四十九話:なくしたもの
キリ的な意味でも今回短めですが、追加執筆訂正時にもしかしたら増えるかもしれません。
次回まじでいよいよやばいです。
記憶の錠はほころびて、扉はガコリと唐突に開かれた。かつてない記憶の情報の圧にほんの一瞬だけ視界が白く染まる。
元から後少しで思い出せそうな感覚はあったけれど、よりによって何故今思い出したのだろう。
——関係ない。
ぐしゃり。
あの時の男が、生々しい音と共に氷の槍で私の身体を貫く。
自分でも悟った。
——ああ。これは助からないな。
後方からも突き刺された感覚は覚えている。
きっと彼が迎撃しようと小型のナイフか何かを携帯していたのだろう。きっと、それだ。
霧がかった視界。
眼前に黒い幕が降りてくるのは、私の終わりがもうすぐそこである証拠。狭くぼんやりとした私の視界にはかつて愛した彼の整った顔が、私の返り血を半分浴びていた。
最後の言葉。
さいごのことば。
言わなければ。
伝えなければ。
そう思って口を紡ごうと開いても、喉に血が詰まって、それが苦しくて堪らない。
思い出した記憶と、今の自分。
酷く混乱はしているけれど、それ以上にとさらに強くなる意識の薄れに争い、喉の血の詰まりにも耐えながら振り絞った。
「レ、フィ……シ……ア…………」
二年前の事、約束など、彼の様子を見たらきっと覚えていないだろうけれど。
私は覚えている。思い出した。
でも、もうそれも叶わない。
さようならも、ちゃんと伝えられない。
*
小刻みに震えた両腕で、彼女を支える。
改めてこれが現実なのだとレフィシアは思い知らされて、両膝を折って雨のように涙を落とした。
——ああ。助からない。
これはもう、確実に死を迎えた。
顔色から血の気が抜かれ力ない人形と化した身体を支えながら、レフィシアは自らの身体に少し引き寄せた。
「嫌、だ…………こんな、結末で……君と、別れるのは…………やだよ……」
レフィシアにとって、彼女は——リシェントは抗う為の心の支えであり。
だからこそ惹かれていき、愛しく思っていた唯一の人である。
それが三年前の事件と似たような場面で、よりによって彼女が庇った。
愛しい者の死と、過去のトラウマ。
両方がレフィシアの感情を悲しみの底に突き落とし、蓋をしている。
「あーあ。それはもう駄目だね。確実に死んでる」
「……とはいえ、新鮮な王族の血は美味いぞ」
「ボクは血とか飲まないから美味しさについては理解に苦しむ」
淡々と関係のない会話を繰り広げていたキアーと紅に、レフィシアは突き上げてくる怒りを覚えて顔が赤くなる。自制できないほど震えて、いつもよりもより大きくラベンダーの瞳を開く。
ようやくノエアが到着して、レフィシアの右横で片膝をつこうとすると。
——これは確信と直感の矛盾だ。
ただ一つ。やらなければならない事。
ノエアはひったくるようにレフィシアの右肩を思いっきり引く。
「シア! おい! シア! しっかりしろ!」
呼びかけには応じず、レフィシアの五感と心はそこには有らず——。
一般兵達の動きも止まった中、ミエルも駆け寄ってくる。ジュンやナエは敵の動きを警戒してその場から動けて居ないが、視線だけは現場の方に向いていた。
*
『だから言っただろう』
——聞き覚えのある声だ。
相手の低い声が、恐ろしいまで白く広い空間に木霊して脳にも波紋のように響く。
『あやつは死亡した。間違いなく、死を迎えた』
——事実を突きつけられて俺は地面に膝を折る。
またも大粒の涙が止まらなく溢れて、溢れた。
『助けたいか? 助けてやろうか?』
——彼の力ならそれが出来るだろう。
だからこそ、この言葉が俺にとって救いの手にも思えたのだ。
『お前はあやつを愛している。私もまだあやつを生かしておきたい。生きてほしいというだけなら、お前も私も同じだが……相応の対価は払ってもらうぞ』
——対価とは何か。
俺は折った膝をぴんと立たせて這い上がる。
『私本体は人の庭に出るのは……出来なくは無いが、したくはなくてな。代わりに貴様の身体を借りる、が、返すつもりは今のところ無い。つまり、貴様は我に身体を乗っ取られたままになる可能性もあるという事だ。私の気まぐれ次第という事だな』
「俺の事は、どうだっていい。リシェントや……皆が無事なら」
『良かろう。あやつとお前の仲間にはこちらからは手出しはしない、が……向こうから手を出してきたら、その時は死なない程度に傷をつけるぞ』
「……許さないけど、その時は俺が意地でもお前を引っぺがすからな」
『ほう? 出来るものならやってみせろ。 では、交渉、成立だ』
——思った通りだと、彼は口角を上げた。
清らかな純白の身体。その両腕を伸ばし、その両手で俺の頬に触れて顔を持ち上げる。
雪のようにひんやりとした訳でもなく、夏を照らす太陽光のようにじりじりした熱さでもなく。
人としてのほどよい体温でもなく。
触れられても、触覚からは何故か、何も感じない。
ぺたぺたと素足で更に寄り添われ、顔同士が近くなる。
人の血のような赤黒の右眼。
俺と同じラベンダーのように華やかな左眼。
その中に渦巻く感情は、俺には全く分からない。
でも——何気なく、雰囲気はかつての俺と似ている気がして、他人事とは思えなかった。
『今、貴様の脳に〝譜〟を流す。我と共にそれを謡え』
「……分かった」
脳に知らない情報が加速して、刻み込まれていく。
『始まりの祖。此処に神体を与える。——ホライゾスの四姉妹』
「アルニム、テュテュス、フティリス、モフェリア」
『海と大地』
「イクルプルス、ヴォロス」
『死と時間、そして知能』
「モース、クロイア、メーティル」
初めて知ったものだというのに、発音まで迷いなく紡げる。
「——」
最後の言葉を声に出した瞬間、俺の意識はそこで途切れた。