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青嵐―誠の未来へ―  作者: 初音
第3章
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35.お姉さん





 歴史は、新しい時代へとめまぐるしく進みつつあった。


 「大政奉還がありました」「王政復古の大号令がありました」「明治になりました」


 ともすれば歴史の授業においてその程度で流されてしまうこの時期の世情は、一日一日をリアルに生きる者たちにとってはもちろん、そのような簡単な話ではない。


 松本が診療所を構えていた浅草・今戸は他の地域もそうであったようにものものしい雰囲気に包まれ始めていた。この頃すでに勝海舟・西郷隆盛らの会談によって、かの有名な「江戸城無血開城」が決定していたが、未だ庶民の間までは情報が浸透していない。故に琉菜が府中の宿場町で聞いた通り「江戸の町が戦場になるのでは」と危惧して親類縁者を頼って引っ越す町民も多かったようだ。


 松本や琉菜はむろん無血開城の件を知っていたが、そうかといってこれですべての戦が終わるなどと楽観することも到底できなかった。何しろ、新選組をはじめ徹底抗戦を主張する勢力もまだまだ無視できない程大きかったのである。


 いずれにしろ、今の環境では療養中の沖田の体は休まるものも休まらない。もっと静かなところに行くべきだと言うことで、沖田は松本の紹介で千駄ヶ谷にある植木屋平五郎の家に移ることになった。琉菜ももちろん同行した。



 現代でも、千駄ヶ谷は新宿御苑を擁する都内でも数少ない自然の残るエリアだが、この頃ももちろん、のどかな自然が広がる療養にはぴったりの場所であった。


「いいところですねえ。試衛館からそこそこ近いのに、こんな場所があったなんて知りませんでしたよ」


 沖田はそう言って、満足そうに縁側から庭を眺めていた。

 間借りしたのは小さな離れだった。六畳の部屋が二つ連なっているだけで、あとは板の間に簡単な囲炉裏がある程度だ。食事の支度は母屋の台所を借りることになっていた。

 それでも、このこぢんまりとした家を琉菜も沖田もすぐに気に入った。しかもさすがは植木屋とあって、離れから望む庭は手入れが行き届いており、心が落ち着く。


 

 引っ越してから数日後。

 未来から持ってきた粉末スポーツドリンクが底をついていたので、琉菜は囲炉裏でお手製のスポーツドリンク――塩と砂糖を溶かしたぬるま湯のことだが――を作りながらぼんやりとあることを考えていた。それは、「沖田の世話係」のことについてである。


 この植木屋平五郎の家に移ってからは、世話係の老婆が雇われ、文字通り沖田の身の回りの世話をする。おおかたの史実解説本にはそう書いてあった。それが史実だと琉菜も思っていた。だが、未だそんな老婆が現れる気配は微塵もない。


 もしかして、あたしがその老婆にあたる人になってる……よね?


 これは、歴史を変えられたということだろうか。否、もともと老婆かどうかというのも諸説あるうちの一つに過ぎないのだし、世話係の年齢性別などいちいち未来の世に正確に伝わるわけでもないだろう。


 それでも琉菜は「歴史は変えられない」という今まで山崎と立ててきた仮説を覆すことがあるのではないかと、わずかな望みを抱いた。


 しかし、「望み」というポジティブな気持ちと共に、琉菜は否が応でもネガティブな、「恐怖」ともいえる感情に悩まされ始める。


 なんといっても、この植木屋平五郎宅で、沖田はこの世を去ることになっているのだから。


 いよいよ、最後の地。

 残りの時間を沖田さんが穏やかに過ごせるようにサポートする。

 その大役を担えることを、誇りに思おう。

 大好きな人の側に、まだまだいられるんだから、暗くなったらダメだ。


 琉菜は自らをそうして奮い立たせることで、なんとか恐怖心と折り合いをつけていた。



 そんな折、客人が訪ねてきた。琉菜が出迎えると、どこか見たことのあるような面差しの女性が立っていた。


「私、総司の姉のミツと申します」


 琉菜は途端に納得した。見たことがあるも何も、沖田に似た女性なのだ。


 そうか、この人が、沖田さんのお姉さんの……


「初めまして。あたし、沖田さんの身のまわりの世話をさせてもらってます。琉菜と申します」琉菜はぺこりとお辞儀した。


 優しそうな人。

 このお姉さんに育てられた沖田さんがああなるの、わかる気がする。


「沖田さんの部屋に案内しますね」


 琉菜は踵を返した。

 ミツもあとからついて来た。



「姉上!」沖田はミツの顔を見るなり嬉しそうに声を弾ませた。

「久しぶりね、総司。思ったより元気そうでよかったわ」


 ミツは沖田の傍に腰を下ろした。


「松本先生のところに行ったら、こっちに移ったって言うから」

「そうだったんですか。わざわざいいのに」


 沖田の屈託のない笑顔を見て、琉菜は姉弟で積もる話もあるだろうと思い、お茶でも入れようと席を外した。


 だが、用意のできたお茶を乗せた盆を持って部屋に向かうと、ちょうどミツとすれ違った。


「あら、お茶入れてくださってたの。わざわざありがとうございます。せっかくなのに申し訳ないですけど、すぐに出ますので」ミツはにっこりと笑みを浮かべた。弟のそれを彷彿とさせる笑顔だ。


「あの、もういいんですか?」まだものの十分か十五分程しか経っていないので、琉菜は驚いた。

「ええ。あまり長居すると別れがつらくなりますから」

「別れ……」琉菜が小さく言うと、ミツが付け足した。

「私、主人の都合で庄内に一緒に行くんです。帰ってくるころにはもう、間に合わないかもしれませんから……」


 ミツは最後の言葉を独り言のように小さく言った。

 まだ微笑みを浮かべてはいるものの、その目には明らかに悲しみの色が見てとれた。

 琉菜の方がそんな姉の姿を見て泣いてしまいそうになったが、ぐっとこらえ、何か言わねばと言葉を選んだ。


「あの、あたし、責任持って沖田さんの看病します。だからその……安心してください」


 ミツは驚いたように琉菜を見ると、また笑顔を見せた。


「ありがとう。優しいんですね。弟を、よろしくお願いします」


 平五郎さんたちにも挨拶して帰ります、とミツは琉菜の前から去っていった。

 あっと言う間の、姉弟の最後の時間だったのだ。


 本当に、なんて時代なの……


 そんなことを、琉菜は思わずにはいられなかった。






 せっかくだから、入れたお茶は沖田と一緒に自分で飲んでしまおうと琉菜は再び部屋へと歩を進めた。


 だが、足取りはどうしたって重くなる。


 ――間に合わないかもしれませんから。


 その言葉が、琉菜の頭の中で繰り返された。


 あの時、おミツさん泣きそうな顔してた。

 弟と、こんな形で別れるなんて、つらすぎるよね。

 なんだか、申し訳ないな。お姉さんは行かなきゃならなくて、家族でもなんでもないあたしが沖田さんの側にいるなんて。


 ごめんなさい、お姉さん。


 心の中で、伝わるはずもないミツへの謝罪を述べると、琉菜は部屋の前に着いたのでからりと襖を開けた。


「どうかしましたか?」沖田が琉菜の顔をじっと覗き込んだ。

「えっ、どうかって……?」

「なんだか、浮かない顔してますよ。姉に何か言われましたか?」

「いえ、ただ、弟を、沖田さんをよろしくって……」


 あたしは本当に、お姉さんによろしくって頼まれていいだけの人間なのかな?


 言いながら、そんな不安も脳裏をよぎる。


「姉は、庄内に行くんだそうです。もしかしたら、私はもう二度と姉には会えないかもしれません」


 沖田が大して気にもとめていないような調子で言うので、琉菜は少し拍子抜けした。


「寂しくないんですか?」

「そりゃあ寂しくないといったら嘘になりますけど。でも、会えないかもっていうのはもうずっと前から思ってましたから、今日会えただけでも運がよかったと思ってます」

「沖田さん……」

「いいんです。京にいる間だって、姉上は遠く江戸から私の身を案じてくれていました。同じことです。それに」


 沖田はちらりと琉菜を見た。


「なんですか?」琉菜は興味津々で尋ねた。


 沖田は答えようとしたのか口を開いたが、気まずそうな顔をして押し黙った。


「なんでもありません」

「えっ、気になるじゃないですか」

「大したことじゃないですから。いや、大したことないっていうのはちょっと語弊がありますかね」

「だから、なんのことなんですか」


 半ば怒ったような表情を見せ始めた琉菜に、沖田は聞こえるか聞こえないかといった程の小さな声で、ぽつりと言った。


「――」

「え?」

「だから、寂しくなんかないですよ」

「ちょっと、最初の方聞こえませんでした。もう一回言ってください」

「それはできない相談ですっ。お茶、ありがとうございます」沖田はお茶を飲もうと体を起こし、湯飲みを手に取った。


 琉菜は「まったく」などと言いながらもう一つの湯飲みを口に近づけた。


 琉菜が沖田に「もう一回言ってください」と頼んだのは聞こえなかったからではない。


 ――琉菜さんが、いますから。


 その言葉を、文字通りもう一回聞きたかったからである。



 あたしの方が沖田さんから励まされるみたいになっててどうすんの。


 沖田さん、あたしだけは、どこにも行かないよ。

 最後の最後まで、あなたの側にいる。







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