24.翻弄
何時間も経った気がした。
しかし、実際には数分しか経っていないのであろう。
血の臭いが鼻をつき、目からはまだまだ涙があふれ、頭の中には藤堂の最期の姿が焼き付いていた。
琉菜は頭の上に暖かい重みを感じた。
沖田が琉菜の頭に手をのせていた。
「沖田さぁん……」琉菜は泣き声のまま言った。沖田は、何も言わなかった。ただ、先ほど見せた生き生きとした表情はもう鳴りを潜めていた。
琉菜は着物の袖で涙をぬぐった。
そして、視界がはっきりした時、沖田が突然手で口をバッと抑えた。
それから大きくて嫌な咳をしたかと思うと、ゴフッと血を吐いた。
暗闇でも、地面が赤く染まるのがわかった。
「沖田さん!」
「総司!!」
近藤らが駆け寄ってきた。
琉菜は沖田の背をさすり、道の端に連れていった。その場にしゃがませ、様子を見守る。
駄目だった。
やっぱり、沖田さんを連れてくるべきじゃなかった?
藤堂さんも救えなかった。
沖田さんの寿命が、もし縮んだら?
再び泣きそうになる琉菜だったが、土方が語気を強めて「琉菜!」と名を呼んだので我に返った。
「総司を連れて早く帰れ!こっちの後始末は任せろ」
「はい!」琉菜ははっきりと返事した。
「土方さん、私なら大丈夫ですよ」沖田は息を切らせながら言った。その顔色は全く大丈夫そうではなかった。
「沖田さん、帰りましょう」
沖田は口のまわりについた血を着物の袖でぬぐうと、「しょうがないなあ」と微笑んだ。
琉菜は沖田を立たせ、土方らに後を託して屯所への道を歩きだした。
「琉菜さん、一人で歩けますよ」
「嘘つかないでください!そんなにふらふらしてるくせに!」
琉菜は沖田の腰のあたりを支えながら、緊張に張り詰めた面持ちで夜道を歩いていた。
「それに……ごめんなさい、沖田さん」琉菜は不意に言った。
「どうしたんです?」
「やっぱり、止めればよかった。沖田さんに無茶させて、結局藤堂さんも……あたしが、藤堂さんを助けてくださいなんて頼まなければ、もしかしたら……」
「また泣くんですか?」沖田は柔かい口調で言った
「あなたももういい大人でしょう。そんなに泣き虫じゃ困りますよ」沖田は青白い顔で微笑んだ。
「まだ泣いてません!」琉菜は意地になって言った。沖田を支える手に力がこもった。
沖田はそんなことは全く気にかけず、少し遠くを見つめた。
「私は、琉菜さんに感謝していますよ。最期に、藤堂さんに会えましたし」
これでも抑えていた涙が、堰を切ったようにあふれ出た。
「なんで、こんな時に、そんなこと言うんですかぁ!」
沖田の看病をしなければいけない立場だというのに、慰められ、元気づけられ。
己の情けなさを呪うとともに、沖田の精神力にただただ舌を巻く琉菜であった。
久々に盛大に血を吐いた沖田は、それからあまり部屋を抜け出して巡察に参加するようなことをしなくなった。
もう、そんな余裕は残っていないのだろう。
琉菜は、探し回って連れ戻す手間は省けたが、前よりも土気色になった沖田の顔を見ていると、逃げ回ってくれる方がマシだとさえ思うようになった。
永倉が一番隊と二番隊両方を指揮するようになり、道場で沖田が稽古をつける姿は見られなくなった。
そんな中、ついに幕末という時代が大きく動きだした。
王政復古の大号令が出されたのだ。
これで、政権は完璧に朝廷側にうつり、徳川幕府は名実ともに消滅した。
当然、新選組にも大きな影響が及んだ。
「そうですか、幕府はなくなったんですか」沖田は力つきたように言った。
琉菜はそんな沖田をじっと見つめながら、お粥を置いた。
「食べられそうですか?」
「当たり前です。だいたい、そんなに病人扱いしないでくださいよ。私なら元気ですから」
土気色の顔でそう言う沖田が、琉菜にはいっそう痛々しく思えた。
「総司、入るぞ」近藤の声がした。
沖田が返事をすると、近藤は障子をカラリと開けて入ってきた。
「ああ、琉菜さんも。ご苦労さまです」
「いえ……」
近藤は琉菜の横に座った。
「どうだ、調子は」
「いいですよ」沖田は明るく言った。
「そうか。……総司、時勢は動いた」近藤は少し言いにくそうだった。
「ええ、琉菜さんに聞きました。王政復古の大号令がでたって」沖田はけろりとしていた。
「その通りだ。薩長は武力を持って徳川家をつぶし、一気に新政府を作ろうとしている」
琉菜はそのあとの近藤の話を黙って聞いていた。
本で読んだとおりの歴史が、今ここで起こっている。
「上様は大阪城に入られた。我々は二条城の留守居を守ることになった。名前も、新選組ではなく新遊撃隊に改められた」
「新選組は、なくなったんですか……」沖田の表情が曇った。
「そういうことじゃない。ほら、壬生浪士組が新選組に変わったときのようなものだ。名前は変わっても、我々のやることは変わらない」
沖田は安心したように微笑んだ。
「二条城か……じゃあ支度しなくちゃいけませんね」
「お前が出ることはない。永倉くんたちに任せておくから、総司はゆっくり休みなさい」
その言葉を効いて、沖田は何も言わずに、ただ不満そうな顔をして、近藤を見つめた。
近藤は、何か言いたげだった。
だが、言わずに部屋を出ていってしまった。
結局、「新遊撃隊」の名前はわずか数日で返上し、あっと言う間に慣れ親しんだ「新選組」に戻った。
この、なんともフラフラとした感じが、もう今まで通りではいられないのだということを象徴しているようで琉菜はなんともいえない不安感に襲われた。
だが、それを顔に出せば沖田にも伝播し、体調にもよくない。
琉菜は努めて明るく振舞おうとしたものの、琉菜の努力だけでは時勢の変化を隠し通すことはできなくなっていた。
このころ江戸において、いわゆる「薩摩御用盗」と呼ばれる、結局は武力で徳川を倒さんとする薩摩の息のかかった者たちによる同時多発的な暴動があった。
最初はそんな焚き付けには乗らないとしていた旧幕府であったが、幕府側にも武力で薩長討つべしとする勢力はあり、見事そちらの勢力にとっては口実となってしまった。
ついに慶喜は戦の準備を始める許可を出した。
新選組も例に漏れず、伏見奉行所に入って軍備を整えることになった。
という旨を、隊士全員の前で近藤が話した。
琉菜はそれを話半分に聞いていた。
いよいよ、”幕末”も最後の段階に入ったんだな……
これからの新選組に、今までみたいな日常はもう来ないかもしれない。
戦が始まる。
みんなが、屯所で竹刀をふったり、のんびり非番を過ごしたり、巡察に出たり、そんな日常は、もうやってこないんだ。
琉菜には、今のうちにカタをつけておきたいことがあった。大部屋での近藤の話が終わったあと、琉菜は副長室に行った。
「何の用だ?」土方はぶっきらぼうだった。
無理もない。
時勢は大きく動いている。
新選組副長ともなれば、目の廻る忙しさだ。
「土方さんが忙しいのはわかってます。でも、これから伏見に行くんなら、もっと忙しくなると思って……」
琉菜は息を吸った。
「あたしと、勝負してください」
土方は目を丸くして琉菜を見た。
「そういえば、そんなこと言ってたな。だが俺は今忙しいんだ。お前の相手してる暇はねえ」
「そんなこと言わずに……!伏見に行ったらそれどころじゃなくなっちゃうかもしれませんし。十分……いや五分で終わりますから」
「その『分』てのはなんだ」
「いや、えーと……四半時のさらに半分くらいです」
土方は考え込むような仕草をした。それから、やがて「しょうがねえな」と呟いた。
「伏見に向かって出立するのは四日後だ。その前日。三日後の午後の稽古の時に道場に来い」
「ありがとうございます!」琉菜はぱっと笑った。
琉菜は副長室を出ると、道場に直行した。
絶対に、勝つ。
その日のために、あたしは稽古を重ねてきた。
未来でも、日本一の女子高生になるまでがんばった。
今なら、きっと勝てる。
誰もいない道場で、琉菜は木刀を振っていた。
明かりはろうそくの火だけ。
視界は悪いが、そんなことはおかまいなしに琉菜は一心不乱に素振りをしていた。
あと三日で何かが変わるとは思えないけど、あと三日だけがんばって、あたしの技を完璧にしてやる。
そうして稽古をしていると、誰かが道場に入ってきた気配がした。
「稽古は順調ですか?」
「沖田さん!?」
琉菜は木刀を放り出して駆け寄った。
「今日は熱があるんですから、寝てなきゃダメじゃないですか!どうしてここに?」
「厠に行こうと思ったら、副長室から琉菜さんの声がして、その、すいません、立ち聞きしちゃって……」
「そんなことどっちでもいいんです!早く寝てください!」琉菜は沖田ににらむような視線を浴びせた。
「寝ませんよ。今日は、琉菜さんにとっておきの稽古をつけてあげようと思って」
薄暗い中でも、沖田が微笑んでいるのがわかった。
琉菜は不思議そうな顔で沖田を見つめた。
「とっておき……?」
「はい。琉菜さんに、天然理心流の必殺技を教えてあげようかなって」
琉菜は黙りこくった。
沖田が修めた天然理心流。
もちろん、習ってみたいとは思う。
だが、それは沖田に無理をさせることとなる。
だったら、断固断るべきだ。
「無理です。沖田さんに無茶させるわけにはいきません。それに、どーせあと三日でできるわけないし」琉菜はぷいっと顔を背けた。
「大体、教えてくれるなら、なんでもっと早く、元気なうちにそうしてくれなかったんですか。いきなり今日から始めたって、何にもいいことありません」
「すいません……琉菜さん、最近ますます強くなってきてたから、そのままでも大丈夫かなぁ……とか……」沖田は気まずそうに言った。
「でも、実際土方さんと勝負するとなったら、やっぱり飛び道具を一つ持っておくのもいいんじゃないかなって。だってほら、土方さんは琉菜さんの太刀筋は何度も見てますから。ここは、土方さんの知らない琉菜さんの剣を身につければ、意外性が出て、隙ができるかもしれませんよ」
とうとうと説明する沖田を琉菜はじっと見つめていたが、しっかり聞いているわけではなかった。
「お気持ちはありがたいですけど、部屋に戻って寝ててください。天然理心流なら今度別の人に教わりますから」
「それじゃあ試合に間に合わないでしょう」
「もともと間に合いませんよ」
「そんなこと言わずに。半時だけ。ね?」
なぜか教える側の沖田が「お願い」と手を合わせているのを見て、琉菜はなんだか可笑しくなってきた。
「じゃあ、沖田さんは一切動かないで下さい」にらみあいの末に、琉菜は名案だとばかりに言った。
「奥に座ってもらって、口だけであたしにやり方を指示してください。そしたら、あたしは勝手に動きますから」
「それで大丈夫なんですかね……」
「もともと大丈夫なわけないんですよ、三日で天然理心流を身につけるなんて。よくもそんな突拍子ないこと……」
琉菜はぶつぶつと言ったが、やがて木刀を持ち直して道場の真ん中に立った。
沖田はその横に座り、琉菜に指示を出した。
「理心流の得意とするところは、構えと突きです」
そう言って、沖田は立ち上がって構えて見せようとしたので、琉菜は慌てて沖田を座らせた。
「あたしがやりますから、沖田さんは口出しだけしてください」
そんなやり方でやったので、稽古は難航した。
しかし、一時間も稽古を続けると、なんとなくそれっぽい形にはなってきた。
「物覚えが速いですねぇ」沖田は感心したように言った。
「そんなことないです。さすがは長く稽古をつけてこられただけありますね。口だけでこんなに教えるのがうまいなんて」琉菜はにっこりと笑った。
「あと三日がんばります。でも、沖田さんは寝ててください。今日教えてもらったことは、いざという時にフェイント……カマかけるのに使わせてもらいます。それで、三日後は、道場に応援しに来てください」
沖田はしばらく心配そうに琉菜を見つめていたが、やがて「わかりました」と立ち上がった。
その時、沖田がふらりとよろけたので、琉菜は慌てて支えた。
ああ、もう何やってんだあたし。やっぱり、稽古なんて断固断ればよかったんだ。
こんな寒い道場に一時間も沖田さんを座らせたら、それだけで体に障る。
わかりきってたはずなのに……
ごめん、沖田さん。
「もしかして、やっぱりやめればよかったとか、思ってますか?」沖田が聞いた。
「そんなこと……」琉菜はたじろいだ。
「いいんです。私が全部勝手にやってることなんですから、琉菜さんは自分を責めないで下さい」
「はい……」
しばらくの沈黙のあと、琉菜は沖田の顔を見上げていった。
「沖田さん、あたし、絶対に勝ちますから」
「はい。がんばってくださいね」
沖田の表情は晴れやかだった。それを見た琉菜は、沖田の教えを無駄にしないよう、自主稽古に励むことを誓うのだった。




