三話:篠突く雨は嘆く
世界観、用語集をリメイク後のものに変えました…!
——二十日後。
計画実行の夜が告げた。
雨が凄まじい勢いでガラス窓に打ち続けている。まるで剣で突かれるように響いて、憤っているような凄まじい雨だ。それは轟音にも匹敵する。
紅は天候に構わず夜になれば外出する。ただし、以前みたいな兵士を気絶させて鍵を拝借する手はもう使えない。それをやったせいで巡回兵が二人一組になったからである。誰かが援軍を呼べんだりしたら、王女を守りながらの突破は困難だ。
——それでも。
どっちみち国を裏切る事になる以上、手段は関係ない。レフィシアは改めて深く静かに深呼吸を行う。
自分の全てが変わる、勇気の一歩が始まろうとしている。
日中に王弟殿下としての身分を駆使して巡回ルートを全て把握。ゆったりとした歩みで会話を弾ませている兵士二人がやってきた所を素早く距離を詰め、片手剣で二人の背を斬りつける。どくどくと溢れんばかりの鮮やかな血を流しながら兵士二人は横倒れる。息は引き取っている。それもそうだ。口封じの為に、殺すしかなかったのだから。
躊躇いは捨てるしかない。そうでないと、王女を助け出す事は出来ない。
急いで兵士の懐からピンポイントで地下室の鍵を探し当て、一気に通路を駆け抜けた。
以降の手順は恐ろしく感じるほどにとてもスムーズで、鍵を開けて扉を開き、駆け足で階段を下る。
その先、進む。進み続ける。暗闇など眼が慣れていき、迷う事もなくなった。
突き当たりを左。更に進む。
警戒しながら、迅速に。
——居た。
王女の姿形に変化は見られない。ただ一つ違うとするならば、レフィシアが牢の前にやってきた音にピクリと身体が引きつっていた事だろう。
レフィシアはすらりと剣を鞘から抜いて、剣身に魔力を一点集中。本人すら理屈を理解していないが、レフィシアの身体強化は自らの持つ剣にも同等の力を与える事が出来るのだ。道中牢の鍵が見つからなかったので、こうなったら壊すしかない。魔力を集中させれば、その箇所を強化出来る。勿論武器も例外ではなくて、レフィシアほどの実力者であれば、魔力集中させた剣一振りで城壁をも容易く壊せる。
剣を横に、眼にも止まらぬ速さの一閃が暗闇と牢の柵を切り捨てる。
ガラガラと牢の柵が金属音を鳴らし続けて崩壊した。そのまま王女の四肢を拘束している拘束具も全て斬り終わると、王女は力なく前に倒れ込んだ。危ない、とレフィシアは手に握っていた剣を咄嗟に後方へと投げ捨て、前から王女の身体を受け止めた。
とくん、とくん。
王女の心臓の音が、弱くも動いて、伝わってくる。王女の暗闇に溶け込むような艶やかな黒の髪は、毛先の痛みがとても酷いものだった。おまけにろくな食事を取らせて貰えていないのか身体の肉は細くて、レフィシアが少しでも力を強く込めれば壊れてしまうかのように繊細な割れ物のようだ。
王女の年頃であれば、歳相応にお洒落をして、恋をしたかっただろうに。一体何時から、こんな光すら射さぬ異臭の塊に放り込まれたのだろうか?
何も知らない自分を悔しく思い、レフィシアは強く歯を食いしばった。
「とりあえず、まずは早くここから出なきゃ」
王女が無事なのはこの上なく嬉しい事だが、安心して終わりではない。そのまま王女を抱きかかえようとして——きゅっと胸元を緩く掴まれた。
王女がレフィシアの顔を見上げる。ワインレッドより少し明るめの瞳は、虚ろになりながらもレフィシアのラベンダーの瞳を捉えようとしている。
「なん、で。私を……」
「もしかしたら俺は、罪悪感から逃れたいだけなのかも知れない。でも、自分がこうするべきだと思った事からは、逃げたくないんだよ」
改めて王女を抱き抱える。幸いにも王女の体重は思ったよりも軽いが、両腕で抱えれば剣が持てない。
「ごめん。不敬になると思うけど、許してね。両腕をしっかり俺の肩に回して。振り解けないように、頑張って力を入れて」
先に謝っておいてから左腕を王女の太腿に回し、そのまま左腕で王女を抱き抱える。言われるがままに王女も両腕を回してレフィシアの右肩まわりを掴んだ。 自分と変わらぬ年頃の女性をこのように扱う様が初めてで、こんな状況でなければ扱いに困っていた所だ。が、今は気にも留めず後方に放り投げていた剣を右手に取る。
後はひたすら元の道に向かい戻り、走る、走る、走る。
その間、振り落とされないようにと必死に王女はレフィシアにしがみつく。レフィシアも決して彼女を離すまいと、右手に握る剣の握力が徐々に強くなっていった。
階段を上り終わって地下室を出た瞬間、通路の灯りが引っ切りなしに点灯する。今まで闇のように暗い地下室に居たレフィシアは僅か一瞬、眼が眩んだ。王女も数年間暗闇の中に居続けたせいで、急な光にぎゅっと強く眼を瞑る。
左右両サイドから兵士達が武装して、こちらに狙いを定めて走ってくる。レフィシアはすぐ様逃げ道を探すが、残念ながら脱出経路は見つからない。
こうなれば——正面突破だ。
「あの包囲網を一気に突っ切るよ。俺の速度は常人より速いから、ちゃんと捕まってて」
「……ん」
促すと、王女は一層レフィシアに強く捕まった。それをレフィシアは横目だけで確認して、脚に魔力を集中させた。
右側の通路を抜けた先に、人二人は余裕で出入りできる大きさの巨大な窓ガラスがある。入口を目指すよりもそちらの方が距離が短い。狙うとすればそこだろう。
向かってくる弓矢の攻撃を真っ直ぐに駆け抜つつ、当たりそうなものだけ剣で弾き返す。兵士達の密集する僅かな隙間から——一気に第一陣を抜き去った。
巨大な窓ガラスが見えてきた。止まらず真っ直ぐに向かっていく様に流石の王女も何をするのか感じ取れた。三度眼を瞑り、一層レフィシアに強くしがみついた。
レフィシアは剣身に魔力を集中させ、その剣の一振りは窓ガラスを一瞬で割った、同時に、割れた窓ガラスの穴から潜り抜ける。破片が王女に当たらないように気を付けていた反面、自分の事を考えもしなかった為に右腕と右頬を破片が裂いた。戦場でも攻撃を掠った事すらなかったレフィシアは、じんじんと感じる痛みにほんの少しだけ顔つきを歪めさせる。
城壁も周辺の木々を遙かに超えるほどに高く、そして硬度も強固だ。しかし——中央国の最高戦力、中央四将のレフィシアにはそれすらも通用しない。たった一振り。魔力集中させた状態の剣を振るえば、直ぐにぼろぼろと鈍い音を立てて崩れた。
後ろで追いかけてくる兵士には一切目をくれず、更にそこから城の敷地を抜ける。
*
無事兵達は撒いたが激しく強い豪雨は未だに衰えず、気温は著しく下がっている。
レフィシアは常時走り回っているのと、日頃鍛えているので全く無縁の話だ。しかし王女は別。何せ着ている衣服もそう厚い生地ではない。ワンピースも袖のないノースリーブのタイプ。おまけに裸足なのだから寒くて当たり前だ。
一刻も早く宿を取りたいのは山々だったが首都を出なければ追手がすぐに来る。雨のせいで視界が悪い中狭い路地を抜けると、人の気配を感じて右手に持つ剣を構えた。
「殿下、殿下じゃないか!」
「……あ、ああ。えっと、シーザーさん。お久しぶりです。すみません。今は急いでいて」
「いやいやいや。この雨は辛い。特にそこのお嬢さんが。事情は聴きませんし言いませんよ。事情聴取されても〝十代の男女が泊まりに来た〟としかね」
シーザー。この中央国首都リゼルトで宿屋を営む中年男性だ。以前レフィシア率いる小隊はシーザーの宿屋に世話になっており、宿泊していた。この殺伐とした雰囲気を持つ首都リゼルトにしては珍しく王族に対して怯えもせず宿屋としての誇りを貫き通している人当たりのよい人物だ。一度しか会った事がないというのに名前と顔を覚えられたというのにも驚いたが、彼の配慮には胸が熱くなり涙が目に溢れそうになる。
巻き込んでしまう事に対しては頭を下げるしかないが、王女のことを考えるとここは甘えるとしようと思う。首を縦に振り、シーザーの左手に持つ予備傘を受け取った。
宿屋に到着し、ようやく豪雨から解放される。温かな室内はひと息つける程度の開放感を得られた。
宿屋には正面では無く裏口から入る。他の客に姿を見られないようにする為だが、最も客も今ではベッドに寝転び夢の中だろう。
裏と表は仕切られており、裏はシーザーとその孫の住居となっている。廊下を少し歩くと一つの部屋にたどり着く。設備の整ったキッチンと食事を行う為の木のテーブルと椅子。それから寛ぐ為の深緑色のソファーが数点。
「おじいちゃん!おかえ——うわああっ」
「こら、アデーレ。大声を出すんじゃない」
アデーレ、と呼ばれたのはおおよそ二十代前半の茶の髪を上にひとつ結びした女性。キッチンで手際よく野菜を炒めている。調理の最中に目に映った大物に対して、分かりやすく大袈裟な声と反応を示す。
それもその筈。こんな深夜に、しかも裏口から、何も知らされずに王弟殿下が来たら誰だってそうなる。
ジュワワ、と焼かれながら放置されている野菜達にようやく我に帰ったアデーレは慌てた手つきで炒める。そんなアデーレを見兼ねたシーザーがアデーレの隣までやってきてアデーレの右手に持つ木べらを引ったくった。
「わしが作っておく。アデーレ。殿下とお嬢さんの替えの衣服を見繕え。殿下とお嬢さんは風呂にでも入って温まるとよい」
「りょーかい! さ。殿下。それからそちらの子も。案内します」
「あ、あの……」
アデーレは調理をシーザーに任せて、部屋の入り口前に呆然と立ったままのレフィシアや王女の方に足を運んだ。出来る限り声のトーンを抑えて、王女の目線に近づけるよう膝を折る。だが、そこで今ここだと思った王女が小さく手を上げた。
「私、お風呂に入るの、多分、久しぶりで……その……」
「え? そうなの?」
「詳しい事情は余計に巻き込むから教えられないけど、多分結構そういう環境にあったと思う」
「……分かりました。それじゃあ私が手伝わせて頂きますね。最初に殿下が入られますか?」
「いや、俺は後でいいよ。先におう……その子を入れてあげて」
「畏まりました」
ようやくレフィシアは王女を下ろして左腕が自由となったが、王女は未だにレフィシアから離れようとはしない。
瞳が弱々しく揺れている。アデーレに対する警戒と不安からきているものだろうか。
レフィシアは王女を自分の方に引き寄せると、王女の背に両腕を回して、右手で壊れ物を扱うかのように背を優しくさすった。
「大丈夫。ここには君を、君という人の存在を否定する人物はいないよ。痛い事、酷い事、辛い事もない」
大丈夫だから。
その言葉を繰り返す。
王女は気が抜けたのか、両腕をレフィシアから離したと同時に力なく廊下に座り込んでしまった。それをアデーレが苦笑しながらも起き上がるのに手を貸す。
二人の後ろ姿を見守った所でレフィシアはシーザーの待つ部屋へと足を踏み入れた。
キッチンからは野菜が炒められた香ばしい匂いが漂ってくる。
食欲をそそられてはいるが、深緑色のソファーに座り身体を横にした。いくらレフィシアといえどやはり人の子。疲れない筈がない。ずっと誰にも気付かれないように計画を練りに練り上げてきた。その精神的疲労がレフィシアの心身を蝕み始める。計画はまだまだ途中にすぎないが、第一段階が終わった事でぐったりと疲れ切った様子で天を仰ぐ。
吊るされた灯りに、思わず眼を細めた。