問題篇
「俺の知り合いにアパレルショップで働いている子がいるんだけどさ」
目の前にぽつんと置かれた苺ショートケーキを睨みながら、蒲生は言った。
「その子に仕事の愚痴を話されたんだが、内容がすこぶる奇妙なんだ」
「奇妙?」
チョコレートケーキにフォークを刺しながら、碓氷は対面に座る男へ胡乱な目を向ける。
「自分で店頭取り寄せした商品にいちゃもんをつけたんだと」
「接客業にはありがちなことだろう。客の我儘にいちいち目くじら立ててちゃ、身がもたない」
「けど、その客は自分で取り寄せた商品に『私が頼んだものはこれじゃない』って怒ったんだぜ。自分が頼んだものも覚えていないのかって話だ」
「その客は男性なの、女性なの」
「女。三十代くらいで、かなり美人だったらしい。モデルみたいにすらりとした体躯で、薔薇のような真っ赤なワンピースを取り寄せた」
「薔薇のような、真っ赤なワンピース?」
フォークを運んでいた手を宙で止め、碓氷は訊き返す。
「印象的な言葉だろ。嘘みたいな本当の話だ」
芥子色のセーター姿の蒲生は、片方の口角をほんの少し持ち上げてみせた。
「甘いものばかりじゃ舌が飽きるだろう。口直しってわけじゃないが、ちょいとばかりミステリな風味の話を聞いてくれないか。薔薇のような真っ赤なワンピースを注文した女について」
蒲生の知人女性――仮に彼女を"美由紀"と呼ぶことにする――は、Magieというアパレルショップに勤めていた。Magieはフランス語で「魔法」の意味。結婚式やパーティ用のドレスを中心に販売している女性向けの店である。
事の発端は二週間前に遡る。美由紀が勤務するMagieに、一人の女性客が訪れた。この女性客を仮に"麗子"としよう。
麗子はふらりと一人で店にやって来て、しばらくは店内の服をあれこれ見て回っていた。試着をする様子はなく、ハンガーにかかった服を手にとっては眺めることを繰り返す。そのうち、レジにいる美由紀に声をかけた。
「この店に、薔薇のような真っ赤なワンピースは売っていないかしら」
美由紀は一瞬戸惑ったものの、店内の在庫を一通り探してみた。「薔薇のような」と言われても色彩感覚には個人差がある。とりあえず、赤いワンピースを手当たり次第に引っ張り出しては麗子に差し出してみるが、どれもいまひとつ納得がいかない。結局、店頭に並んでいるものから店内の在庫まで含めて、麗子の希望に叶うワンピースは見つけられなかった。
次に美由紀は、店のカタログを麗子に見せた。店内に在庫がなくても、カタログに掲載されている商品であれば取り寄せることができるのだ。そこでようやく、麗子は嬉しそうな声を上げた。
「このワンピース、とっても素敵ね。これを一ついただけるかしら」
麗子が指差したのは、真紅の艶やかなワンピースだった。ハイウエストで切り替えられ、ウエストから裾にかけてプリーツデザインがあしらわれている。シルク素材で光沢があり人目を惹くことは間違いないが、華やかな顔立ちでモデルか女優のような堂々たるオーラを纏う麗子にはきっと似合うだろう。当時の美由紀はそう思ったのだという。
一週間後、Magieの店に薔薇色のワンピースが届けられた。美由紀はその日通常出勤していたため、ワンピースが店に到着したことを麗子に電話で伝え、同日の夕方に彼女は再来店する。予想外の事態が発生したのはそのときだった。
美由紀がバックヤードから取り出したワンピースを見て、麗子は金切り声を上げたのだ。
「違う、これは私が頼んだワンピースじゃない!」
思いがけない麗子の反応に、美由紀は困惑するしかない。
「ですが、確かにお客様がカタログで決められたお品ですけれど」
「冗談を言わないで。私はこんなものを頼んだ覚えはないわ」
麗子はぶるぶると首を振って、そのまま足早にMagieを出て行ってしまった。美由紀は慌てて店を飛び出したが、見目麗しい女性客は帰宅ラッシュの人込みに紛れついに見つけることはできなかった。
以来、折を見ては麗子に電話をかけるも一切繋がらず、彼女がMagieの店に現れることも今の時点ではない。
碓氷は窓の外をぼんやり眺めながら、蒲生の語る話に聞き入っていた。
「念のため確認だけど、美由紀さんが発注を間違えた可能性はないんだね。パンフレットの同じページに似たような商品が載っていて、誤って違うものを取り寄せてしまったとか」
「俺もそこは気になった。だが本人は『確かに女性客が希望したワンピースを発注した』と譲らなかったよ」
「互いに主張が一方通行ってわけか」
窓から目を離し、まだ一口も消費されていない蒲生の苺ショートケーキに視線を移す。
「例えば、麗子さんは注文したワンピースを何らかの理由――あるいはただの気まぐれまもしれないけど――により購入できなくなった。けれど店員から電話を受けた手前、約束をすっぽかすのも気が引ける。よって、店には赴いたものの『注文したものと違う』という強引な理由でワンピースの購入を拒んだ」
「もっとマシな断り方がありそうだがな。一度試着をしてから『やっぱり想像していたものと違った』とか言えばいい。アパレルショップならそんなこと日常茶飯事だろうし」蒲生は冷静な声で異を唱える。
「麗子さんはプライドが高い人だったんじゃないか。自分で頼んでおきながら『試着して似合わなかったから買わない』と店員に告げることが恥ずかしかった」
「美人は自尊心が高いというしな」
碓氷はちょっと眉根を寄せて「まあ、そうかもね」と曖昧に濁しておく。
「だが引っかかるのは、気が変わったのにも関わらずなぜ麗子さんは来店したのかということだ」
碓氷は首を僅かに右に傾ける。
「つまりだ、真っ赤なワンピースを注文した麗子さんは、何らかの事情によってワンピースを購入しないことにした。だったら、そもそも電話を受けた時点で断ればいいじゃないか。何もわざわざ自分からトラブルを起こしに行く必要はない。美由紀だって、面と向かって客に文句を言われるより電話で小言を食らうほうがいくらか気が楽だろうし」
口をへの字に曲げる蒲生に、碓氷は珍しく賛同の意を示した。
「そうだね。電話で済ませるほうが店に足を運ぶ手間も省けるし、気まずい思いをすることもない」
「まさか、麗子さんは根っからのクレーマーで店員の困った顔見たさに店に出向いたわけでもないだろう」
ショートケーキとチョコレートケーキを交互に眺めていた蒲生は、不意に「あ」と間の抜けた声を出す。
「分かったぞ。麗子さんは姉妹なんだ。顔がそっくりの姉か妹がいるんだよ」
「ミステリで言うところの双子トリックか」友人のミステリ好きを熟知している碓氷は、呆れたように鼻で笑う。
「最初に店にやって来た麗子さんは、確かに真っ赤なワンピースを注文した。だが、一週間後店に商品を見に来たのは顔がそっくりの姉妹だったんだ。そして麗子さんは、その姉だか妹だかに伝えていた。『真っ青なワンピースを頼んでいるから、代わりに買ってきてもらえないか』とね」
「真っ青?」
「何色か知らんが、とにかく赤以外の色のワンピースを頼んだと嘘をついたのさ。当然、受け取りに行った本人は困惑するだろう。注文していた色とはまったく違う商品が届いていたんだから」
「でも、どうして麗子さんはそんな嘘をついたのさ」
「例えば、麗子さんはその姉だか妹だかと喧嘩していたんだ。で、彼女を困らせようとわざと嘘をついた」
「ワンピースを買うつもりは最初からなかったのか。Magieにとっては随分な迷惑だね」
「世の中には色んな客がいるのさ」
妙に達観した口調である。碓氷は苺ショートケーキにじっと視線を注いだまま、やがて独り言めいた声で呟いた。
「その女性客は、本当にただの客だったのかな」
「どういう意味だよ」蒲生は友人の顔をまじまじと見つめる。
「もしかすると、一連の出来事は仕組まれたことだったんじゃないかな」
「何だよ、また秘密の犯罪組織のご登場か」
「そんな大それたことじゃない。麗子さんは、Magieの誰かが送り込んだ仕掛け人だったんだ」
「ますます訳が分からないな。説明を求める」
蒲生は大袈裟な仕草で両腕を広げた。
「つまりさ、一種の研修だったんだよ。クレーマー対処法を学ぶための。麗子さんも本当はMagieの店員で、美由紀さんは麗子さん扮するクレーマーに抜き打ちテストのような形で当たってしまったというわけだ。麗子さんはおそらく、美由紀さんとは別支店かあるいは本社からやって来たんだろうね。美由紀さんの知っている顔だったら一発で分かってしまう。だから、美由紀さんは麗子さんを本物の客と勘違いした」
「なるほど、研修の一環ね。美由紀が一連の出来事を研修だと知ったのは後になってのことだったのか――いや、でもそれじゃおかしいぞ」
「何が」
「麗子さんが最初にMagieを訪れたのは二週間前。美由紀が麗子さんにクレームを付けられたのが一週間前。俺にそのことを話したのがつい二日前のことだ。だとすると、美由紀はすでに研修のことをMagieから知らされているはずじゃないか。だが、美由紀が研修のことを知っている様子はなかった。だからこそ俺に愚痴を溢したんだから」
「じゃあ、クレーマー研修説もなしか。もうさ、いっそのことシンプルに考えることが一番なんじゃないの」気障な仕草で両肩を小さく上げる碓氷に、蒲生は「シンプル?」と問い返す。
「麗子さんは店のカタログを見てワンピースを頼んだ。けれど、実際に届いたものを見て自分が想像していたものとは感じが違うことに気付く。よくあるだろう、ネットショップで画像を見て注文した商品でも、いざ届いた実物を見ると『思っていたものと違う』とがっかりすること。麗子さんが体験したこともまさに同じことだったんだ。でも、素直に理由を告げられずいちゃもんを付けるような行動に出てしまった」
「プライドが高い美人ゆえ、正直な理由を言い出せなかったんだな」
「美人イコールプライドが高いという見方はよく分からないけど。余計な色眼鏡で人を見ないほうがいいんじゃないの」
碓氷は優雅な動きで首を横に振る。
「いや、美由紀の話じゃ麗子さんはいかにも気が強そうな美人ってことだったからな。自分に自信ありげな女は総じてプライドが高いものさ。決して俺だけの色眼鏡ってわけじゃ――」
唐突に言葉を切った蒲生に、碓氷は怪訝な顔を向ける。
「そうか、色眼鏡か」
「どうしたの蒲生」
「分かった、分かっちゃったぞ。碓氷、残念だが今回はお前に安楽椅子探偵の役は回ってこないようだ」
芥子色のセーターの男はしたり顔を浮かべながら、悠然とソファ椅子に背中を預けた。