下
明日から仕事を休もう。
去年までと同じように、三月の終わりから休むと思っているだろうから、きっと驚かれることだろう。
さすがにひどいと、怒られるかもしれない。
一つ季節を休むなんてどういうこと。
春には仕事をしませんだなんて、どういう働き方よ。
それは私だって思う。
だけど、どうしてか、今年は信じてみたいの。
桜の花が咲く。
開花とともに、君と春はやって来る。
でも、君は桜の頃に会おうと言った。
わからない。わからないの。
桜の頃がいつであるかも、もうわからないの。
だから、春いっぱい、君を待ってみよかなって思ったの。
誕生日だからってわけじゃないけれど、今日は残業もなくて、せっかく早く仕事を終えられたのだ。
買い物なんかして、上機嫌だったんだ。
そうしたら、堪らなく走り出したくなった。
飛び出していってしまっていた。
北風が吹く。
まだ寒さの残る冬空の下、私は「今こそ桜の頃だ」なんて思う。
スマートフォンを取り出して、改めてカレンダーを開いてみて、ほら春だよと笑うの。
周囲の視線は気にならなかった。
私の家から数㎞離れた山の山中にある、立派で、美しい桜の木。
毎年、最高の花を咲かせる、大きな大きな桜の木。
花より団子と笑うものの、人は大体そんなもので、屋台の一つもない桜の周囲では、花見をしている人は少なく、秘密基地のような感覚を持っていた。
私と君だけの、約束の場所、秘密の場所。
君がいるとも思えないのに、君がいると思ってしまって、君に渡すつもりのワイングラスと、君からもらったお猪口を持って、私は歩いていた。
いつもなら近くまでバスで行って、そこから歩くのだけれど、今日はその距離を独り歩こうなどと思ってしまっていた。
考えごとをしていれば、すぐに到着するだろうと思えた。
果たしてそのとおりであった。
寒ささえ気にならなかった。
まだ蕾もない木の下に腰を下ろして、人知れず、独りで、私は酒を飲み交わしていた。
酒なんか持って来てもいないのに、注ぐような手つきをすれば、本当にそこにあるようだった。
chicで私に似付かわしくないお猪口は、口に運べば、空でも私を酔わせてくれるようだった。
喉の渇きは、満たされるはずなんかないのに。
心の空白だって、満たされるはずないのに。