文字化け
文化祭で配布した同好会誌に掲載した作品です。
文字化け。コンピュータで文字が他の文字や意味不明な記号に変化して表示・出力されること。
国語辞典にはそう簡潔に記されている。
◆◆◆
暑い夏の日だった。長年、土の中で引きこもっていたセミ達がいきなり地中に出て何かを激しく訴えているせいで、感じる暑さは教室に設置された温度計以上だ。外の世界を知らない生き物がいきなり地上の生活に適合できるはずないのに、なんて卑屈で偏見ばかりの思考を暑さでぼうっとする頭に張り巡らせてしまう。
今は午後の一番暑い時間帯。前期末試験を間近に控え、どの授業も対策のために、ありがたいような迷、惑なような小テストを実施してくれる。どうしてこんなに暑いのに勉強なんて、と長年解決しない疑問が首をもたげた。
解けないことは無い。問題は簡単とも言いがたいが難しいとも言いがたい。予め勉強していれば得点するのは然程難しくもないであろう難易度の問題は、無機質に、何に対しても興味がないように私を見つめる。当然だ、文字が意思を持つなんてありえない。文字は言葉を記録するために作られた記号にすぎないのだから。
私は解答用に用意された余白をいっぱいに使って計算式を書き込んで行く。フーリエ級数の問題はどうしても途中式が長くなってしまう。分かりきっていたことだけれど、うんざりする。汗で用紙が腕に張り付くのが特に気持ち悪い。途中で裂けたら大変なのに。
ガリガリと昔から強い筆圧で私は再生紙に黒鉛を弾けさせる。時々芯が折れて隣の人に飛んでいく。
最後の最後まで見直しをして少しでも高得点を、なんて考えは暑さでとうに捨てていた。黙ってぼうっと秒針を眺めているうちに小テストは終わった。
「ねえ、アイス食べに行こうよ」
「行こ行こ。暑くて嫌になるね」
「まあ夏だし仕方無いよ」
授業が終わり、そんな会話を繰り広げながら購買までの道を友人と歩く。廊下の窓は開け放たれているにも関わらず無風のために熱気は籠もったままだ。
そんなある意味いつも通りの風景を通り過ぎて私達は待ち遠しかった夏休みに向かう。前期末試験も一日ずつ、日程をクリアする度にクラスメイトの気持ちが浮ついて行くのが感じ取れる。私は部活動の関係上、夏休みこそ一番忙しい時期だと思っているけれど、周りはそんなことお構い無しだ。そんなズレを実感しながらも、試験が終わる毎に私の心も僅かながら軽くなっていった。
◆
期末試験終了から土日を挟んで、また平日が始まった。この週は試験を返すために設けられた時間だから、答案を返して点数を確認、解説をしたら授業は終わる。入学してから毎年この期間を経験するが、何年経っても嬉しいものは嬉しい。暑い日に授業に集中なんて無理だ。
私は返ってきた最初の答案を見る。点数、解答中に不安だった問題、祈るように書き殴った問題――そういった順番で用紙を眺める。自信がなくても点数が貰えた箇所を見付ければ嬉しいし、自信があったのに間違えている問題を見付ければ落ち込む。そんな一喜一憂をしながら最後に点数を計算して採点ミスを探しては点数を確定させる。満足いく点数ならそんなことはしないけれども、今年から赤点のボーダーは六十点になったから、ギリギリ届かなかった科目では必死に点数が貰えそうな箇所を探す。最初に返って来たのはこの間時間と格闘していたフーリエ級数の問題だった。六十点ぴったりだったけれども、何かの間違いで点数が落ちる可能性を考えると必死にならざるを得ない。得点していても理解してなんかいないからだ。万が一再試にでもなってしまえば今度はかなり苦しい。一夜漬けの知識はすぐ忘れてしまうものなのだから。
「あれ……」
一箇所だけ、違和感を見つけた。シグマの後の分母が可怪しい。そんな間抜けなミスをしたっけ、と思い返すけれどもそんな些細なミスは記憶にない。きっと無意識にやってしまい、気付かなかっただけだろう。こんなミスで点数を落とすのはつまらない。気をつけないと、と自分に念を押す。
しかし答案が返ってくる毎にその違和感は存在を増していった。
水曜日にもなると、物理の答案に書いた覚えの無い式が書き込まれていた。誰かが答案回収後に私の答案をすり変えたのではないかと不安になる。
「どうして……」
事情を説明して先生に確認してもらうのも怖かった。もし先生が採点直後にコピーした物と今の私が持っている答案が違えば、それはカンニング行ためと見なされて今回の試験の成績はすべてなかったことになる。それはすごく怖い。下手をすれば留年してしまう。
結局言い出すことができずに、私は気持ち悪さを呑み込むだけだった。
木曜日はもっと酷かった。英語の和訳が見たこともない文章に変わっていた。英文の内容とは全く関係のない、まるで意味のない文章になっていたのだ。
私の試験の解答は的外れな方向に変化していた。まったく覚えの無い、不可解な文字ばかりが答案に並んでいる。その事実を直視することなんてできないけれども、無視もできなくて、私は途方に暮れるしかなかった。
金曜日。自暴自棄にすらなりかけていた私に、更なる凶報が舞い込んだ。
いつものように番号順に答案を取りに行くと、そこに私の答案なんて物は無かった。先生が手にしていたのは、よく馴染んだ字で記された、全く知らない名前と番号だった。当然私に点数なんて入らない。もう、何を信じて生きていけば良いのか分からなくなった。自分で書いたはずの信用できる文字でさえ、私はもう信じることができなくなった。
私は単位を落としてしまった。勉強はした。できる限りのことはすべて。優秀ではなかったけれども、少しでも点数を取ろうと努力は重ねたつもりだった。けれどもそれは解答用紙の上ですべてが無意味になった。私が書いた文字は私を嘲笑うかのようにその姿を変えて、再び堂々と私の目の前に姿を現した。
もう何もかも嫌になって、自分が触れるすべての筆記用具を捨てた。すべて一新して、何もかもを無かったことにしたかった。
不思議なことに、買い換えたその直後から文字が変化するなんてことは無くなった。どの筆記用具が悪いとか、そんなことをつきとめる余裕も無かった私は、結局それが一時の不可思議な出来事だったと認識するしかなかった。
今でも私はその時使っていた筆記用具と同じものを見かける度にゾッとする。また同じことが起こるのでは無いかと疑心暗鬼になりながら、私は毎日文字に触れている。
文字が化けるなんて、そんなこと――ありえないよね?