元・騎士のさっぱり1
「う、そだ」
その男の横をすれ違うとき、ほとんどの人は息を詰めたまま、やや彼を避けるようにして足早に歩いた。そして、すれ違って2秒3秒するとだいたいふうと息を吐くのだ。実はそれは優しい方で、時折舌打ちをされたり、暴言を吐かれたりすることもある。ただ、平和なこの国ではそれも少数派。ほとんどの人間が人を思いやるこころを持っていた。それは同時に、男が憐れまれる存在であることも意味していた。
男にとってはそれこそたまらない。野良の犬ころが怪訝な様子で吠えてきたり、豪快なくしゃみをする方が素直な反応なのだと思っていたからだ。お前こそボサボサだぞと少しむっとはしたが。
遠くへ、影へ、わが身にふさわしい、その場所へ。
そのぼんやりとした思いで、男は足をひきずった。
大雨の日、橋の下に集まる浮浪者達が話しているのを聞いたのだ。この国で日蔭者が最後に辿り着くのが”フロスラム”だと。そこに行っちゃあおしまいだと。しゃがれた声で醜く笑う浮浪者たちを見て、男はその場で決めたのだった。俺が行くべき場所はそこだ、と。
うだうだと傷の舐め合いをするのも、施しを受けるのも、すべて男にとっては耐えられないことだった。それならば、その”フロスラム”とやらで、ひとりで、泥をすすりながら、汚く、汚く、生きながらえて…。
「う、そだ」
汚く、ないだと。
足を引きずり歩み続け、ようやっとその地に辿り着いた男は、そのときはじめて呆然と立ち尽くした。
なんだここは。なぜ汚くないのだ。
建物は狭く、密集している。ところどころ壁に穴が開いていた形跡もあるのだが、よく修繕されていると分かる。素人仕事とは思えない仕上がりだ。道端に落ちているものもほとんどない。酒の瓶さえ落ちていないとはどういうことだ終末場として全くふさわしくない。ましてや腐臭も漂っていないということは亡骸が放置されている様子もないということだ。行きかう住民たちも決して上等な身なりではないし、いきいきとしているわけでもないのだが、服にひどい縺れはないし、髪型やひげも整えられてさっぱりしている者が多い。なにより顔をあげ、まっすぐと前を見据えているのが奇妙でたまらない。もっと、なんかこう、こういう場所なのだから、深いフードをかぶってうめき声をあげながら徘徊しているものでないのか。なぜだ。敗者の開き直りというやつか。
男にとっては非常事態だった。鬱々とした気持ちで思考することも放棄していた男にとって、こんなにも頭に考えが溢れて止まらないのは本当に久しぶりのことだった。こんなことで人間らしさを取り戻したくはなかったとは、男ののちの言である。
「あっ!新人さんだよ!」
そこに輪をかけて混乱をかえたのが、いきなり下から少女の声が聞こえたかと思えば後ろからぐいと左手を取られたことである。
「なっ!?お、お、お、お、ど」
お前はなんだ。俺の後ろを取るとはなにごとだ。ましてや俺に触れるなど。俺が臭くないのか。どういうことなのだ。
疑問は溢れるが、うまく口がまわらなかった。男はしばらくの間、誰かと会話をしていなかったからである。いわゆるコミュ障である。
「くっさい!!」
臭いのか!
「あれ?ションボリしちゃった?だいじょーぶだいじょーぶ!さっぱりするよ!ほら、こっちだよ!」
そうして男が呆然としている間に、ふわふわと湯気の立った高い煙突のある建物まで引きずられて行った。その煙突こそ男が”フロスラム”の目印として目指していた場所だったわけだが、唐突すぎて全く感慨深くは感じない。
俺は潔く生きたいと思っていただけなのに、これからどうなるのだろうか。
男の胸程の位置でまとめられた少女の黒髪が揺れるのをうつろな目で見つめてしまう。艶々しているのにふわふわだ。ふわふわ…ふわふわ…。
「いさぎよく…」
「いさぎよく?が何かはわからないけど、さっぱりしてれば私も好きだよ!やっぱりさっぱりが1番だよね!」
なぜだろう。上下に揺れている黒いしっぽを、むんずと掴んでやりたい気持ちになった。