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「おかえりなさい」

「ただいま戻りました」つい、仕事の癖で一礼する。「夜明けの海を見てきたんです。……東京で見る海とは全然違いますね、海水がすごく綺麗で……情緒の感じられる素敵な町ですね」

「それを聞いて嬉しいわ。……私はこの町の出身ではないの。でも、第二の故郷だと思っているから……」

 ――蒔田さんが明かさなかった理由が、分かる気がする。

 経緯を知ったいまとなっては、先入観なしではこのひとを見られない。

 彼を産み、……彼を自分の子どもだと認められない、母親を。


 自分の先入観なしで母親を見て欲しかったのだ、彼は、きっと。


『――坊っちゃんの子どもの頃を? ですか』

 長風呂派の蒔田さんが温泉にどっぷり浸かってる隙を見計らっての単独行動だった。

『ええそりゃあそりゃあ――わたしゃあ古くからお仕えしとるもんですから、ええ、坊っちゃんがこぉんなちぃさい頃から存じ上げております、――ええ、表情の豊かでねえ、誰にでもにこにこするあっかるい赤ん坊でしたよ』

『表情、豊か……』思わず復唱した。

 彼が会社で裏でなんと呼ばれているか。

 鉄仮面、鬼の蒔田、クールフェイスに氷人間、……、

 仏頂面がトレードマークの男・蒔田一臣にそんな時分があったとは。

 と思い、――思い直した。

 生まれながらにしてこころを閉ざす子どもがどこに居るのだろう。

『いつ、変わったんですか。彼は……』源造さんは過去形で語った。現状がそうでないという認識に基づいてだ。その認識をあたしも共有している。

『坊っちゃんの額のこの辺りに、傷があるのをご存知でしょうか。……私が言うのも憚られますが……』

『知ってます。ふだん前髪で隠していますけどかなり、大きな傷ですよね。五歳の頃に七針縫ったとか……』

『残念ですが――


 奥様が、錯乱されたときに出来た傷です』


 坊ちゃんは――午前で幼稚園の終わる日がありましてね、そうでした、土曜日でした……奥様にお花を買って帰られたのですよ。――母の日と奥様のお誕生日が近いもんですから。樹坊ちゃんは試合がございましたので、内緒で、……後から、二人からのプレゼントにしようと考えておられたようです。――帰宅すると玄関先に奥様がおられまして、坊っちゃんは真っ赤なカーネーションの花束を手渡されました。……花がお好きな奥様にすこしでも喜んで頂こうとのお気持ちでです。ところが――

 巡り合わせが悪うございました。

 ちょうどその直前に、奥様は、――汐崎しおざき正臣まさおみ氏が亡くなられたと聞き及びになり、


 突き飛ばされ、……打ちどころが悪く……いえ、念の為に検査した結果脳に障害はございませんでしたが。



 なんで、あんたが、生きているのよ



『それが、おそらく、坊っちゃんの物心のついた頃の、――奥様が初めて坊っちゃんを息子だと認識した最古の記憶にございます――わたしの知る限りでございますが』


 半狂乱で実の母親に掴みかかられ、

 自分の存在を、なじられ、

 恋人の喪失を――せめて生きていればという希望を打ち砕かれた失望のないまぜを、慟哭を、ぶつけられ、

 額があんなになるほどの傷を負った五歳児を想像できるだろうか。


 大量に出血もしたに違いない。それに――


『……精神的なもののほうが目に見えぬぶん、根が深いかもしれんな』


「……女将さん」

 思い起こすと薄ら寒い気持ちになる。その場面を想像してみると。……大切な人間を傷つけられた人間の――これこそが蒔田さんの語る、『憎悪』だ。「昨日一臣さんに紹介頂いた通り、わたし、……一臣さんと、真剣に交際させて頂いております。ええと、彼とは真面目な――その、結婚を前提とかではなく、いえ、期待しているのでもそんな浮ついた気持ちでもないんですが将来を見据えた」

 なに、口走ってんだろう。

 確かに、彼に、おまえのすべてが欲しいとかずっと傍にいろとかそのたぐいのことは言われたが、早まってる。「……真摯に物事に向き合う方ですので、わたしも、彼のことを、大切に、して行きたいと」

 まずい。

 なにが言いたいんだかだんだん自分で分からなくなってきた。

 冬なのに額から冷や汗が流れる。

 たまらず顎の下を拭うあたしに、女将さんは微笑みかけた。

 母のように。

「幸せ者ね、一臣は。……あなたのようなかたに想われて」

 本気で言っているんだろうか。

 仕事で身につけたろう微笑では本心が、読めない。

 あたしはもしかしたら嫌疑も露わな表情をしているかもしれない。

 どこまでもあたしは、一臣さんサイドで物事を捉えている。

 だから彼は敢えて、あたしに母親寄りの話をした。

 憎悪を伝染させたところで、誰も得をしない。巻き込むことを彼は、望まない。

 いまあたしにできるのは――

「わたしのほうが、……幸せです。彼のようなかたに巡りあえて」

「ま。……ごちそうさま」

「頂かせて頂く身分ですが恐縮です」

「面白い方ね、……朝食のお時間、お少し早いほうがいいかしら。……あの子、昔っから長風呂だから、あなたを待たせてしまっているわね、ごめんなさいね」

「いいえ」慣れてますからとは流石に言えない。生々しい。「部屋でくつろいでいますので、大丈夫です。上京して以来、畳の部屋で過ごす機会がありませんし、……畳の部屋ってやっぱり本当にいいですね」

 ボキャブラリーの少ない人間が頑張って褒めようとすると最終的に水野晴郎の決め台詞に至る。

「ゆっくりしていってくださいね」幸いにして女将さんから切り上げる気配だった。「……七時を過ぎれば朝市も開きますし、……時間が許せばヤセの断崖もお勧めよ」

「ええ。ありがとうございます」さきほどから何人もの仲居さんが一礼をし通り過ぎる。朝食の支度があるのだろう。「……お引き留めしてすみませんでした」

「いいえ。あんまりお話できなくてごめんなさいね。また、いらして頂戴ね」

「はい。是非……」

「ではまた」


 話してみなければひとは分からない。

 話してみても、分からない。


 あたしの観察力の問題もあるだろうけれど、――蒔田美智子さんは、彼のことをないがしろにする母親には、見えなかった。

 裏側にある真実は、簡単には見抜けない。

 もしかしたら蒔田美智子さんは、蒔田さんが思うよりも彼のことを大事に思っているのかもしれないし、違うのかもしれない。真実は本人にしか、分からない。

 そしてそれは本人が伝えなければ、相手に、伝わらない。


 部屋に戻ると蒔田さんが急須にお湯を注いでいて――背筋がひやりとした。

 彼不在の隙に二人のかたにお話をお聞きしていたのだ。

「茶を淹れた。飲むか」

「うん、頂く」

 下を向いていた彼がちらり視線を投げた。「喉が乾く頃だろうと思ってな」

 ――あああ。

 あたし、慌てて彼のもとに駆け寄った。「もう、訊かれるまえに自白しとく。源造さんと、あなたのお母さんに、話を聞いてきたの。……抜け駆けして悪いと思ったけど、だって、気になったんだもん」

「別に謝る必要などない。――それだけおれのことが知りたいっていうおまえの意志を確認した」

 彼、怒ってるのか喜んでるのか。

 女将さん譲りのポーカーフェイスだ。

 腕に絡ませた腕をあぶねーだろと言って離される。おっぱい押し付け作戦も効果なしと来た。「……半端な話し方しちまったもんな。夜、眠れたか」

 前髪をかき分けられる。冷や汗はとっくに乾いている。

「くまができてる。……泣いたな、昨晩と、つい三十分まえ。違うか?」

「はずれ」二十五分まえ。

「まったく」熱茶を彼はぐいと冷酒みたく飲み干した。「多少の誤差を大目に見ろ」

「だって。先にゆっておくと、蒔田さんのことだから言わないよう手回ししそうだし」

「だな。おれは無意味にかっこつけた中途にマッチョで無愛想なタコ面した変質者だから」

「そこまで言ってない」……さりげに根に持ってる。「前言撤回権があれば行使します」

「行使するからおまえの好きなやつを言ってやる。好き、キス、好き、キス」

「おだまりなさい」

 彼の唇はほのかに緑茶の味がした。

 うっかり、彼がいつもするように頭を覆い押し倒したがために、

 ――彼の生々しい現状を、認識した。


「あ、の、蒔田さん……えと」

「さっきから刺激すんな。……この場であまり、そういうことはしたくない」抱き寄せて上体を起こし、急いで茶を飲む。ってそれあたしのぶんの緑茶。

 痒くもないだろう頭を乱暴に掻く。お風呂入ったばっかりなのに。「……鍵、かけてねえだろ。第一、実家で抱くなんてのはおれとして抵抗が……準備もそのあれだごみでばれるのも恥ずいもんが……ティッシュ減りまくるってどこの中学生だって話だろが……」

 高校時代に女の子部屋に連れ込んだ経験、ないのかな。手を出すとか。

 無さそうだ。

「帰ったら好きなだけ貫いていいよ」

「頼むから、……くそ」注ぎかけた急須には茶が残っていなかった。


 蒔田さんのペースを乱せるのがこの場所なんだ。


 と気づいたときに可笑しいような――ううん嬉しい気持ちになった。


 実家が彼にとって安らげる領域だということ。


 あんまりからかい過ぎると逆の立場となった場合、――彼をうちの実家にお招きした場合に、報復されかねないので、やりすぎ禁物、だけれど。


 通常、兄弟には似た名前をつける。お兄さんの名前が樹さんだと聞いたときに、かすかな違和感を持った。そこから派生する或る考えが、源造さんから蒔田さんの実父のフルネームを聞いたときに、結実した。

 以前、蒔田さんと恋人関係になる以前に、後輩の一人が蒔田さんに名前の由来を聞いていた。


 一文字を譲り受けた、と。


 ――それが。

 母の彼に対する愛情を示すものなのか。

 考えようによっては、母の、父への当てつけなのか――あるいは父の、母への当てつけなのか。あたしが考える限りでは後者のほうが可能性が高い。

 蒔田さんは生まれて以来祖父母――既に旅館の経営を蒔田さんの父親に譲り、同じ海野に住まう老夫婦――に一度足りとも会ったことが無いと言う。

 蒔田さんのお父さんがお母さんのことを許しているかどうか、他人のあたしには、分からない。

 分からないことで人間のことを測れない。

 ましてや、ひとのこころは日々変わりゆくものだから。


 達観主義者であり、どう考えても生来性犯罪人説――犯罪者が生まれながらにして犯罪を犯すよう宿命付けられているという一説――を受け入れそうにない彼が、血の繋がりを恐れるのは――周囲の言動に起因する。

 心変わりは誰にも止められん、と諦める彼が、

 自分のことが恐ろしくなる、と語るほどに悩む理由が。

 彼を纏う母子関係父子関係の現状をまだ掴めていない。伝聞だけで物事は測れない。けどももし、彼とこれからも関わっていくとしたら――すこしでも、話せる。理解し合える、一助になれれば――就職して以来実家に寄り付かずの彼が帰省する機会も増えるだろうし。……こういう考え方って鬱陶しいかなあ。


 第一、彼と結婚するだなんて決まっていないのに。


「失礼します。お客様、お飲み物はいかがなさいますか。オレンジジュースコーヒー」

「オレンジジュースを二つで」

「かしこまりました」

 彼はブラックコーヒー派だけれど、たまにはどうかなと思って。

 客室乗務員が去ると、隣で腕を組んで眠っていたかに見えた彼が薄目を開いた。「こいつはなんだ」

「聞いてたでしょう。オレンジジュース」

 げっ、と不快感を露骨に顔に出した。「砂糖何杯分あんだ……」

「百聞は一見に如かず飲まず嫌いは直しましょうはいどうぞ」

 一口飲んで彼。「……残り全部飲むか?」

「諦めが早いわね」


「おれと結婚するか」


 勢い良く、噴いた。

 こんな漫画みたいな現象が自分に起こりうるなんて。

 慌ててポケットに入れていたティッシュを取り出しテーブルを拭く。「言う? こんなところで」

「場所が問題なのか」

「そういう意味じゃ、……普通ね、レストランとか二人でデートした初めての場所とか思い入れのある場所とかで」

「新橋の居酒屋のほうが良かったか。ふむ……」

「良くないっ。ちょっともージュース飲んでないで手伝ってよ。これ、あなたのせいなんだからね」

「そこまで驚くと思っていなかった。実家に連れていったからてっきり意識してるものだと」

「してるわよしまくってるわよ、そこで畳み掛けられたから動揺してんの」

「顎についてるぞ。……口、閉じてろ」

 顎先を拭いてくれた。なんか彼がしてくれるだけで気持ちいい。

 ……じゃなくて。

「目まで閉じろとまでは言っておらんのだが」すこし彼、笑う。しまった。

 癖でつい。

 こうやっていつも彼にペースを崩される。

 あたし怒っていたはずなんですが。

 どこがツボにはまったのか、お腹を押さえ喉を鳴らしくつくつと笑う。あたしが大慌てしてるあいだにさっくり飲み干してテーブル畳んでるし。(残り全部あげるって言ってなかった?)

 その横顔に見惚れちゃうからこっちがいけないんだろう。ああ――まったく。


 蒔田一臣を断れる方法があるならこっちが知りたい。


「考えさせて、ください……」

「おれこそ、考えておく……おまえが喜ぶ方法ってやつをな」

 有言実行の彼は。

 一ヶ月を待たずして実行する――クリスマスの日に。

「いきなり言われて心臓が口から飛び出るかと思った」

「飛び出たのはオレンジジュースだろ」

「冷静に掘り返さないでよ」

「おれと居るとつまらんか」

「ううん楽しい」

「飽きないか」

「動物園のゴリラみたいに表情豊かで飽きない。ファンタジスタだよね」

「ご、り……」予想外だったらしい。「表情が豊かなどとはめったに言われん」

 源造さんも言っていた。


『坊っちゃんがお嬢様を紹介されたときに、照れ笑いをなさったでしょう。わたしゃあ、……坊っちゃんのあんなに満ち足りた表情を拝むことができまして、生きていてほんっとうに、良かったぁと……あぁあ』

 感極まり目頭をハンカチで拭き鼻をティッシュで拭っていた。

 あたしのほうも感極まった。


「会社でこーんな顔してるよりかくるっくる表情変わるもん。面白いよ、あなたって」

「愛しいか」

「すっごく……」本音が漏れた。「どう言い表したらいいか分からないや」

「それなのに、考えたい、と来た」

「あなたこそプロポーズのTPOを考えて欲しかったわ」

「帰りおまえんちに寄ってって構わないか」

「うん。散らかってるけど、……濃ゆいコーヒー、淹れたげるよ」

「お礼もいっぱいしたげるよ」

「な!? ……にを言ってるのよいったい」

「おまえこそなにを意識している」

『皆様にご案内いたします。この飛行機はおよそ10分で着陸いたします。座席のリクライニング、フットレスト、前のテーブルを元の位置にお戻しください。――』

 残っていたジュースを飲み干し、畳んだ紙コップを座席の雑誌入れのところに入れる。――国内便って着陸まであっという間だ。短時間のフライト。一度、最後尾の座席を選んでジュースが貰えなかったことも、あったんだとか。

 今回、空いてなかったから後部座席を選んだが。

「羽田着いたらどっか寄ってく?」

「いい。……おまえ、一刻も早く帰りたいだろう」

「べっつにあたしは欲しいなんてっ」

「おれは寝る」

「……あ。おやすみなさい」

「ありがとうな。一緒に行ってくれて」

「うん?」

「おまえが居ないと実家に帰る機会が無かった」

「あ、たしこそ、……連れてってくれて、ありがとう。嬉しかった」

「うん……」

 彼をもっと知りたいという気持ちだとか。

 これからも一緒に居る勇気だとかも、湧いた。

 眠る彼から窓の外に目を移す。千葉――まだ茨城らへんだろうか。山々には雪も目立つ。これから十分足らずで羽田に着くなんてまだまだ信じがたい光景だが、すぐに海に、京浜工業地帯だったっけな、煙を吐く工場地帯に差し掛かり、目的地に到着する。――驚くほど早く世界は展開する、あたしの知らないところで。

 彼のこともそんなだった。

 自分が好きだと思う彼は、それまでに様々ななにかを経験し、それを経て、いまの彼がある。

 ……考えてさせて、なんて言わなきゃ良かったな。

 からかうんなら傷つかない冗談にすべきだった。

 だって彼以外――


 知りたくて好きな相手なんて今後ずっと見つからない。


 収穫を得られたのはあたしだけでなく、

 昼の日差しを受けた彼の寝顔は心なしか微笑んで見えた。



 ―完―

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