四話:ぬくもりに包まれて
——王女が九歳の頃。
拠点の視察という目的で首都セアンから、東国の境界線近くの街——ウェハリダリダでの話だ。中央軍のワイバーン部隊と魔法士部隊の混成部隊による北国襲撃が行われた。何故襲撃などという手を使ってきたのか、何が目的だったのか。その理由は未だ発表されていない。
当時の国王陛下、王妃殿下、そして王女を守る為に戦っていた兵士達であったが、当時襲撃部隊の兵を率いていた中央四将、紅の力を前に、過半数が命という灯火を消していった。
その後、紅は北国の兵士にお構いなく、王女を連れ去って撤退していく——。
王女の思い出と呼べる思い出は、ここまでだ。
まだ幼い王女にとって、両親との幸せな生活よりも、攫われてからの生活が長く感じるのは火を見るより明らかだった。
勿論、初めこそ抵抗した記憶はあった。
それも叶わず。
時が過ぎるにつれ諦めを抱いていく。
流されるがまま、あるがままに身を委ねた。
痛い、痛い、痛い。
苦しい、死ぬ、死ぬ、死ぬ。
何度も繰り返した事だろう。
歯を喰いしばって我慢しても、拭えない。
実験。監禁。食事。
毎日はそれの繰り返し。変化など訪れぬ。
月、年が流れようとも変わりはしない。いや、王女にとっては既に何の月で何の日なのかというのはもうどうだってよかった。
自分がどんな実験に利用されどうなろうとも、どうする事も出来ていないなら意味はない。
でも、いっその事ならば早く楽になりたい。
王女は自殺の手も考えていた。しかし、それも誰も叶えてはくれない。
王女は思考するのをやめた。
表情や心からも感情が抜け落ちていった第一歩である。
「聞こえる? 返事、出来るかな」
——既にそのような状況の王女の前に、牢の外で見慣れぬ青年が現れた。幸か不幸か、王女とて長年地下室にいれば出入りする人間の声や顔を覚える記憶力くらいは残っている。
この人物の声は聞いた事がない。もしかしたら新人なのだろうが、自分には関係がない。
王女はそのまま頭をぐったりと下に下ろしたままの状態を保った。前髪の長さに隠れ、青年の姿も視界に入らない、否、入れようとする気も起きない。
だというのに、この声は王女に声をかけ続けた。
「……二十日欲しい。二十日後に、俺は必ず、君を迎えに行くから」
声色が今までの誰とも違う。
とても暖かくて、手に取りたくなる。
「それまで、人であり続けて。生きるのを諦めないで」
青年が立ち去ったと思われる足音が地下室に響いて、そして、終わった。
今まで数え切れないくらいに願った自由を、叶わなかったそれを、今更望んでいいのだろうか?
……無いな。
王女は首を振り、眠りにつく——。
*
「どう?お湯の加減」
「……大丈夫」
「そっか。ゆっくり浸かってね。髪、洗える? やろうか?」
「……ん」
アデーレは濡れても問題がない服装に着替え、王女を湯船へと入れさせた。
湯を沢山沸かせた湯船は王女の感じていた肌寒さを一気に吹き飛ばす。アデーレが王女の髪を手櫛を通すとやはり殿下の言う事は本当だったんだなと思い、心の中で頷いた。年頃の女の子にしては髪の手入れが行き届いていない証拠を見て、丁寧に洗ってゆく。
ここまでアデーレが感じた事といえば、この少女の身体には至る所に縫合された痕が残っている。そして年頃の女の子にしては口数があまりにも少なすぎる事。最後は当たり前の常識も分かっていない所だろう。平民の出でもここまでの人間は居ない。
「……あの」
「どうかした?」
「……えっと、失礼、とかだったら、ごめんなさい」
「へ!? いいのいいの! で、ご内容は?」
「助けてくれた……でんか、って言われてた、ひと……」
「あ、ああ。殿下——レフィシア様の事?」
レフィシア・リゼルト・シェレイという名と簡単な人物概要については他国にまでそれが轟いている。が、顔自体は中々お眼にかかれないだろう。知らないのも当たり前かとアデーレは納得するように頷く。
「どういう、ひと?」
「レフィシア様が? そうねー、この国の王弟殿下……えと。国王。うん、王様の弟ね。で、とにかく強ーい剣士様。戦の事はよく分かんないけど、普段は穏やかで、人懐っこくて、気さくな人……かな。私個人としてはそんな感じだと思う」
「私を逃した事で、罰は受けない、かな」
何気ない王女の疑問は、最もな言葉である
アデーレはピタリと身体を硬直させた。湯気に当てられたか違う理由なのか、頬に汗をかき始めた。
レフィシアの兄〝アリュヴェージュ・リゼルト・シェレイ〟国王陛下。
彼はレフィシアとは大違いで、民であろうと貴族や王族であろうと一切の慈悲も無いとされている。唯一無二、弟であるレフィシアには甘いので、それが理由でレフィシアにつけ入ろうとする人々も少なくは無いのだ。
さて、問題は慈悲の無さが政治にも及んでいる点だ、まずは給金と税。軍事国家が故に武器職人などは平民でも実力が認められれば高い給金が約束されている。一方で給金が少ない職も存在しており、貧富の差が激しく目立つ。
極貧層が居住しているスラム街がいくつか存在しているのにも関わらず、国はそれを取締していない。城に近い城下や首都街の騒動は鎮めてくれる事から、極貧層には用がないという国の考えが安易に丸見えだ。
そんな国を築いてきた中心人物である国王陛下が幾ら家族だろうとレフィシアを無罪とするのだろうか?
アデーレの沈黙が続く中で答えを促すのではなく、肯定だと察してそれ以上を聞き出すのを止めた王女が話を切り替えた。
「あの、もういいです。あったまりました。これ以上浸かると……今は、このまま寝そうです」
「そ、うね。じゃあ、上がりましょうか。私も替えの服に着替えないとね。一緒に着替えよっか」
「おじいちゃーん、お風呂上がったよ〜」
「ああ。もう料理は出来たから、食べてくれ」
別の衣服に着替えたアデーレが、風呂上がりの王女と手を繋ぎながらやってきた。どうやら信用はされたようだなと微笑ましい眼を向けたシーザーは、食卓が並ぶテーブルに視線を移す。調味料で味付けされて肉と野菜を炒めたものと、ポタージュスープ、パンの三品である。牢での生活ではあり得なかった食卓に王女の腹が虚しく鳴り始めた。
「そういえば殿下——あれっ、寝てる?」
「気づいたら寝ておった。相当疲れておったのだろうな。何せ三日前までは北国に遠征していたらしい」
「あー……それはありそう。しっかし寝ていればただの男の子、だよねえ」
「不敬じゃよ、アデーレ」
「平気だって! こんなにぐっすり寝てるなら気付かないって!」
アデーレとシーザーが話しながら飲み物の準備をしている中で、王女はソファーで眠りについているレフィシアの顔を恐る恐る覗き込む。
僅かにまだあどけなさが残る寝顔に、先程までのアレとは本当に同一人物なのかと疑ってしまう。もう少し近くに寄ると静かに吐息が聞こえてきて、深い眠りについている。
そっとしておこうと思って、王女はアデーレとシーザーの所へと戻った。
「殿下は朝の方が良さそうじゃな。ソファーで寝ていたら首も痛くなるだろうし、わしが部屋まで運……」
「おじいちゃん、腰痛で五日前退院したばかりじゃん。私が運んどく」
「ぐぅ……ッ!」
孫に痛い所を正論で返されて、ぐうの音もでなくなったシーザーは小さな風船でも作るように口を膨らませた。これ以上祖父の腰には負担をかけさせまいとアデーレがレフィシアを寝室にまで運ぼうと思ったが、身分差に一瞬躊躇い手が硬直する。
——いやいや、運ぶと言ったら運ぶんだ。
アデーレは躊躇っている自分に強く言い聞かせ続けている間際。自分より年下の、更には先程まで他人に怯えていた王女が軽々とレフィシアを横抱きで上げて見せた。
俗に言う、お姫様だっこ状態である。
恥ずかしがる事もなければ躊躇っているかと言えばそうでもない。重そうにもしていない。特になんて事は無いといった静かな表情のまま「案内してください。私が運びます」と言ってきたものだから、ここは大人しく皇女にお願いする事にしておいた。
「(あっ、これ。殿下に教えたら色々と駄目そうなやつだな。男のプライド的に)」
そんな事を思いながら、アデーレは先行して階段を登り、寝室へと案内をした。
一室の扉を引くと、木の壁は白く塗装されていて、そこに木のシングルベッドがひとつ。そう高級な宿ではないのでこれで許してねと王女に一言つけ加えておき、王女は白のそこそこふかふかな布が敷き詰められたベッドにレフィシアを横に寝かしておいて、静かに二人は退室した。
*
「ごち、そうさま、でした」
「じゃあもう寝ようか。でも客室は一つしか無いんだよねー……私の部屋で一緒に寝る?」
「……あの。寝るのに床に敷くものとか、ありますか」
王女は機嫌を伺うようにしてそれを問う。
——ああ、殿下の隣に居たいんだな。
アデーレはすぐに分かった。
二人に何があったのかは知る筈もないのがレフィシアが王女の身を案じているように、王女もまたレフィシアの身を案じている。それを察せないアデーレではなかった。
レフィシアの眠る寝室の押入れから敷き布団をひとつ、床に敷いてあげる。ついでに枕も置いてあげた。
「私の部屋はさっきの階段のすぐにあるから、何かあったら声をかけてね。起きれるようにするから。じゃ、おやすみなさい」
極力音を立てないようにアデーレは部屋を出た。それを見送ってから改めて王女は敷布団の中に潜ってはみるが、上手く眠りにつけない。
それもそうだ。
あまりにも有り得ない出来事に、目が覚めたらまた何時もの日常に戻ってしまうのではないかといった結末を考えるだけで身体はぶるぶると震えた。ガチガチと歯軋りも起こす。
その時。
震えた身体が元に戻る、温かみを帯びた声がした。それが誰なのかを一瞬で察して、王女は勢いよく敷布団から起き上がった。
「……あれ、そうだ……王女……」
ゆっくりと眼を開けて意識を戻したレフィシアだったが、まだ睡魔が抜けてはいないようだ。今も油断してればすぐに眠ってしまうだろう。それでも小さく欠伸をかいて起き上がろうとすると、突然隣まで王女がやってきていて、上から顔を覗き込むようにして見ていた。やがてそれに気付いて身体を引きつらせる。
「うわっ、ね、寝てた!? いつから!?」
「私が、お風呂に入ってる、間らしいよ。殿下のご飯は朝の方がいいかって、言ってた」
「そっかー、気を遣わせちゃったかな。後で謝っておかないと。早朝には出なきゃいけないから、王女も寝なよ。こっちのベッド、譲るから」
レフィシアはベッドから起き上がって、まだ寝ぼけながら敷布団の方を目指そうとする。戦や遠征で敷布団は勿論雑魚寝は慣れているし、女性に譲るのが基本だろうと思っての行動だった。
しかし寝ぼけて油断していた中、突然後ろから右腕を強く引っ張られた。
「殿下」
その犯人が王女であるとレフィシアが理解したのは、引っ張られた反動でベッドに仰向けになっていた自分と、その上に身体を覆いかぶさってきている王女を確認してからだ。
この国——というよりも他国でも恐らくそうだろうが、歳がそう変わらない異性と寝床を共にするのは良くない。正式に結婚した男女のみ、婚約者といえど未婚であればやってはいけない。これが一般常識である。
しかも相手は数年以上も監禁されていたとはいえ立場上北国の王女だ。自覚と常識が無いのは仕方ないかもしれないが、流石に引き剥がすしかない。レフィシアはそう思って両手を動かそうとした。
が、それを止めたのもまた王女の小さく震えた声だった。
「……大丈夫、だよね。寝たら、また、あそこに、いないよね……」
身体も小さく震えていた。その不安と恐怖に駆られて寝付けないのだろうとレフィシアはようやく理解する。
さて、どうすればいいかとレフィシアは思考を巡らせても、身分の事や一般常識を考えれば確かに答えは変わらない。だが目の前の王女はそれすらも知らない。知力で言えば攫われた時の歳相応だろう。
自分が今突き放すのも王女の精神的にいいものではないと諦めがついて、王女の背に両腕を回した。
密着する身体から伝わってくる王女の心臓の音。王女の黒の髪の先が首元を掠めてくすぐったくも感じる。どうにか男として平常心は保ったままに、王女を抱きつつ横に倒れ込んだ。
「ああ。大丈夫。必ず俺が、君を守ってみせるから——」