五話:血飛沫に染まる朝空
「とうさま、このきは?」
一本の花の樹を見た幼き日のレフィシアは首を傾げた。
自分よりも遙かに空に近い大きな樹。淡いピンクの色の花びらは数百、数千、数万はあるだろうか?
枝に芽吹き咲き誇るそれは、緩く暖かな風に誘われるように花びらが流れゆく。
「これは西の国に山程芽吹く〝サクラ〟だ」
「ふうん、変わったなまえだね」
「そうか? 私は冒険心をくすぐらされるぞ。この樹の種はな、〝王を決める戦い〟以前から存在していたらしい」
国王陛下——クラウディオ・リゼルト・シェレイ。その暖かみを帯びた橙の髪と、ラベンダーの花のように澄んだ瞳は親子共に遺伝している。クラウディオはくっくと小さく笑いながら、自分よりも小さいレフィシアの頭を真上から撫でた。
「〝王を決める戦い〟は生命誕生以降、統一者の存在しなかったが故に始まったとされているらしい」
「ねえとおさま。さっきから〝らしい〟ばかりであいまいだよ?」
「……分からんのだよ。誰も。正しき歴史を紡いできた者が。どうしてこの世界が生まれてきたのでさえも、神様がいるのかさえも」
何処か寂し気に鼻で笑ったクラウディオに、幼きレフィシアはよく分からないと三度首を傾げた。
神、とはどのような存在なのだろうか。あの父が様付けで呼ぶのだろうから相応の人物なのだろうか。まだまだ単純的思考しか浮かばないレフィシアに「おとぎ話と思い、笑うとよい」とクラウディオは語る。
そういえばと思い立ったのは、レフィシアは身分相応に高度な教育を施されてはいるが、世界誕生の話は聞いた事がない。家庭教師ですら所々口を籠らせていた部分もあったなと今にして思う。だかこそ誰も世界について知ろうとはしないし、したとしても信じ難い話というのがこの大陸では常識と化しているのかもしれない。
「所でアリュヴェージュはどうした?」
「にいさまならキアーとどっか行ったよ」
「またあいつは、やんちゃが過ぎるな。次期国王としての自覚があるのかないのか……」
*
ちゅんちゅんと可愛らしく鳴く小鳥達の鳴き声が朝を告げると共にカーテンの隙間から弱々しくも太陽の光が差し込んでくる。ざあざあと耳に響く豪雨は過ぎ去って、ぽつぽつと屋根を伝った滴の音が一定のリズムで音を鳴らした。
いつもとは違う違和感を感じて、寝ぼけながらレフィシアはゆっくりと重い瞼を開く。
王女の背に両腕を回して身体を密着させたまま寝ていたのだ。一度思考を止めてしまったが、すぐに昨晩の出来事を思い出した。昨日の自分はどうかしてたなと反省の意をほどほどにしておくと、タイミングよく王女の瞼もゆっくり開かれた。隙間から、ワインレッドの瞳が露わになる。思わず見惚れてしまったのだが、精一杯平然を装った。
「おはよう。よく眠れた?」
驚かせないように小さく囁き声で声をかけると、王女は小さく頷いた。まだ眠そうにしているようだが、残念ながらそのリクエストには答えられそうにない——。
*
「おはようございます、殿下。昨晩はお湯に浸かっていないでしょう?」
「ああ、そうだった……急ぐから、軽く浸かる位にしておくよ。それまで彼女の事任せていいかな」
「畏まりました。代わりの服、こちらです」
「ありがとう」
一階に降りると、朝食作りに取り掛かろうとしていたアデーレが代わりの服を用意しながら小走りで出てきた。代わりの服を受け取ってから王女に「じゃあ、待っていてね」と一言を残して浴室へと向かう。
準備していてくれたのか、既に湯が張っていた。肩まで深く浸かりゆっくりと息を吐く。
問題はこれからだ。
先程まで着ていた服——中央軍の軍服には防御魔法が施されていて、弓矢や実弾銃の攻撃もある程度は防ぐ事ができる。だが軍服はとても目立つ故、着ないとしたら防御面はほぼ期待出来ない。
それでもレフィシア自身の実力があれば余程の事がない限りは負けはしないだろう、自身もそう実感してはいるが、一番最悪なパターンとして他の〝中央四将〟に先を越されてしまう事だ。
北国の総大将ロヴィエド・シーズィには内密で協力を仰いだ為情報は漏れてない筈だが、不安は募るばかり。
風呂から上がり、変えの服に着替えたレフィシアは顔立ちと雰囲気だけは王族の、服装だけ平民化していた。鏡を確認して、これで変装仕切れているか自分でも不安になってきた。
予備のフード付きコートを羽織るのは必須だなと考えて、そのコートを羽織り、フードを深く被る。
準備が終わった後にアデーレの元を尋ねると、なぜか顔をニヤつかせながらこちらの様子をチラチラと伺うアデーレ。一体何があったのだと素朴に呆けていると、アデーレの隣にいた王女の身だしなみが随分と整っているのに気が付いた。
黒の髪をバランス良く整えて、服装も平民と何ら代わりのない黒のワンピース。フード付きのコートは焦茶。その色と同じロングブーツ。ドレスのように派手に着飾ってはいないが、それが逆に王女自身を引き立てるように見えた。
「……ちょっと殿下! 感想は無いんですか感想は!」
「えっ、あ……そう、だね。うん。見違えた、かな……」
アデーレに促されて、慌てて思いついた感想をどうにか言葉にした。照れくさくはあったが、昨晩よりかはマシだと思えばこれくらいは我慢ができる。何度もそう心に言い聞かせるとすぐ平然に戻れた。落ちついた雰囲気に包まれた中で——。
「!」
「キャアッ!」
「……ッ」
連続した銃撃音が表の宿から裏のこちら側まで響いて木霊する。がたがたと震えた手つきでアデーレが裏の家と表の宿を結ぶ扉を開こうとして、レフィシアが強く引き留めた。何が起こっているか分からない状況下でいきなりは危険だという判断からくるものである。
レフィシアはそのまま扉越しに聞き耳を立てようと扉に耳を当てようとした——その時に。
「アデーレ!」
「……!」
祖父——シーザーの声。
アデーレはすぐに分かった。只事では無い、
レフィシアの手を強く振り解いて、ドアノブを一気に引く。
「ひ……っ」
表——宿の一階、受付の空間は辺り一面に血が散り溢れていた。
倒れ込む客には家族連れだと思われる男女と小さな幼児。手を繋ぎながら生気を無くした目をした男女。老人諸共年齢問わず。おおよそ十人前後。
扉を開いて表に出たアデーレの丁度真横には、身体が自らの血で半分以上濡れたシーザーが、力なく横たわっていた。
「おじい、ちゃ……」
アデーレがシーザーの身体を支えようとしゃがみこもうとした、直後。
銃弾を剣で跳ね除けた高音に、アデーレは身体を引きつらせる。アデーレに向けられた銃弾をレフィシアが剣で跳ね除けた音だ。普通なら銃弾を剣で弾く事など相応の実力が無ければ出来ない芸当だが、レフィシアほどの実力なら簡単なもの。横目でレフィシアはシーザーを視界に入れるが、助かるかどうかまでは脈や傷口を確認するまで分からない。
「(王女だけなら……)」
まだ裏にいる王女だけならば抱えて逃げ切れるだろう。しかし、このまま瀕死のシーザーや後に殺される可能性が高いアデーレを放っておくなど出来る筈もない。
宿に押しかけるようやってきたのは中央軍、近接戦闘部隊。主に剣や槍の武器とハンドガンなどに長けた部隊で、レフィシアは彼らを先導した事がある。その近接戦闘部隊の集団を乱暴にかき分けて、やってくる人物が一人。
「ああ。レフィシア。キミはなんて事をしたんだッッ!!」
「紅。日光を嫌う君が、何でここにいるんだ」
「それはもう!〝リシェルティア・セアン・キャローレン〟を連れ戻す為さ! 私はな! 確かに日光が嫌いだ! 日光に当たり続けば! 更に情緒が不安定になり! こうして狂うからねえ! 下手したら自分で自分を殺しかねない奴もいるのさ! 」
白に近い水灰の髪はただでさえぼさぼさとしていたというのに、それを両手で頭を抱え込むようにして力強く掻き毟る。
その反動で今まで隠されていた仮面はカタリと音を立てて落ちた。瞳は髪よりも濃いめの水灰で濁った瞳をしている。顔立ちは整ってはいる方だと言えるが、この状態の紅を相手に誰もが恐ろしい悪魔を見るように一歩引き下がっていた。
他の兵士達ならともかく、〝中央四将〟の一人である紅も相手にこの状況——流石のレフィシアも考えを纏め切る事が出来ずにいる。
「……殿下。私達の事は、もう、いいです。その子を連れて、先に行ってください……」
大粒の涙を流しながら、震えた身体とギリギリ振り絞った震えた声をアデーレは発した。
「アデーレさん……いや、それは……」
「おじいちゃんも、私も、こうなる事、は、想定の範囲内、だったと思います……。それに……」
ピクリとも動かない。事態を飲み込めていない王女の方を見て、アデーレはどうにか必死に笑顔を作った。
「殿下にも、その子にも、幸せになってほしんだもん。その足手纏いになんて、私もおじいちゃんもなりたくはないよ……紅って、あの殿下と同じ最高戦力の、中央四将でしょ……殿下なら、どれが最善か、分かってるよね」
「分かってる! 分かってる! それでも……!」
「殿下の目的は何ですか! ここで躓いてる場合じゃないでしょう! 迷わないで下さい! その子の為にも!」
——そうだ。
必ず、守ると誓った一人の女の子。
だからと言ってそれが今別の命を犠牲にしていい理由にはならない。
——それでも。
進まなくてはならない。
どんなに人の死を見たとしても、恐れて歩みを止めてはいけない。
「アデーレさん」
動けない王女を左腕で一気に抱き抱える。王女は反射で両腕を回した。
「……ありがとう」
「こちらこそ。さようなら」
瞬間、レフィシアは脚力に魔力を集中させた。
兵士と兵士の僅かな隙間。足りない分は右手に握る鞘から抜いた剣で払う。中央四将といえど得意分野や実力差、弱点などは様々。紅の場合、氷魔法と固有魔法が得意分野であるが、日が次第に強く差し込んでくる現時刻では本来の実力を発揮できない。今の彼相手なら抜き去れる。
レフィシアはそれを確信したからこそ、王女——リシェルティア・セアン・キャローレンただ一人を抱え、そのまま宿の外に出た。
同時に、背後から酷く高い女性の断末魔の叫びが二人の耳から脳内に響いて木霊する。
振り返ってはならない——。
後に王弟殿下を追走する兵士達と、遺体の事後処理班の兵士達の二部隊に分かれた話がリゼルト国全体に大きく広まった。
勿論、レフィシアと王女はそれを知らない。