水底
「おい、一体こいつはなんなんだ?」
震える体を抑えながら、片手を横に広げたままの青年に小さく問い掛ける。
「見ての通り魔物だが……まさか貴様は魔物を見たことが無いと言うのか?」
「あぁ、初めて見た。ところでこの状況は大丈夫なのか…?」
「大丈夫な訳がない。非常に不味いと言って良い。何故こんな場所に現れたのか分からないが、この大きさは私1人じゃ厳しいだろう、痛手を与えてすり抜けるぞ。精々自分の身は自分で守るんだな」
そんな会話をしていると、巨大な猪の魔物は、地面を軽く蹴りつけ始める。
突進してくるつもりなのだろう、あれだけの巨体の突進を正面から受け無事で済むとは思えない。
彼の言う通り、今は保身に走るべきだろう。俺はゆっくりと後退りし、出来る限り魔物と距離を取ろうとする。
一方。構えの姿勢を取り、魔物と相対する眼の前の青年は武器らしき武器を持っていない。本当に大丈夫なのだろうか。
その時、青年が動きに出た。猪突の勢いで足を踏み出し、目にも留まらぬ速度で魔物との距離を詰める。そして懐から苦無のような鋭利な形状の刃物を取り出したかと思えば、それを魔物の眼球へと勢いよく突き刺し、そのまま猪の巨体を軽やかに飛び越えていく。惚れ惚れするような動きだ。
「ヴォオオオ…アアアアアアアア!」
咆哮が再び響く。しかし今度の叫びは先程とは打って変わり、悲鳴と言うに相応しい物。
それでも、魔物の勢いは止まることを知らない。目玉を潰され、だらだらと赤い鮮血を垂らしながらも……地面を強く蹴り、そのまま怒涛の勢いで此方、俺達の方向へと走り出す。
「っ……まだ動けるか、二人共!避けろ!」
「ひっ……嫌……来ないで!」
それが僅か一瞬の出来事。俺は目視するのが精一杯で、その体をまともに動かすことは出来なかった。
ふと横を見れば、瞳から光が失せ、絶望の顔のまま恐怖で身体を動かせないでいる少女の姿が目に入る。
このまま横に飛び退くことも出来たが、そうすればこのまま少女は魔物に轢き殺されることになるだろう。
だが、そうはさせない。
「チッ……魔物だかなんだか知らないが、俺に歯向かう覚悟は出来てるんだろうなぁ!」
威勢良く大きな声でそう叫び、少女の脇を抜け自ら魔物へと向かって行く。
確かに無謀かもしれない。だがそれ以上に、命を救って貰った恩義を返さねばならないという使命感に駆られていた。
両者が共に肉薄し、魔物の眼前1m。冷たい風が全身を吹き付け、思わず後退しそうになる。
それでも地面から足を離すこと無く、大地を強く踏み締めながら大きく拳を振りかぶり、それを猪の巨体目掛けて思いっきり叩き付けた。
「うぐっ……あああああああ!?」
確かな手応えを感じると同時に、全身を銃弾に撃ち抜かれた時のような衝撃が走る。
いや……それ以上だろう、全身がバラバラになり、全てが塵になって空気中に流されるような感覚。
俺は宙を飛んでいた。魔物に突き飛ばされ、地上から数メートルほど高い場所を浮きながら高速で後方へと吹き飛ぶ。
あぁ……俺はまた死ぬのだろう。このまま自由落下して地面に叩き付けられれば、今度こそ無事に済むはずもない。
「でも、俺も馬鹿だよなぁ……」
恐らく俺を吹き飛ばした際に魔物の進撃は止まったはずだ。その間に彼女が逃げ切ってくれることを……切に願う。
神は俺に潔く死ぬ二度目のチャンスをくれた。この世界で汚く生きていくぐらいならば、いっそこのまま死ぬのも悪くないかもしれない……などと思いつつ。
しかし、俺は自分が思っていたよりもずっとしぶとい生き物だったらしい。吹き飛ばされた身体は徐々に高度を落とし、やがて着水する。
此処は先程の湖だろうか。全身が麻痺したかのように動かない。俺の身体は再び水底へと引き込まれていく。
その時、また不思議なことが起きた。
湖の底に背中が触れたかと思えば……そのままストン、と底を突き抜け、再び外気に触れた身体が自由落下する。
「あぐっ、いってぇ……」
ぐしゃりと鈍い音を立てながら、冷たい地面に横たわる。
ゆっくりと身体を起こし、周囲を見渡す。
そこにはまるで水族館のようにガラスのような透明な膜で覆われたドーム状の空間が広がっていた。
「……綺麗だな」
思わずそんな感想を口にし、らしくないと小さく笑う。
その空間には中央に突き刺さった棒のような物と、下へと続く螺旋階段のような物が設置されていた。
床や柱は全て青く光り輝き、神秘的な雰囲気を醸し出している。
「さて、どうした物か」
猪の突進を正面から受けて生きているという不思議な現象、そして湖の底の下に広がっていたこの謎の空間。
ありえないことが起こりすぎて理解が追いつかない。一体俺の身に何が起きているというのだろう。
取り敢えず、ふと気になった中央の棒に近付いてみた。
棒はこの部屋の雰囲気をは一点変わった紫色の禍々しい装飾が付けられ、同時に杖と形容するに相応しい形状をしている。
好奇心に負け、思わず触れてみる。ほんのりと熱を帯びていて、まるで生きているかのような脈動を感じる。
「少し気味が悪いな……」
此処が神聖な場所だとしたら罰当たりかもしれないが、好奇心には抗えない。
俺は杖を強く握ると、そのまま地面から引き抜いてみた。
すると、杖から禍々しい気配が漏れ出て来たかと思えば、そのまま周囲へと毒々しい紫色の煙を吐き出し始める。
まずい気がする。慌てて戻そうとするが、先程まで杖が刺さっていたであろう地面にあった穴は忽然と消えていた。
どうしようかと煙を吹き出し続ける杖を持ってうろうろとしていると……突然頭の中に声が響いた。
「汝、我を封印より解き放つ者、我は魔杖"クロセル"古代に於いて最強の杖だ」
自分で最強と名乗るのか、と心の中で突っ込みを入れる。
「おい、貴様の心の声聞こえておるぞ。700年前から変わり無ければ我が最強のはずだ」
なんだか思っていた魔杖のイメージと少し違う気がするが、まぁ個性の範疇だろう。
人工頭脳の類なのか本当に生物なのかは分からないが……良く出来ている。
「ふふっ……そうだ、我は賢い。何しろこの世界の才能システムを読み解き、才能指数の概念を作った歴史上で最も偉大な存在だ、もっと褒めると良い」
「才能?才能指数?まぁなんでも良いけど……兎に角凄いんだな、杖さん」
「クロセルで良い。貴様が我を封印から解き放ったようだが……ふむ、黒髪に黄色い肌、見慣れない種族だな。700年の間に生まれた新種族か?」
魔杖と名乗ってはいるが、どうやら危険な存在では無さそうである。こいつに聞けば色々と分かりそうだ。
「俺は多分、此処じゃない別世界から来た。何か心当たりはあるか?」
「異世界からの来訪者だと?それは実に興味深いな、シンシアの外に別の世界があるなど我は聞いたことがない」
「そうか、なら俺にこの世界について色々と教えて欲しい。元の世界に帰る必要は無いし帰る方法も分からないからな、暫くは此方で生活するつもりだ」
「もちろん、我を解き放った貴様が我の主人だ、何でも答えるぞ、何から聞きたい」
「一気に聞いても覚え切れないから今必要なことだけ質問する。まずアランの民ってなんだ?」
「アランの民はこの周囲一帯を支配してる少数民族だな。700年経っても滅びていないとは驚きだ。彼等は白い肌に黒髪の人種で他種族との交流を嫌っている。防御魔術の才能が芽生えやすい種族で己等の縄張りを結界魔術で守っていると聞いたことがあるな」
「やっぱり魔術もあるのか、それは誰でも使えるのか?」
「いや、魔術は該当の魔術の才能を持ってないと使えない。残念だったな」
「次の質問、さっきから……というか今日だけで何度聞いたか分からないんだがクロセル達が言う"才能"ってなんのことなんだ?」
「ほう……才能について知りたいと申すか。良いだろう、この偉大なるクロセル様が才能について解説してやろう」
魔杖ことクロセルが言うには、才能とはこの世界では生まれた時に神から授かる物らしい。才能の質や数は前世の行いとかで決まるとか。一般人の平均的な才能は2~3個程度で、多い人間や著名な人物でも5個程度。そして、この才能の高さを計る"才能指数"という指標があるらしいのだが、仮に才能指数が1あるだけでもそれに関して才能を持たない人間と勝負にならないとのこと。また、同じ名称の才能でも才能の指す意味合いが違うこともある。例えば「幸運」の才能があったとしてもそれが自分の幸運となる才能のこともあれば周囲が幸運になる才能の場合もあるようだ。
――しかしごく稀に、与えられた才能の才能指数が「0」となる現象がある。
通称ディザビリティ。確率は該当の才能を持つ全ての生物に一体存在するかしないか程度であり、非常に稀有な存在。ディザビリティは才能を持たない人間以下の結果しか生むことが出来ず、絶対的で覆すことの出来ない「見えざる神の力」の影響で必ず失敗し、その力は才能指数10の人間に働くそれに匹敵すると言われている。
「それで……俺にも何か才能はあるのか?」
「そうだな……我に任せておけ、今に確認してやろう」
杖が再び紫色に輝いたかと思うと……直ぐに答えは帰ってきた。
「貴様の才能は1つだ」
「まぁ無いよりはましだろう、何の才能だ?」
「それがだな……言いにくいんだが、お前の才能は『傷害』で才能指数は0……
――そう、お前は無能の保持者だ」