走ってきたせいでフードが後ろに流れ、茶色い前髪やおさげがしとしとと濡れてしまっています。

 ミミコちゃんは、やっぱり、と口にして、頬を真っ赤に染めながらベンチまで走ってきました。

「ごめんなさい!」

 目の前で仁王立ちしたミミコちゃんがなぜ謝っているのか、のっぺらぼうには皆目検討もつきません。むしろ謝るのはこちらのほうだとも思いました。せっかく作り上げてくれた作品を、こんなにすぐにどろどろに汚してしまったのですから。

 そのようなことをぽつぽつ呟いてから、のっぺらぼうは、こちらこそごめんなさい、と言いました。

 それを聞いたミミコちゃんはなおも頬を赤くしたまま大きな声で、

「それはわたしのせいなの」

 と言いました。その声は、どこか怒っているようにも聞こえました。

「ミミコちゃんのせい〜……?」

 そんなわけがあるはずないと信じこんでいるのっぺらぼうに、ミミコちゃんは、すいせいだったから、と答えました。

「すいせい、だったから〜?」

「すいせいっていうのは、みずにぬれたらぐちゃぐちゃになっちゃうの」

「あっ、ああ〜、水性〜?!」

 のっぺらぼうは絵の具が何性かなんて――そもそもほかに何性があるのかすら知らないくらいで――考えたこともありませんでした。お化粧は涙で濡れたときにだけ、ぐちゃぐちゃになると思っていたからです。圧倒的な知識不足です。

「わたし、だめよっていったのよ?」

 今度は目を赤くして、ミミコちゃんがのっぺらぼうをにらみます。

「あめはみずだから、だめなの……」

 なるほど。のっぺらぼうは純粋に感心しました。それから、雨の中に飛び出した自分に、とっさにだめよと声を掛けてくれていただなんて、ミミコちゃんはさすがだわ、とも思いました。

「わたし、全然知らなかったの〜。ミミコちゃんはなにも悪くないわ〜〜」

 心からそう思って言ったのですが、ミミコちゃんは薄っぺらい眉をきっとつり上げました。

「これでおかおをふいて!」

 そう言ってから、ミミコちゃんは、うさぎの柄の可愛いハンドタオルをのっぺらぼうの胸の前に突き出しました。レインコートの中からでてきたそれは、ふわふわで、まったく濡れていません。

「でも、タオルが汚れちゃうわ〜〜」

「すいせいだからだいじょうぶ!」

 ミミコちゃんはぴしゃりと言い放ちます。それでもなかなか受け取らないのっぺらぼうに焦れて、自分からどろどろと汚れたキャンバスにタオルを押しつけ、拭いはじめました。そのいささか乱暴な手つきに、のっぺらぼうはあっぷあっぷと溺れそうになりました。

「も、もったいないわよ〜〜〜」

 どろどろになってしまったとはいえ、せっかくミミコちゃんが描いてくれたのです。それを消してしまうというのは、なんだかとても悲しいことのように思えました。あとからあとから涙がこぼれて、水性の顔はかえって綺麗になってしまいます。

「だいじょうぶ、またかいてあげるから」

「でも〜……」

「ママに、ゆせいのマジックペンをかりてきたの」

 ゆせい。のっぺらぼうは口先だけで呟きました。

「ゆせいなら、きえないの。でもこんどからあめにはきをつけてね、にじんじゃうから」

「あっ、油性ね〜、油性なんてあるのね〜」

 マジックペンなんて、なんだか素敵な名前です。のっぺらぼうは涙を止めて、ちょっぴりわくわくしてきました。

「おなまえはこれでかくの。きえるといけないから」

 のっぺらぼうさんのお顔も消えるといけないから、これで描くね。そう言って取り出されたのは、細くて無骨な、黒いキャップの一本のペンです。

「くろしかないけど、うんとかわいくかくから、いいでしょ?」

 うんうんとのっぺらぼうは強くうなずきます。

「ミミコちゃんが描いてくれるなら、わたし、どんな顔だっていい〜〜」

「どうせなら、おひめさまみたいにしましょ?」

 器用に片目をつぶってウインクしてみせたミミコちゃん。なんて頼もしいのでしょう。のっぺらぼうはふたたび心のときめきが止まりません。

「じゃあ、めをつぶってね」

 言って、走らされたペンさばきにやはり迷いは一つもありません。きゅっきゅっと音を立てながら細いペン先が顔の上を滑っていきます。それは、さきほどの絵の具のお絵描きの十分の一にも満たない短い時間でした。

 のっぺらぼうはうさぎ柄のタオルを頭の上でひさしのようにしながら、顔に雨がかからないようにつとめました。にじむというのもまた、どろどろになるのと同じくらい、きっと恐ろしいことなのでしょう。

「ほら、できた」

 ベンチに置いたままにしてあった手鏡を、ミミコちゃんが顔の前にかざしてくれます。そこにはきらきらの黒い瞳をした美少女がいました。

「まいにちじぶんでおけしょうをするといいとおもう」

 あと、コンビニで傘を買うといいと思う。と、ミミコちゃんは貴重な助言をくれました。

「ええ、ええ、そうするわ〜〜!」

 自分でリップを塗れるなんて、それはそれで、なんて素敵なことなんでしょう!

「じゃあ、ミミコ、ママにないしょできちゃったから、いそいでかえるからねっ!」

「ええ、ええ、転ばないようにきをつけてね〜〜〜」

「だいじょうぶ!」

 ミミコちゃんはハンドタオルとマジックペンをポケットにしまうと、小さなつむじ風のようにぴゅんと去っていきました。ふとうつむくと、白いブラウスがまるでパレットの中身のように、顔から溶けた絵の具で鮮やかに彩られています。ぎょっとしたのっぺらぼうでしたが、すぐに思い直しました。

「洗濯すれば済むことだもの〜〜」

 それよりもまずは傘を手に入れなければ。そしてリップを買って、口裂け女に便りを出して呼び出し、びっくりさせてやるのです。

 のっぺらぼうは黒一色のまばゆいニコニコ笑顔で、濡れないように家路を急ぎました。



 のっぺらぼうは、死にました。







(了)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 主題が怪異的でありながら、のっぺらぼうと純粋な少女が織り成す他愛のないやりとりは、人間以上に人間らしい優しさで溢れていて心温まりました。 のっぺらぼうと口裂け女。 人間とは一線を画す存在で…
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