32.最後の行軍(前編)
嵐の前の静けさともいえる、派手な戦のない日々が過ぎていった。
近藤、沖田は浅草・今戸にある松本良順の診療所で療養生活を続けていて、琉菜は二人の世話役にあたっていた。
土方ら他の隊士は品川や横浜をいったり来たりしながら、来たるべき戦にそなえ稽古に励んだり、隊士の募集に奔走していた。
そんなある日、琉菜は近藤の部屋で松本の検診に立ち会っていた。
「近藤さんは、そろそろ大丈夫ですね」
「それじゃあ、もう戦に出られるんですか」近藤は声を弾ませた。
「ええ。ですが、無理は禁物です。前線で戦うというよりも、指示役が適任でしょう」松本が微笑んだ。
「それと、あとで勝先生の使いの方がこちらにいらっしゃるとの伝言を受け取りました」
「勝先生が!?」
嬉しそうな表情を見せる近藤とは裏腹に、琉菜は複雑な思いでその話を聞いていた。
たぶん、甲陽鎮撫隊の話だ……
勝海舟の思惑を知っているだけに、琉菜は近藤と共に喜ぶことはできなかった。
江戸での戦を避けたい勝海舟にとって、血気盛んな新選組の存在は邪魔でしかなかった。
彼は甲陽鎮撫隊の名のもとに、近藤へ甲府に行くことを命じ、勝ったら甲府城を譲り渡すというのだ。
むろん、江戸で戦など、ないに越したことはない。どれだけの関係ない民衆が巻き添えを食らうかわからない。
勝は恐らく、「戦はいかん」という、少し未来的な考えを持つ者だったのだろう。それでも新選組贔屓の琉菜にとって、新選組をないがしろにするような甲陽鎮撫隊の指令は諸手を上げて賛成できるものではなかった。
「琉菜さん?沖田さんの検診をしますから、これを運んでおいてもらえますか」
松本にそう言われ琉菜は我に返り、「はい」と返事をすると医療道具の箱を持って部屋を出た。
数日後、案の定近藤は江戸城に呼ばれた。
こんな世情でなければ、農民出身・一介の道場主であった男が登城を許されるなど、赤飯を何合炊いても足りないくらいめでたいことだ。
だが、こんな世情だからこそ呼ばれたのである。そしてそれは、皮肉なことに手放しで喜べるものではなかった。
江戸城に呼ばれただけじゃない。たぶん、局長は今、勝海舟に直々に呼ばれて、「甲府を取れ。取れたら、一国一城の主だ」なんて言われて。喜んでるだろうなあ。
幕府にどんな思惑があろうと、甲府を取れば近藤局長は大名だ。
この先、大名の地位なんて意味がない時代になっても、局長は大名なんだ。
琉菜はそんなことを考えながら、上の空で沖田の看病をしていた。
もし、そんな大望を叶えたら、近藤局長や土方さんはどうなるんだろう。
……考えるだけムダ、か。
溜め息をついて、沖田の額に乗っていた手ぬぐいを取り上げた。
「どうかしましたか?」沖田が布団の中から尋ねた。
「いえ、なんでも」
ピピッという音がして、沖田が懐から体温計を取り出した。
「うわあ、微妙。三十七度四分です」琉菜は顔をしかめた。
「どうします?少し庭でも歩いて外の風に当たりますか?」
「……いえ。今日は、このままここにいます」
前は、「じゃあ素振りしてきます!」って即答してたのになあ……
という思いはもちろん胸の内にしまい、琉菜は「そうですか」と力なく言って体温計をしまった。
その時、玄関口が俄かにバタバタとし始めた。近藤が帰ってきたようだ。
「総司、調子はどうだ?」
近藤は部屋に入るなり琉菜の隣に腰を下ろすと、勝との話を長々と語って聞かせた。
やはり、甲府に行けという指令を受けていた。それを、もう勝ったかのような笑顔で話している。
「明日は、トシたちの方に行って、このことを伝え、戦の用意をしてくる」
「はい。……近藤先生」
沖田は近藤の目を真っすぐに見た。
「おめでとうございます。ご武運を」
「ああ。お前は、しっかり養生しろ。総司の敵は、病だからな」
「はい。もちろんです」
沖田は、ふっと微笑んだ。その笑顔が、なんだか今にも消えそうな儚さを帯びていて、琉菜はドキリとした。
京都時代からそうであったように、新選組は迅速に軍備を整えると甲陽鎮撫隊として甲府へと出発した。途中で援軍を集めながら進軍するらしい。
という部分までしか、琉菜は沖田へは伝えていない。
移動のルートやスケジュールを聞いてはいたが、琉菜は黙っていた。
史実によれば、沖田は病の体をおして日野のあたりまで行軍を追いかけるものの、結局体調が悪化し江戸に帰ることになる、というエピソードがある。
このわかりやすく沖田の寿命を縮めるような話を、琉菜は阻止したかったのだ。
もっとも、そのエピソードがそもそも本当なのか、琉菜には疑わしかった。何しろ、沖田の顔色はもうずっと血の気がなく、青白い。
こんな顔色で、歩くのも頼りないっていうのに、本当に日野の方まで行けるの……?
琉菜は半信半疑で、沖田の額に乗せた手ぬぐいを取り換えた。
「甲府までどうやっていくんですかねえ?日野は通るのかなあ」沖田は世間話のような調子で尋ねた。
「さあ……あたしのいる時代では道の様子もだいぶ変わっていますからねぇ……」琉菜ははぐらかした。
「薬、もらってきますね」
これ以上何か聞かれたらまずいと思い、琉菜はひとまずこの場を離れたくてそう言った。
もっとも、薬をもらいに行く時間というのは本当だったが。
翌朝、琉菜が食事の膳を持って沖田の部屋に行くと、何やら様子がおかしかった。
やけに、静かだ。
「沖田さん、朝ご飯ですよ」
嫌な予感がしつつも、琉菜は普通に声をかけ、襖を開けた。
「マジか……」
布団はもぬけのからだった。
昨日まで枕元にあったはずの刀も、なかった。
***
恐らく、沖田は甲府に向かったに違いない。今思えば、甲陽鎮撫隊に参加するという近藤の話を聞く沖田の顔は、なんだか羨ましそうなものだった。
これまでは近藤の護衛という大義名分に甘んじて大人しく療養していたが、近藤の怪我が快方に向かい、戦に出ようという今、自分だけがのんびりしてはいけないと思ったのだろう。
でも、どうやって?
あの体で甲府……そもそも新宿にすら行けないだろうに……
駕籠を使うしか、ないよね。
琉菜は、誰もいないのに「失礼しますよ」と声をかけると、部屋の隅に置いてあった沖田の行李を開けた。
財布と、防寒用の羽織がなかった。
目立って女遊びをすることもなく、特に体調を崩してからは金を使うことなどほとんどなかったから、かなり貯まっていたはずだ。長距離用の駕籠で近藤たちに追いつくことも不可能ではない。
琉菜は早速松本に知らせた。
「沖田さんが出て行った?」さすがの松本も狼狽しているようだった。
「たぶん……甲府に……」
「甲府!?ご冗談でしょう」
「でも、それしか考えられないんです。あたし、このあたりの駕籠屋さんに片っ端から話を聞いてきます!」
「あっ、琉菜さん!」
松本の言葉を待つ前に、琉菜は外へと飛び出していた。
沖田が抜け出したのは、遅くとも夜明け前。そんな時間に営業している駕籠屋は限られる。宿場町との行き来を主にしているところを当たれば、何か手がかりが得られるのでは、と琉菜は甲州街道のスタート地点・日本橋へ向かった。
いざ着いてみると、琉菜は日本橋の活気に「わあ」と息を飲んだ。未来では高速道路に上空を塞がれてあまり「橋」っぽくない雰囲気であるが、この時代の日本橋はまさに交通の要衝、たくさんの人が行き来する日本有数の「橋」として堂々たる風情であった。ゆっくり観光している場合ではないが、歩いているだけでもなんとなく情緒が感じられる。
すでに浅草から歩いてきて体力を消耗していたが、琉菜は目ぼしい駕籠屋をあたり始めた。
だが、何軒か回ってみたものの手がかりはなかった。そんな中で、数軒目に当たった店の店子にこんなことを言われて琉菜はハッとした。
「沖田総司って、新選組の人間だろ?お嬢ちゃん、そんなやつ探してるなんて触れ回らない方がいいぜ。江戸のやつらは割かし新選組の味方するやつが多いけどよ、今は新選組憎しの人間だってごまんといるさ。沖田総司だって、それをわかってて偽名でも使ってんじゃねえか?」
そうだ。なんでそんな当たり前のことに気づかなかったんだろう……
あたし本当、密偵とか向いてない……
慌てて、そして焦るあまり、そういう可能性に考えが及ばなかった琉菜ははぁ、と短くため息をついた。
「そ、それじゃあ、聞き方を変えます。昨日、亥の刻以降に来たお客さんの中に、背がひょろっと高くて、えーと、六尺寄りの五尺です。顔色は青白くて、骨ばって細くて……」
言いながら、なんだか悲しくなってきた。壮健で、重い木刀をぶんぶん振っていた沖田の姿を知っているだけに、今自分が説明している男は本当に「沖田総司」ではない別の誰かなのではないかという気さえしてくる。
「ああ、それなら、この人じゃねえかな」
店子は記名簿を取り出した。彼が指さした欄には、琉菜がよく知っている名前が書いてあった。
――中富新次郎
「ははっ……嘘……なんで……?」
言いながら、琉菜は目頭を抑えた。沖田がなぜこの名前を偽名に選んだのかはわからない。だが、何年も前に沖田の前から消えた人物を、こうして思い出してもらえたことが、琉菜の胸をじんわりと温めた。
「この中富っていう人、どっちに行きましたか?」
「ああ、なんだか、甲州街道経由で甲府を目指してくれって」
「あたしも、同じ道でお願いします。超特急の早駕籠で!」
「ちょうとっ……?まあ、とにかく急げってこったな。任せろ」
琉菜は早速駕籠に乗り込んだ。




