樹
待っている間、私は本を読んでいた。
普段は時間がなくて読めないけれど、幼い頃から本が好きなものだから、この時間を使って読んでいた。
一年のうちのたった二週間足らず、読書の時間を設けたようだった。
約束という、本来の目的は失われ始めていた。
……失われ、始めていた。
「ははっ」
全くもってそんなことがないものだから、笑えてしまう。
信じているんだ。本当なんだ。
君の誠実さを知っているから、裏切らないこと、知っているから。
だから、信じているんだ。
たとえ、約束を守ろうとしたって、守れないのだとしたって。
守ってくれるって、来てくれるって、信じているんだ。
寒さは和らいで、昼間は汗ばむほどの季節だけれど、なぜだかページを捲る指は震えている。
無意識のうちに手に取ってしまっていた、タイトルに「桜」と入る本。
これは外れだったな。読むべきじゃなかった。
桜の美しさが、痛いほど伝わってくるから、読んじゃいけない本だった。
今ほどは忙しくなかったものだから、学生の頃には大好きな本をよく読んだものだ。
読書で発散されていたストレスが、今となっては酒ばかりに頼ってしまっていて、不健康で醜い大人になったものだ。
それじゃあ今の、君と酒を飲むために本を読んで待っている私はだれなんだろうか。
確かに桜を愛せていれば、昔の私だったろうが、愛の中に恐怖や憂鬱を抱えて、不安に駆られて上を見上げているような私は、何者なのだろうか。
そういえば、作者も見ずに買った本であったが、梶井基次郎とは『檸檬』の作者であったろう。だとすれば、高二の教科書で読んだ以来だから、十六年ぶりのことだ。
あの頃の倍の歳を生きているのか……。
名前も見ないで手に取って、偶然に久々の再会を果たしたのだ。
君と約束をして、何度、私は独り桜を眺めたことだろう。
一人暮らしを始めた頃だった気がするから、大学を卒業して仕事を始めたばかりだったような。
それでは、十年くらい経つのだろうか。
最後に君と会って、約束を交わしたのは、私の誕生日の二日前だった。
「少しだけ早いが受け取ってくれないか?」
そう言って、君は誕生日プレゼントを渡してくれたのだから、確かな記憶だ。
まだ酒の味なんかちっともわからなかったくせに、大人ぶりたかったのか、ただ溺れたかったのか、酒好きな私に贈ってくれたお猪口。
あの頃の私が飲む酒といえば、ビール一択だったものだから、ジョッキしか使ってなかったのだけれどね。
嬉しかった。
日本酒と焼酎の違いだって、ろくにわかっちゃいなかったのに、お猪口の善し悪しなんかわかるわけがない。
だけど、君がくれたというだけで、宝物だった。
私の記憶の中の君は、憧れの君は、歳を取らない。
私よりも年上だったはずなのに、八つの差は大きくて、大人に見えていたというのに、君の年齢を私は追い越してしまっていた。
時折見せる子どもらしさ、もう三十のくせにって思わせたけど、なってみればそう変わらない。
だけど、二十二、三から見る三十は、大人に見えたんだ。
このまま、君だけは変わらない姿のままで、私だけが老けていくのだろうか。
変なことばかり考えてしまって、本に集中できないよ。
子どもでいられない大人になれない、私はだれなの!
桜が大好きだ。憎いほど、大好きだ。
この愛が憎悪に変わってしまう前に、私は大人になりたい。
けれど、大人になるということは、君を捨てることでもあると気付いていた。
嫌だった。堪らなく怖かった。