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長袖のシャツ

作者: 桜田ちひろ


 高校の体育の授業は、今までと違う選択制だった。一学期の前半はハンドボールかテニスかバスケで、オレはバスケを選んでいた。だけど、オレはそのほとんどを今みたいに二階から眺めているだけだ。授業にはまだ、数え切れるほどしか出席していない。

 奥のコートで歓声が上がった。赤いゼッケンのチームにまた得点が入った。その時、三浦くんと目が合った。

「仮病使うなよー」

 三浦くんは必要以上に大きな声でそう叫ぶ。

 その一言に周りの男子が乗っかる。「不良ー」だとか「授業ちゃんと出ろよー」とか、そういうことを口々に叫ぶ。オレは何も言わずに笑顔を作った。困ったらこうすると良いということを最近覚えた。

「なに笑ってんだよー」

 三浦くんが言った。それでもやっぱり、オレは笑った。

 体育館の二階にはもう一人の見学者、衣笠が手すりに頬杖をついて窓の外をぼうっと見ていた。空いた手で腕を掻く仕草もいつも通りだ。

 オレは衣笠の背中を視界に入れて、窓の外に視線をやる。梅雨の季節には似合わない、晴れた空が広がっていた。

 高校生になって二ヶ月が経つ。連日の暑さと合服期間が重なって、ほとんどの生徒は夏服に着替えていた。長袖のシャツを着ている生徒はごく稀だ。

 隣のクラスの男子、衣笠千秋はそのごく稀な生徒のひとりだ。ズボンは薄い灰色の夏用ズボンだけれど、シャツが冬服の長袖のままだ。

 

――長袖の下には、自殺を図った痕が残っている。


中学の時、衣笠はいじめにあっていたらしく、自殺を図ったことがあるらしい。

それが、夏になっても長袖でいる衣笠の噂だ。


 1


 教室に戻る途中で三浦くんに「頼みがあるんだけど」と言われた。振り向くと、そこにはいつもの三浦くんを中心とする五人組がいた。オレはただ黙って首を縦に振った。

「なんで仮病使うんだよ」

 三浦くんの側近、安井くんが言った。

「仮病じゃないよ。腹、痛かたったからさ」

「ウソつけ」

「ホントだって!」

 つい大声を出してしまうと、みんな一斉にケラケラと笑い出した。「そうムキになんなって」と安井くんが言った。こういう時もとりあえず笑う。オレって大人だよな、そう思った。

 笑いがおさまると今度は三浦くんが「パン買ってこい」と言い出した。しばらく黙っていると三浦くんは「大丈夫だって。金は後で払うからさ」と続ける。それでももうしばらく黙っていると、三浦くんはオレの肩に手を乗せて「友達だろ?」と言った。言葉の裏に何か刺すようなものを感じる。それからオレはもう一度、黙って首を振った。

食堂で人数分のパンを買って教室へ向かう。お金はどうにか足りた。一瞬、足りないと思ってヒヤッとしたけれど、でもオレ何も悪くないじゃん、と思い返した。

途中の階段で衣笠と会った。一瞬、目が合った。あいつの目は三浦くんたちがオレを見る目とも、他のクラスのヤツがオレを見る目とも違っていた。違っていて、好きじゃない目をしていた。


教室に戻るとオレの机の上に花が置かれていた。

三浦くんたちはオレの机を囲うように集まって弁当を食べている。オレはおそるおそる近づいて口を開いた。

「これ、なに?」

「見たらわかるだろ。死んだんだ。こいつ」

「え?」

 意識もしていないのに言葉が出た。そしてまた三浦くんたちがケラケラ笑う。

「冗談だよ冗談。ちゃんとボケろって」

 そう言って三浦くんは、オレの手からひったくるようにしてパンを取った。

「あ、悪い。オレら、今金持ってないから貸しといてよ。ちゃんと明日返すからさ」

 しばらく黙っていたけれど、今度は「冗談」とは言ってくれなかった。

 三浦くんたちの冗談は日を追うごとに度を増していく。口調や行動が冗談じゃないように思えるときが増えていった。三日前には財布がなくなった。財布は安井くんが持っていて、その時もさっきみたいに「冗談だよ冗談」と言っていた。結局、何も取られていなかったけれど、次、同じことをされた時にはどうなっているかわからない。


 2


 月曜日の体育の授業も見学した。

 二階の壁にもたれて腹をさすっている。とりあえず、こうしてれば腹が痛いということが伝わるはずだ。体育の授業にはこれで六回連続出ていない。最初の三回は本当にただの仮病だったのに、気付けばこんな都合のいい体になってしまった。

 授業がはじまる直前になって急に腹が痛くなった。先生には保健室に行くことを勧められたけれど、それよりもトイレに行きたいと言って断った。どうせ保健室に行く頃には痛みはなくなっている。前回の頭痛もそうだった。本当に痛いのは授業が始まる前だけで、始まってからは嘘のようにその痛みが引いていく。だからさっきトイレに行った時も便座に座って携帯をいじって時間を潰していた。

 視線を横にやると、オレの六回連続なんて足元にも及ばない記録を持つヤツがいた。いつものように手すりに頬杖をついて、腕を掻きながら窓の外を見ている。衣笠はオレの知る限り、まだ一度も体育の授業に出席していない。

 合服期間が終わっても衣笠は長袖のままだった。袖のボタンも外すことなく、きっちり閉めている。頬杖をついている手首に目を移す。よく見ればリストカットの痕が見えるかもしれないと思ったけれど、水色のシャツの上からでは全くわからなかった。

 ふと、衣笠と目が合った。オレはすぐ目を逸らしてしまう。

 オレと衣笠との間に気まずい空気が漂う。それがすれ違うくらいの僅かな時間であれば大した苦痛ではないのだけれど、授業が終わるまでの残り三十分を耐える自信はない。

「阿部くんってこれで六回連続だよね」

 衣笠の声を久しぶりに聞いた。高一にしては高い声をしている。オレは「あぁ」と小さく呟いた。

「何で休んでるの?」

「腹……痛いから」

「お腹痛いから休んでるの?」

「あぁ」

「ホントに?」

「そうだよ。なに? 衣笠くんも仮病だとか思ってんの?」

「べつにそうじゃないけど」

「じゃあなんだよ?」

「順序、逆じゃないのかなと思って」

 衣笠の言葉の意味がわからなくて、何も言えなかった。しばらくすると、また衣笠が言葉を続けた。

「お腹が痛いから授業休むんじゃなくて、授業休みたいからお腹痛くなってるんでしょ?」

 オレは何も言い返すことができなかった。


 元々、体育の授業は嫌いだった。

 小さい頃から運動が苦手で、どちらかというとカッコ悪い人間だった。走らせればビリだし、跳び箱も六段ぐらいが限界だった。キャッチボールでもよくボールを落としていた。

 それでも中学まで出席できたのは友達がいたからだと思う。他の人に笑われてもオレのことを理解してくれる人がいるなら、それでよかったんだと思う。

 だけど、高校生になってから友達はいなくなった。

 みんな、オレがミスすると笑う。声に出して笑っていないヤツも心の底でオレのことを笑っている。「ダッセー」とか「カッコ悪い」とか、それまでは気にも留めることのないただの言葉が、今はずしりと心にのしかかってくる。

 体育の授業なんて、みせしめだ。出来るヤツが出来ないヤツを見て笑うための授業。サイテーの授業。三浦くんたちがオレに絡むようになったのも、体育の授業がはじまりだった。

 最初、仮病を使うのにはとんでもなく勇気が要った。手のひらが汗でじっとりと濡れていたことを今でもよく覚えている。でもその嘘は自分でも驚くほどすんなり受け入れられた。思った以上にカンタンだった。そうして、気付いたときにはこうなっていた。


「それだけじゃないよね。阿部くんのことよく見るけど、いつも一方的に何か言われてるでしょ?」

 やたら饒舌な衣笠に少し驚いてしまう。その後も「辛かったら言えばいいんだよ」とか「そういうの、カッコ悪いとか思ってるでしょ?」と言葉を続ける。

「オレが言おうか? このままだともっと酷くなるよ」

 そういう言葉にだんだん腹が立ってきた。

「いじめなんてない」

 頭で意識するより先に言葉が出た。

「何? オレに同情してんの? 同じ境遇だったからオレの気持ちがわかるとでも言いたい?」

 衣笠の背筋が一瞬震えたのがわかった。

「べつに……そんなつもりじゃ」

「いじめられてないって言ってるだろ。オレは誰かみたいに自殺するような弱い人間なんかじゃないから」

 そう言うと、衣笠はうつむいて何も言わなくなった。


 教室に戻ると、机の上に落書きがされていた。「死ね」とか「臭い」とかそういうようなことが書いてあった。オレは取り乱すことなく筆箱から消しゴムを出してそれを消す。落書きはシャーペンで書かれたものだから、消しゴムで消える。消えるなら、何の問題もない。

 そうやって落書きを消すオレを見て「かわいそー」と誰かが言ったのが聞こえた。「お前がやったんじゃん」と別のヤツの声がした。

「みじめだなぁ、おまえ」

 三浦くんの声がした。

 誰がやったのかは気にならなかったし、不思議と怒りも沸いてこない。そのかわり、全身を震えのようなものが襲った。でもオレはそれを必死に堪えて、机の落書きを消すことだけに意識を集中した。

 さっき腹が立ったのは衣笠じゃなくて、それを認めないオレ自身にだったのかもしれない。



 3


 教室へ行って最初にすることは机の中を見ることだ。

 中に変な物が入れられていないかを確認する。今日はくちゃくちゃになった紙がいくつか入っているだけだった。紙くずとか石なら、また捨てればいいだけだからマシだけど、鉛筆削りのクズとか砂とかを入れられると処理に困る。生ゴミとか虫とか、触れないものを入れられるのが何よりもまずい。先生が来るまでに何事もなかったかのように片付けてしまわなければならないのだから。

 机の中に入っていた紙には、きっと中にはオレの悪口とか、卑猥な言葉とか、そういうことが書いているはずだ。確認しているだけ時間の無駄だから、そのまま捨てるけど。

 一時間目の授業中に「阿部くん、また教科書忘れたの?」と担任の葉崎先生に言われた。「いい加減、持って来るように」とも。その言葉に数人のクラスメートが小さく笑っていた。笑ったヤツらは知っているのだろう。オレが教科書を忘れたんじゃなくて、出せないんだということを。オレの教科書は机の中に入っていた紙と同じような落書きをされている。

 こいつらの考えていることなんて所詮その程度のことなんだ。机に書いてあることもくちゃくちゃになっている紙にも書いてあることはほとんど同じだ。そんなことばっかり考えてて楽しい? おまえらホント子どもだぁ、馬鹿だよ、馬鹿。

 なんでだろう、そう考えれば考えるほど泣きたくなってくる。

 途端、背中に痛みを感じた。オレは思わず短く声を上げてしまう。クラスじゅうの視線がこっちに向いた。板書をしていた先生も振り返ってオレを見た。「どうかしたの?」と先生が言う。オレは声を絞って口を動かす。どうにか「なんでもないです」と言うことができた。先生はしばらくオレを見つめて、また板書に戻った。すると、さっきみたいにまた笑い声が聞こえた。ゆっくり後ろを振り向くと安井が笑っていた。手にはコンパスが握られていた。

 体育の授業も見学を続けていた。先生の眼は疑いを通り越して呆れに変わったのかもしれない。「本当か?」とも「嘘じゃないよな?」とも聞いてこない。ただ「わかった」と言うだけだった。          

 体操服を持ってくるのが嫌だった。体操服に落書きをされたら親に隠す術がない。

 そしてそれに合わせるかのように、衣笠の姿がなくなった。

 あの日を最後に二週間、衣笠は体育の授業にこなくなっていた。時々隣のクラスをのぞいてみるけれど、どうやら衣笠は欠席を続けているようだった。

 よく大切なことはなくなってから気付くと言うけれど、ひょっとするとオレのこの気持ちもそれに似ているのかもしれない。オレは衣笠に会いたくなっていた。会って聞きたいことがある。少し聞きたかったんだけれど、衣笠がいなくなってからその気持ちは強くなる一方だった。

 なぁ、自殺するってどんな気分なんだ?


 授業が終わると教室じゅうが明るい話し声で溢れた。オレはその場から逃げるように席を立って、教室を出た。そんなオレの様子を見ていたのか、ちょうど先生が教室から出てきてオレの名前を呼んだ。

「阿部くん、次の授業休んでいいから職員室来て」

 行きたくなかったけれど、断る理由がなかったので素直に従った。職員室に行く途中、隣のクラスの前を通った。すると何人かの男子の話が聞こえてきた。

「あいつ、今度こそ自殺したんじゃない?」

「テレビにコメント求められたらどうする?」

「普段から何考えてるかわかんないような子でしたからー」

手で目を覆って、裏声でそう答えた。

 もしそうなら、あの時オレが言った言葉が原因なのかもしれないと思った。だけど、もしそうだったとしてもオレは悪くない。無神経なことを言うあいつ自身が悪いんだ。そう、あいつがただ弱かっただけのことなんだ。強く、そう思った。

 先生は部屋の隅にある四人がけのテーブルにオレを案内した。そこは周りを本棚で仕切られたスペースでちょっとした別室のようになっていた。

「ここなら誰にも聞こえないから」

 そう言って先生はオレに椅子に座るよう促した。オレは両手を膝に揃えて、深く椅子に腰掛けた。テーブルを挟んで向かい側に先生が座る。先生は肘をついて、身を前に乗り出して口を開いた。

「ねぇ、阿部くん。クラスで何かあった?」

 そういう用件だということは何となくわかっていた。オレは膝に揃えていた手に、視線を落とした。

「べつに何もないですけど」

 やや間があってそう答えた。

「正直に話して。大丈夫、先生はあなたの味方だから」

 授業の様子がおかしいことに、先生は気付いていた。クラスの誰かから、オレのことを聞いていたとも言っていた。証拠は揃っている。だから吐け。要はそういうことだ。

 膝に揃えた手は爪が食い込むほど強く握っていた。オレは黙ったまま、ただ下を向いていた。先生は「阿部くんは悪くないのよ」とか「先生が絶対解決するから」と言葉を続ける。でもその言葉はいつしか「言うことも勇気なんだよ」とか「阿部くんが言わなきゃ何も変わらないんだから」とか、そういう言葉になって、なんだかオレが責められているような感覚になった。話を聞いているとだんだん自分がみじめに思えてきた。先生がオレのことを助けようとしてくれているのはわかっているはずなのに、心がそれを受け入れようとしない。違う。オレはいじめられてなんかない。いじめに合うのは弱いヤツで、それは駄目なヤツなんだ。違う。オレは弱くない、いじめられてなんか……。

 気付いた時にはもう遅かった。胸が痛くなったと思ったら次の瞬間、オレは胃の中のものを全て吐き出していた。


 目が覚めると辺りは暗かった。ちゃんと頭が動くのを確かめて、ここが保健室だということを思い出す。あの後、背中をさすられながら階段を挟んた先にあるこの保健室に運ばれた。「話は後で聞くからとりあえず横になって」と言われてベッドに入ったんだ。色んなことを考えるが嫌になって、現実から逃げるように目を瞑ると、思った以上にするりと眠りについてしまったようだ。

 少しの間ぼうっとして、眠気が全くないことがわかって上体を起こした。両手を高く上げて体を伸ばすと思わず声が出てしまう。カーテンの向こう側で席を立つ音が聞こえた。先生が気付いたのだろう。

「起きた?」

 カーテンの間から顔を覗かせたのは、衣笠だった。

「先生、用があって今いないよ。もう少ししたら帰ってくると思うけど」

 ベッドから足を下ろして、揃えてあったスリッパを履いた。体はすっかり軽くなっていた。衣笠は保健室の机で教科書を広げて勉強していた。部屋の隅には衣笠の鞄がおいてあった。

 この前のことを謝ろうと思ったけれど、衣笠はそんなことがなかったというように笑ってオレに話しかけてくる。そうするとなんだか言い出しにくくなってしまって、結局オレは何も言えずに衣笠と話を続けていた。

「お茶と水どっちがいい?」

 衣笠は流しの横に置いてある小さな冷蔵庫を開けてそう言う。オレがしばらくあっけにとられていると「大丈夫だよ。起きたら飲み物あげてって先生が言ってたから」

 別にそこに驚いているわけじゃないんだけどな、と思いつつ「じゃあお茶」と答えた。

 衣笠の向かい側に座って、冷たいお茶の入ったコップを何度か口に運んだ。

 保健室に来るのは初めてだったので一通り辺りを見回してみる。保健室の床は絨毯だった。壁際にはベッドが三つ並んでいる。向かい側の壁は流しと簡単な調理ができそうなコンロがあった。あとは薬品が入っている棚がいくつかあって、先生が座る事務机と、今オレたちが使っている四人掛けのテーブルがある。後ろの壁には鏡が掛けられていた。鏡はちょうど目の位置にあったから、振り向いた瞬間にオレの顔が鏡に映り込んだ。オレはすぐさま、そこから目を逸らした。

 部屋を一通り見た後はなんだか目のやり場に困ってしまって、そのまま目の前にいる衣笠を見ていた。衣笠はやっぱり長袖のシャツを着ている。外は結構な気温だというのに袖のボタンもしっかり留まっている。

「体、悪くてさ。夏は教室行けないんだよね」

 衣笠は英語の問題集から目を逸らさず、まるでそれが何でもないことのように言った。オレは何も答えずただ黙っていた。ポットのお湯が沸騰する音が鳴る。それを合図にしてオレは「衣笠」と名前を呼んだ。衣笠の視線がオレに向く。オレは口を動かした。

「なぁ、自殺した時ってどんな気分だった?」

 その言葉は自分でも驚くほどすらりと出た。瞬間、衣笠の体が固まったのがわかった。

「どう? 少しは楽になった?」

 間髪入れず、保健室の扉が開いた。養護の谷本先生だ。

 そうすると止まった空間に、流れが戻った。 

「ま、そう簡単によくもならないか」 

 先生はそれだけ言って、机に座って鞄から出した書類に目を通していた。

 

 昼休みに葉崎先生が保健室に来た。抱えているプリントを裏向けでテーブルの上に置いて、衣笠の横に座った。すると衣笠は教科書だけ持って、隅にある小さな椅子に移った。葉崎先生は衣笠のことを気にしているようだったけれど、谷本先生が「その子はこっから出れないよ」と言うと諦めて、話を始めた。

「四時間の時間、数学の授業を変わってもらって、クラスのみんなで話したの」

 先生はテーブルに置いたプリントを表に向けて、オレに差し出した。四百字詰めの原稿用紙だった。最初の方に「青木和也」と書いてあった。出席番号一番のヤツだ。原稿用紙の束はオレを除いた全員分の作文だった。オレはパラパラと束をめくったけれど、文章は一つも読んでいない。読みたくなかった。

「みんなにはわかってもらったから。みんな、十分反省してるからさ」

 何をわかってもらったんだろう。聞かないけど、そう思った。自分たちのしていることがどういうことなのか、小学生だってわかってると思うんだけど。

「体調どう? 良いんなら教室で午後の授業受けてみない?」

 しばらく黙っていると「次の授業もあたしの授業にしてもらったから」と言って「ね?」と何回もオレに催促をしてくる。谷本先生は何も言わない。横に目をやると教科書の隙間から、衣笠がこっちを見ていた。目が合った。やっぱり逸らしてしまう。

 オレは足に力を入れて、席を立った。

 オレはこいつとは違う。

 

 教室に戻るとみんな静かに席に座っていた。その中には三浦も安井もちゃんといる。オレが席に座ると葉崎先生は何事もなかったかのように授業を始めた。オレのことに気を使ってか、今日はプリントが配られた。英語の授業は滞りなく進んだ。でもそれは英語の授業だけで、次の授業は結局元に戻ってしまった。でも不思議と怒りが沸いてこない。こうなることを半分わかっていたような気もする。

 机の中を探ると、丁寧に折りたたまれた紙が入っていた。なんとなくオレはそれを広げてみる。

 ――どう? いじめられるって。

 胸を強く掴まれたような気がした。

 オレが衣笠に自殺のことを聞いたとき、あいつもこんな気持ちになったんだろうか。


 4


 ここのところ、寝覚めの悪い日が続いている。睡眠時間はそれなりに取っているはずなのに頭がパッとしないし、胸にも何かつっかえているようで気持ち悪い。枕元にある時計を手に取った。時間は八時を少し回ったところだった。

「そろそろ起きなさい」

 お母さんが部屋のドアを開けた。オレは眠気なまこをこすって、起き上がる。

「気分はどう?」

「あんまよくない」

 そっけなく答えた。

 お母さんは「そう」とだけ言って一階に降りていった。学校を休むということは言わなくてもわかるのだろう。

 ちょうどオレの目の先に右手の手首があった。左手をそれに添えてみると、親指に振動を感じた。これが生きているということなんだろうか。ここのところ妙なことを考えるようになった。答えなんて何一つ出ないのだけれど。

 以前は体育の授業の前だけに起こったことが、学校へ行こうとすると起こってしまうようになった。制服に着替えて、玄関を出る辺りまではどうにかなるんだけれど、そこから先に足が進まなくなってしまった。

 衣笠に会いたい。会ってやっぱり、自殺のことを聞きたかった。

 左手に思い切り力を入れて手首を握った。血管に親指の爪を立ててみる。そんなことをしたって死ねるはずないのに。でも、こうしていないとなんだか悔しくて仕方ない。親にも先生にもオレが弱い人間だってことが知られてしまった。オレは弱いまま生きたくない。


 インターホンの音が聞こえた。どうせ新聞か何かだろうと思っていると、お母さんが再び部屋のドアを開ける。

「太一、養護の先生だって」

 窓から下を見てみると、谷本先生が手を振っていた。家の前に停めてある車から、衣笠も顔を出していた。制服に着替えて家を出た。

 車の中は肌寒いくらいに冷えていた。オレは衣笠と並んで後部座席に座った。衣笠は制服を着ていた。やっぱり長袖だった。

 先生は車をゆっくり走らせた。どこへ行くのかはわからないけど、べつにどこでもよかった。少なくとも、この二人ならオレの嫌がるところへは連れて行かないだろう。

「久しぶり」と衣笠が言った。オレは何も言わずに下を向いていた。

 それから車の中では会話らしい会話はなかった。聞きたいことはたくさんあったはずなのに、いざこうなると口は動こうとしない。我ながら都合のいい体だな、と思った。

 車は幹線道路を抜けて、駅の方へと向かっていく。窓を見つめていると水滴がついたのがわかった。

 しばらくして車は市民病院の駐車場へ入っていった。そこで先生は「あたしはここでいるから行ってきなさい」と言ってオレたちを車から下ろす。ポツポツと体に雨が当たるのを感じた。

 病院に入ると吹き抜けのロビーを抜けて奥にある外来へ向かう。衣笠は早々に受付を済ませて、オレを連れてもっと奥の待合室へ向かった。待合室にオレたち以外の人はいなかった。近くの窓に目を移すと、たくさんの雨が窓を伝っていた。オレはおもむろに席を立って窓の外を見てみる。じめじめというよりはしっとりした雨が降っていた。

 間もなく衣笠の名前が呼ばれる。さすがにここまでだろうと思っていたのだけれど、衣笠は「ついてきて」とオレを診察室の中に招き入れた。

 診察室の中には中年の先生が一人と、そう歳の変わらない看護士さんがいた。二人がオレに驚いた様子はない。おそらく、話が通っているのだろう。衣笠は先生の前に座って、オレは隅に置いてある椅子に、衣笠の荷物を持って座った。

「様子はどう?」

 先生が聞くと衣笠は「なかなか良くならないです。まぁ、夏ですからね」と答えた。

「腕、どうだ?」

「ひどいですよ」

 衣笠は腕を押さえながらそう言った。

 それから先生は何かを考え込むような仕草をした。そして次第に、それはオレを意識しているということに気がついた。

「大丈夫です」

 衣笠が言った。

 先生は深く息をして「じゃあ見せてくれ」と言った。

 衣笠は右の袖のボタンを外した。

 そうして長袖のシャツをめいっぱい捲くる。

 オレは思わず、つばを飲み込んでしまった。

 衣笠の腕は火傷したように荒れていた。肌色というよりは赤茶色になっている部分も多かった。特に手首は酷くて、皮膚には血がたくさん滲んでいた。

 衣笠は長袖のシャツを脱いで下に着ていたランニングシャツも脱いだ。両腕と胸から下の上半身は全部そんな感じだった。ズボンを脱ぐとトランクスの下から見える太股の肌も荒れていた。

 先生は衣笠の皮膚の状態を確認した後、渡す薬の使い方と今後の治療方法について簡単に説明した。十五分ほどの診察だったのに、とても長い時間のように思えた。

 誰もいない待合室の長いすに二人で並んで座る。衣笠はシャツのボタンを留めていた。

「あの噂、半分ほんとだけど半分うそ」

 軽い口調で、衣笠がそう言った。「せっかく遠くの学校受験したのに、噂って付いて回るもんなんだなぁ」と言葉を続けた。

「死のうと思ったことは何回もあるけど、実行したことないよ。リストカットなんて怖くてできなかった」

 衣笠はまるで珍しいものを見ているかのように自分の手首を見ていた。そうしたあとで、袖のボタンを留めた。

「アトピーって聞いたことあるでしょ? あれが酷くなるとこうなんの。今は顔とか手の甲とか見える部分の症状が治まってるから長袖着てればとりあえず隠せるけど。でも夏は暑いから体、すぐかゆくなるんだよね」

 衣笠くらいの症状だと皮膚が伸び縮みするだけでも痛みがあるらしく、酷いときには歩くこともできないらしい。だから気温の高い日は家から出ない。出たとしても冷房の効いている保健室で過ごしているのだそうだ。

「でも、死のうと思った原因はいじめだった。オレ、こんなんだから小さい頃からよくいじめにあってたんだ。その頃は顔にも出てたから……。教室にも毎日行けるわけじゃないから友達なんてできなくて……」

 待合室には空調の音と雨の音だけが静かに流れている。

「だからごめんね、自殺した時の気分って、わかんないんだ」

 衣笠の声はどこか申し訳なさそうだった。

「大丈夫だよ。阿部くんなんか全然大丈夫じゃん。臭くもないし、気持ち悪くなんかない」

 オレはやっぱり、黙ったままだ。

「オレもさ、同じようなこと言われたけど本当のことだったから何も言い返せなくて……でも阿部くんはそんなことないじゃん」

 衣笠がオレを慰めようとしていることがわかって、それでもどこかで同情してるとか見下してるんだということを思ってしまう自分もいた。そういう思いが錯綜して胸の奥に何だか熱いものが溜まっていくのがわかった。オレは喉に意識を集中して、重い口を開いた。

「なんでオレなんだ? なんでおまえはオレに話しかけてくる? 同情? それともつまんない正義感? それともやっぱり弱いヤツを見下してんのか?」

「言っとくけど、先に話してきたのは阿部くんだよ」

「……何のことだ?」

 心当たりはなかった。

「最初の体育の授業、覚えてない? 阿部くんが『授業出ないの?』って言ってくれたんだ。オレが高校入って初めて声を掛けられた瞬間」

「それ、喋ったうちに入るのかよ……」

「入るよ。嬉しかったんだから。中学の頃は体のことがあったから誰も近寄ってくれなかったし」

 衣笠は軽い口調のまま、そう言う。

「ねぇ、オレのためでいいから、そばにいてよ」

 オレは衣笠の方に視線を移した。

「まえにオレが阿部くんにそう言うのは哀れみとか同情とかって言ってたでしょ?」

「あぁ」

「そうじゃないよ。本当はオレが阿部くんにいて欲しいだけだから。仕方なくとか哀れみとかでもいいからいてよ」

 そう言って今度は軽く笑った。

「オレさ、自分のこと嫌いなんだ。体もそうだけど、性格とか、オレのことを見る周りの目とか。なんでオレだけそう見られなくちゃならないんだろうとかずーっと思ってた。何かしたわけじゃないのにさ」

 また、笑う。

「自分で自分のこと好きになれないからいて欲しい。誰かが好きになってくれる自分なら、少しは好きになれるかもしれないから」

 それがなんとなく、わかった。

 オレはただ、ひとりになるのが怖かっただけなのかもしれない。弱い自分なんて誰も好きになってくれないから、こんな自分になるのを認めたくなかっただけなのかもしれない。

 衣笠の目を、不思議と目を見ることができていた。そうすると、だんだん胸の奥に溜まったものをせき止めていたものが溶けていくのがわかった。

 口が軽くなった。言葉は途切れて思うように出なかったけれど、衣笠はオレの話を黙って聞いてくれていた。

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