40.結
すっかり初夏の陽気。
ぽかぽかと温かく、どんな病も治りそうな気さえする。
「おはようございます、沖田さん」
琉菜は襖を開け、沖田に声をかけた。沖田はすでに目を覚ましていて、小さな木箱に入っていた写真を眺めていた。それは、近藤や土方と撮影した写真だった。
「おはようございます。なんだか眠れなくて、陽が昇ってからずっとこれ見てたんです。近藤先生や土方さん、元気ですかねえ」
琉菜は一瞬表情をこわばらせた。沖田の生死の話はできても、近藤や土方の話はやはりできない。
「お二人とも、元気に戦ってるはずですよ」
「そうですよね。あの二人、殺しても死ななそうな感じしますもん。……それで、今日は?」
今日は?とは、むろん「私は今日生きますか?死にますか?」という意味である。
「大丈夫です。安心して下さい」
琉菜と沖田は、毎朝決まってこんな会話をするようになった。
沖田が安心できるなら、と琉菜は沖田に今日一日生きられるかを告げている。
が、琉菜には疑問があった。
「あの、沖田さん、ひとつ聞いていいですか?」
「はい」
「今日生きられるのがわかって安心するのはわかりますけど、また明日その……ダメかもしれないって思ったりはしないんですか?」
沖田はにっこり微笑み、こう答えた。
「私はもともと今日を精一杯生きるようにしてきたんで、明日より先のことはあんまり考えない性分なんですよね」
なるほど。
今日生きられればそれでいい。
でも、だからこそ、今日死ぬと思うと怖い。
沖田さんは、そう思ってあたしにこんなことを頼んだんだよね。
「とにかく安心しました。今日は何をしましょうか」沖田がにこやかに言うので琉菜は朗らかな笑みを一転させ、ぎろりとした視線を投げた。
「寝て、寝て、寝まくること!それだけです」
「もうそれは飽きました」
「飽きてる場合じゃないでしょう……でも、そんなこと言ってる余裕があるんなら、まだまだ大丈夫みたいですね」
「当たり前ですよ」
「……あとで、トランプでも作りましょうか。二人でやって面白いことはあんまりないですけど」
「とらん……?」
「西洋の遊びです。とりあえず、朝ご飯持ってきますから横になっていてくださいね」
***
数時間後。
沖田はニ枚の紙を持って眉間に皺を寄せている。
琉菜は、右の紙に触れた。すると、沖田の眉間の皺はさらに深くなる。
左の紙に触れると、嬉しそうな顔をした。
琉菜はその様子を見て、沖田の手から右の紙を引き抜いた。
紙には、菱型の図形に、漢数字で四と書いてある。琉菜は自分の持っていたハートの四を合わせて沖田の前に置いた。
「ああっ!琉菜、ちょっとは手加減してくれたって……」
「だって、沖田さん、わかりやすすぎなんですもん。あたしのこと、敵だと思ったらどうです?戦う時は動きを読まれないようにって、沖田さんいっつもポーカーフェイスだったじゃないですか」
「ぽー……?」
「とにかく、表情に全部出てるんですよ。ああそっちがババなんだなってすぐわかっちゃいます」
沖田はしゅんとした様子でババ――へのへのもへじの絵が描いてある――の紙を凝視した。そして、にっと笑みを浮かべた。
「なるほど。だんだんわかってきましたよ」
琉菜のアドバイスは裏目に出てしまった。その後は沖田の勝率が格段に上がり、五勝五敗の引き分けになったところでババ抜き対決は幕を閉じた。
新選組の沖田総司とババ抜きをしている、という事実を改めて噛みしめると、琉菜は可笑しくなると同時に、残された時間の短さに心臓をかきむしられるような心地になるのであった。
「琉菜」
沖田は改まった調子で琉菜の名を呼んだ。
ババ抜き以外に二人で成り立つトランプ遊びは他に何があっただろうか、と考えを巡らせていた琉菜は我に返った。
「は、はいなんでしょう。さすがにもう一戦はやりませんよ」
手作りトランプをまとめている琉菜の手に、沖田はそっと自分の手を重ねた。琉菜が驚いて沖田の目を見ると、真剣な眼差しと視線がかち合った。
「私たち、夫婦になりませんか」
琉菜は一瞬何を言われたのかわからず、言葉が出なかった。
「め、めお……と?」やっと言葉を絞り出し、琉菜は頭を整理しようとした。
えっと、これってつまり……プロポーズ?
うそ、うそでしょ?本当……?
「あたし……あの……」
「ダメなんですか?」
「だ、ダメなわけないですっ!ただ、ちょっとびっくりして……」
「じゃ、決まりですね」
「ほ、本気で言ってるんですか?なんで……」
沖田は優しく微笑んだ。
「最近、ずっと考えていたんです。私はもう、長くない。あなたは、この世の人ではない。だからってこの日々が、琉菜の存在が幻だなんて思わないけれど、何か形を、証を残せたらと思って。沖田琉菜として、私が生きている間だけでいいですから、沖田総司の妻を名乗ってくれませんか」
琉菜は、ぽろぽろと涙を流した。袂で目元を拭うが、とめどなく溢れてくる。
「馬鹿なこと言わないでください。生きている間だけなんて。そんな形に残さなくたって、あたしはここにいますよ。でも、でもなりたいです。沖田さんの妻に」
沖田はそっと琉菜の背中に手を回して抱き寄せた。
「ありがとう」
信じられない。実感がわかない。
あたし、沖田さんの奥さんになるの?
「祝言はどうしましょうか。もっとも、呼べるよう人はあんまりいないんですけどね」沖田は何事もなかったかのように、てきぱきとそんな話を始めた。
「そ、そんなのいいです!」
沖田が不思議そうな顔をしたので琉菜はつけ加えた。
「あの、この時代じゃちゃんと式っていうか祝言するのが普通かもしんないんですけど、あたしの時代では、必ずしも結婚式はしなくてもよくて。お互いが認めれば、それでいいんです。だから……」
「わかりました」
沖田はにこりと微笑み手に力をこめた。
ありがとう、沖田さん。
こんなあたしを、選んでくれてありがとう。
大好きだよ。本当に。
あたし、これから一生、ずっとずっと、沖田さんのこと愛するからね。
植木屋の平五郎夫妻だけには、二人が夫婦の契りを結ぶことを報告した。
平五郎とサチはあまり驚いたような素振りも見せず「それはめでたい」とささやかな宴の場を設けてくれた。
「こんな時だから、派手な祝言はできませんが、せめて私たちがお二人をお祝いしますよ。たった四人の宴ですが、今日は楽しみましょう。乾杯!」
「乾杯!」
平五郎の音頭で四人は杯を掲げた。
もっとも、杯の中身が酒なのは平五郎だけなのだが。
「本当にめでたいわ。質素ですけど、私までなんだか幸せな気持ちになっちゃう」サチもにっこりと微笑んだ。
「ありがとうございます。戦でなかったら、新選組の人たちも呼びたかったんですけどね」琉菜は冗談っぽく言った。
それから小一時間、ささやかな宴が繰り広げられた。
最終的には、平五郎が酔い潰れてしまい、その場はお開きとなった。
そして後片付けも終わり、琉菜はおやすみと挨拶をしに沖田の部屋に入った。
「今日は楽しかったですね」沖田はにこりとして言った。
「はい。あたし今、すごい幸せです。明日はお祝いにお団子でも買ってきますね」
「ふふっ、自分で祝うんですか」
「いいじゃないですか。あたしが一番祝いたいんだから。……それじゃおやすみなさい」
琉菜が立ち上がろうとすると、「待って」と沖田が呼び止めた。
琉菜は不思議に思いながらも、座り直して沖田を見た。
「もう夫婦なんですから、琉菜もここで寝ませんか?」
「えっ?」
琉菜は突然思いがけないことを言われ面食らった。
そうだよね……あたし今新婚さんってやつなんだよね……実感わかないけど。
でも、沖田さんと同じ部屋で寝るなんて、本当に夫婦みたい。
「あ、ごめんなさい。そんなことしたら、感染っちゃいますよね」
「そんなの今更気にするはずないじゃないですか !あたしは予防接種だってしてますし……でも……でも……」
琉菜は黙り込んだ。三秒程考えると、首を縦に振った。
「あの、それじゃ、あたし布団持ってき……」
「その必要はないですよ」言うが早いか、沖田は琉菜の腕をぐっと引っ張り、自分の布団の中に引き込んだ。
「ちょ、沖田さん?」
沖田は少し起き上がって枕元の行灯の火を吹き消した。
部屋は真っ暗になり、わずかな月明かりで沖田の顔がぼんやりと見えた。あまりの近さに、琉菜の心臓は高鳴る。
沖田は琉菜の頬を撫でると、そっと口づけた。
「沖田さん……んっ」名を呼ぶと、二回目の口づけが降ってきた。
「おかしな人ですね。あなたも"沖田さん"なんですよ?」
「あ……」
琉菜はハッと気付き、少し迷ってから「総司……さん?」と呟いた。
沖田が驚いたような顔をしたので、琉菜はしくじった、と思い「な、なんか変です!今のナシ!」と慌てて言った。
「そんなことないですよ。ただ、そんな風に呼ばれると思わなかったから」
「……あ、そうか。すみません、時代劇で旦那様とかお前様とか、そんな感じで言ってたっけ……」
「いいですよ、さっきので。新鮮で好きです」
目の前にはいたずらっぽく笑う沖田の顔があった。目が慣れてきたせいか、先ほどよりも鮮明に表情が見える。反対に、赤くなった自分の顔は暗闇に紛れて見られずに済んでいればいいと思った。
沖田の手は今、琉菜が着ている寝間着の帯の結び目にある。
経験こそなかったが、琉菜も数えで齢二十四の大人だ。この先の展開は読める。読めるが、いざとなればそれとこれとは別である。
「沖……総司……さん、えっと、その、やっぱり心の準備が……」
「嫌ですか?」
「嫌ではないです……けど……」
沖田は再び琉菜の頬を撫でた。
「私だって男です。愛しい人を抱きたいと思うのは当然でしょう?」
土方ならいざ知らず、沖田がそんなことを言うのが琉菜には少し信じられなかった。
まさか、沖田さん、このために結婚した……?
病気、悪化しちゃわないかな……
でも、いいよね。
「琉菜」
名を呼ばれ、琉菜はドキリとして沖田を見つめた。
沖田は、わずかに微笑むと、三度目の口づけを落とした。
琉菜は、帯が緩められるのを感じた。
そして、はだけた寝間着の間から、暖かい手が入ってくるのを感じた。
***
目が覚めると、琉菜はいつもと違う景色に違和感を覚えた。
外からは朝の光がさしこみ、ふと顔を横に向けると、沖田がすやすやと寝息を立てて眠っていた。
琉菜は改めて昨晩のことを思いだし、顔を赤らめた。
ああ、あたし、本当に……
すると、沖田がぼんやりと目を開けた。
「あっ、お、おはようございますっ」琉菜は驚いてしどろもどろになった。
「おはようございます」沖田は小さく微笑むと、ごろんと仰向けになった。
「今日は?」
琉菜は一瞬このことを忘れていたが、ハッと気付いて慌てて答えた。
「大丈夫ですっ」
沖田は満足そうな顔をしてむくりと起き上がった。
琉菜もつられたように起き上がった。
「それじゃ、今日も一日一緒にいられますね」
「はい」
二人は互いに顔を見合わせ、微笑んだ。
琉菜と沖田の夫婦生活はまだ始まったばかり。
しかし、残された時間は少ない。
琉菜は短い短い、新しい日常を、精一杯に生きようと思った。




