三十七話:一時休戦
「ボクもちびっこ陛下と話してきただけだよ。数日は滞在する予定なんだけど——お腹空いちゃった。君達もご飯がまだなら、一緒に食べない?」
唐突と目の前に現れたと思えば手を腹に当てて空腹をアピールしてくる。確かに遠征中は専属の料理人も居なければ貴重な食料は節約しなけれはならない。空腹は満たされても満足感は得られないのだ。この中で事情を誰よりも理解しているレフィシアだが、だからと言って目の前の裏切り者に一切手を出さないというのはどういう考えなのか分からない。
にこにこと顔だけは笑んでいる彼は基本的にいつもこんな感じだ。
飄々としていて、アリュヴェージュ以外の人物や物事に一切の執着が無く、アリュヴェージュ以外の目上の人物には一見機嫌をとるためにへつらってはいるがその中身を開けてみればぐちゃくちゃとおぞましい位に闇が深い。
今だってそうだ。
自分に有利になる状況を作る目的で敵意を悟られないようただ笑んでいるだけ。瞳の奥底に渦巻いている殺意を、レフィシアは捉えて見逃さない。
レフィシアは下手に自分が答えれば争いになりかねないと慎重に言葉選びを脳で浮かばせていると、薄緑のツインテールを揺らしながらミエルが前に出た。
「いーんじゃないかな」
「ミエル!」
「空腹には逆らえないのは誰だって同じでしょ? おじーちゃんが大丈夫そうで、おじーちゃんに材料費を払えば、問題ないんじゃないかな?」
穏便に済ませるなら確かにその通りだが、あまりにも冷や冷やさせられてしまう。レフィシアはゆっくりと老人の方に振り返り互いに相槌を打つ。
「……よかろう」
「やった! 遠征中はちゃんとしたご飯、食べてなかったんだよね!」
「ただし、中央四将——それもルファニア公爵の義息の方にお出し出来るほど、ワシの料理の腕は良くはないが」
「いいよいいよ。遠征中の食事より全然マシだと思うから」
食べられればそれでいいという精神なのは、余程プライドの高い貴族を除いた軍人の基本スタイルだ。遠征中、一番避けなければならないのは餓死なのだから当然だろう。だが遠征中もおいしいご飯を食べたい気持ちは当然出てくるので、キアーは頭部の白耳を嬉しそうに立てて喜びを露わにした。
*
「ご馳走様でした。美味しかったよ。キミ、いいお嫁さんになれるよ」
老人の家で食卓を囲んだが、本来敵に回る将と食事を共にするのは雰囲気がいいとは言えない。本来は本来ならば老人が料理を振る舞う予定だったが、調理器具を取り出そうとした際に腰を痛めてしまった為、代わりにミエルが食事を振る舞い始めた。五人分の食事は全て平らげられている。
「えへへー、それ程でもないようなー、あるようなー」と照れ臭そうにミエルは笑いながら食器の後片付けに入った。食器洗いくらいは手伝おうと椅子から立ち上がろうと足のひらを浮かせたジュンだが、その前にキアーが素早く立ち上がって残りの食器を重ね合わせる。
あまりにも慣れた食器の下げ方にミエル本人も開いた口が塞がっていない。
「名前、聞いてもいいかな?」
「ミエリーゼ・ウィデアルイン! まあ気軽にミエルとでも!」
「ウィデアルイン……」
ウィデアルイン家の仇の国の将だというのにも関わらず、いつも通り明るく振る舞うミエル。きっと思う所はある筈なのに笑顔を絶やさないようにしているのは容易く出来るものでは無い。レフィシアは素直に感心しながら水を口に含むと、ごくりと水が喉を通った頃にキアーはジュンの方に眼を向けた。
「で、そちらのキミは? 報告に上がっていた子かな?」
「ジュン・サザナミっす」
「変わった名前だね」
「あはは……」
やはり、中央で起こった事ならキアーが把握していない筈はないか。ジュンには死霊術士やモルプローヴ大陸の件については釘を刺しておいたが、キアーの問いを上手く回避できるのだろうか?
レフィシアは神経を張り詰めるように、肩を上に引きつらせた。
「何処から来たの?」
「き、北国っすよ」
「へえ。北国の何処ら辺?」
「シュ、シュピエルゲン……」
「へえ。セアンを越えた先の小さな村か。流石にそこまでは行けないな」
ジュンが何故シュピエルゲンの場所と名前を知っているかは……多分霊にでも聞いたのだろう。とはいえ、キアーは何とも消化しきれてない渋い顔つきをしている。これ以上問い詰めた所で上手く誤魔化されるだろうと諦めの意を込めたため息をついていた。
キアーが遠征に赴く理由は読めている。
政治関係、戦関係の二択。アリュヴェージュの側近としてやるべき仕事が当時のレフィシア以上に積もっているキアーが、ちょっとした理由で離れる訳がない。
「……兄さんは、今、どうしてる?」
「それには答えない。生きている、としか答えない。お前には、教えない。アリュヴェージュは許容しているし、アルフィルネや紅は何とも思ってないようだけど、ボクはお前を許してはいない」
これは単純なる怒りと嫉妬である。
ぐつぐつと煮えたぎった感情が、隠し通してきた殺意を外へ剥き出しにさせた。中央を裏切った事実は覚えているが、どのようにして裏切ったまでは伝えられていない。否、方法など関係なく、レフィシアがアリュヴェージュを見捨てたという事実。ただそれだけがキアーの感情を負の方向に向かわせている。
「……まあ。ボク達の邪魔をしないなら、戦いはしないさ。邪魔をする、そして、アリュヴェージュの命令が入れば——容赦はしないけどね」
ぞっと背筋の凍るように冷ややかな様はレフィシアでさえ身震いを起こす。
「じゃあ、ボクは行くよ」と食器だけしっかり片付けておいて、キアーは背を向けた。それを、ジュンが縋るように引き留める。
「あ! あの!」
「どうかした?」
「あー……いや、その、やっぱ、何でもないっす」
「そう言われたら気になるなあ」
キアーは先程の殺意と負の感情はくるっと反転して、いつも通り飄々と装う笑みを浮かべた。こんな状態の彼に一体何を聞こうとしているのかとレフィシアはただジュンに眼をやる。
「人を、探しているんすけど。こう、中央軍の情報網とやらで、知らないっすかね」
「人を? 名前と特徴が分かれば」
「えと……俺より少し歳上、で、女の子、で、瞳の色は群青で、白に近い銀髪で、後ろを二つ縛りにしてて……多分オレのようにこのコート、と、この腕章がどこかにあって、名前が〝サヨ・タチバナ〟」
サヨ・タチバナ。
モルプローヴ大陸の皇女であり、ジュンの所属する死霊術士協会の責任者。自らもまた死霊術士として、たった五人しかいない特別階級を持つ者だと、ジュンはレフィシアやミエルに説明を施していた。
キアーはジュンとサヨという人物との関係性を問うが、ここは違和感なく先輩や上司のようなものと上手く誤魔化しが効いたようだ。キアーは手を口元まで引き寄せてほんの数秒、黙りこくる。やがてそれを離してから、一言。
「知らないよ」
ほんのただの一言だ。ジュンは残念そうに眉と肩を下げている。老人は事情も知らずただ人探しをしているのだろう程度の考えであるが、キアーと付き合いの長かったレフィシアだけは違う。この場の誰よりも、キアーの事を知り尽くしている。
彼は基本的に嘘はつかない。なので知らない、という言葉は間違ってはいないだろう。
ただ彼は「これは知らないが、これそのものを知らない訳じゃない」を当然のように思っている。都合の良い時は全て包み隠さず話し、都合の悪い時は違和感を与えないように隠して話す。
この場にいる他の三人がそれに気づいていないだけで、レフィシアは眼を細めながらキアーが去るその後ろ姿を見送った。扉が閉じられて彼の背が見えなくなり、窓からそれを確認した頃にミエルが今までにないくらいの大きな息を躊躇いなく吐く。
「……はーーっ!! 緊張したァーー!!」
「え、緊張してたんすか!? 全然そうは見えなかったっす!」
「無理無理無理!! ほんと無理!!」
表情筋が緩み、ミエルは首をぶんぶんと勢いよく横に振る。フォロースルーでツインテールもつられて横に靡く。